昼過ぎ。

 主婦は買い物に出るふりをして、家を出た。


 玄関の鍵を閉めた瞬間、胸の奥で何かが

 きしむ。

 娘の視線を背中に感じたまま、振り返ること

 はできなかった。


 守るために黙った。ずっと、そう思ってきた。


 けれど本当は――

 言えなかっただけなのかもしれない。


 歩道の端で立ち止まり、スマホを握り直す。

 通知はない。それなのに、指先が冷たい。


 「……奥さん」


 声をかけられ、主婦は肩を震わせた。


 振り向くと、若い女が立っていた。

 清楚な服装。控えめな化粧。

 けれど、その目だけが妙に澄んでいる。


「“どちらさま”って、便利な言葉ですね」

 女は小さく笑った。「知らないふりができる」

 背中に汗がにじむ。


 女は、スマホの画面を差し出した。

 そこに映っていたのは――

 ホテルのベッド。乱れたシーツ。

 散らばる衣服。

 そして、女物のネックレス。

 R

「これ、あなたのですよね?」


 主婦の喉が鳴る。

 否定の言葉は、唇の奥で崩れた。


「安心してください」女は淡々と言った。

「責めに来たわけじゃない」

「じゃあ……何?」


 女は一瞬だけ、主婦を見つめる。


黙る理由を、確かめに来たんです」


 心臓が強く打った。


 守ってきたのは、娘。そう思っていた。

 夫のことも、あの夜のことも、

 すべては“家族のため”だと。


「あなたは、誰を守ってるんですか?」


 娘の顔が浮かぶ。

 夫の背中が浮かぶ。

 そして――

 あの夜、優しく笑った男の顔。


 答えられない主婦に、女は静かに言った。


「それは、守ってるんじゃない」

逃げてるだけ


 その言葉が胸に刺さった瞬間、

 主婦のスマホが震えた。


 《見つけた》


 短い通知。

 送り主は不明。


 画面から顔を上げると、

 女はすでに距離を取っていた。


「沈黙は、味方じゃないですよ」

 女は振り返らずに言った。

「沈黙は――誰かの武器になります」


 そう言い残し、人混みに消えていく。


 その夜。


 主婦が家に戻ると、

 玄関のポストに青い封筒が一通、入っていた。


 差出人欄には、たった一文字。


 R


 封を切ろうとした、その背後で、

 娘の声がした。


 「……開けないで」


 振り向くと、娘が立っていた。

 その目は、もう“何も知らない子ども”のものでは

 ない。


 「それ、開けたら」

 娘は言った。

 「……もう戻れない」


 主婦の指が、封にかかったまま止まる。


 沈黙が、家の中に落ちた。


 ――誰のための沈黙だったのか。


 その答えは、

 まだ、封筒の中にある。