主婦は、青い封筒をテーブルの上に置いたまま、  

 動けずにいた。

 

 指先に残る紙の感触が、まだ消えない。


 開ければ終わる。

 開けなければ、続く。


 その二択が、胸の内で何度もぶつかり合った。


 「……お願い。今は、開けないで」


 娘の声は小さい。

 けれどその一言だけで、主婦は息を止めた。


 理由を言わない沈黙。

 それが、ただの恐怖ではないと分かってしまう。


 ――この子は、もう“何も知らない側”じゃない。


 主婦は、封筒からそっと手を離した。


 沈黙が落ちる。

 時計の秒針だけが、家の中を刻んだ。


 「……あなた、何を知ってるの?」


 主婦が問うと、娘は視線を伏せたまま、スマホを

 取り出した。

 画面には、保存された動画。


 夜の街。

 郵便ポストの前。

 青い封筒を握る、誰かの後ろ姿。


 ――主婦自身だった。


 「これ……誰が撮ったの……?」


 娘は首を横に振った。


「わからない。でも、これ……私に送られてきた」

「私だけに」


 主婦の背筋を冷たいものが走った。

 送り主は、主婦ではなく娘を“選んだ”。


 娘はメッセージ欄を開く。

 そこにあったのは、短い一文。


 《守りたいなら、黙って》


 「……R?」


 主婦が呟くと、娘の指が止まった。


 「名前じゃないと思う」

 「合図みたいに見える」


 合図。誰への? 何のための?


 主婦はテーブルの封筒を見る。

 差出人欄の“R”が、無言でこちらを見返してくる


 そのとき、主婦のスマホが震えた。


 《選ばせてあげる》

 《開けるか、黙るか》

 《どちらも、正解じゃない》


 主婦は喉の奥で、小さく息を詰めた。


 「……試されてる」


 娘が言った。

 主婦は黙って頷いた。


 封筒の中身よりも恐ろしいものがある。

 それは――


 誰が“開封”を望んでいるのか。

 誰が“沈黙”を利用しているのか。


 窓の外。

 向かいのマンションの暗がりで、光が一瞬だけ

 揺れた気がした。


 スマホの光。

 あるいは、視線そのもの。


 主婦は立ち上がり、

 青い封筒を引き出しにしまった。鍵をかける。


 「今日は、開けない」


 そう言うと、娘は小さく息を吐いた。

 安心か、それとも――次の段階に進んだだけか。


 その夜。


 家の灯りが消えたあと、

 誰かが画面に文字を打ち込んでいた。


 《次は、娘》


 送信。


 主婦の知らない場所で、

 ゲームの盤面が静かに更新される。


 ――封筒は、まだ開かれていない。

 けれど、もう“誰も安全ではない”。