沈黙は、音がないだけで、

決して「何も起きていない」わけではない。


主婦は、キッチンの椅子に座ったまま動けずにいた。

テーブルの上には、あの青い封筒。

まだ開けてもいないのに、

中身の重さだけが、確かにそこにある気がした。


時計の秒針が、かすかに音を立てて進む。

その音が、やけに大きく感じられた。

この家には、彼女しかいない。

それなのに、ひとりではないような気配が消えない。


封筒に、触れない。

触れた瞬間、何かが終わってしまう気がした。


「……まだ、いい」


誰に向けた言葉でもない呟きが、

静かなキッチンに落ちる。


封筒の色は、夜の光を吸い込むように濃い青だった。

差出人は、書かれていない。

けれど、彼女は知っている。

“誰か”が、確実に自分を見ているということを。


ポストに入っていた、あの感触。

指先に残る、紙のざらつき。

そして、スマホに届いた短い言葉。


《見ていた》


たった三文字。

それだけで、背中に冷たいものが走った。


誰が?いつから?どこで?


問いは次々と浮かぶのに、答えはひとつも掴めない。


主婦は、視線をテーブルの端に落とした。

そこには、イニシャル“R”のネックレスが置かれている。

照明の光を受けて、淡く反射する小さな文字。


一瞬だけ、心が軽くなった気がした。

それが――すべての始まりだった。


思い出そうとしなくても、記憶は勝手に浮かび上がる。


広すぎる家。単身赴任中の夫。海外にいる息子。

「恵まれている」と言われ続けてきた生活。


けれど、夜になると、この家は空っぽになる。


足音も、話し声も、

自分の呼吸さえ、どこか他人のもののようだった。


「寂しいね」


そう言われた夜のことを、

主婦は何度も頭の中でなぞってきた。


彼の声は、優しかった。

否定も、追及も、しなかった。

ただ、そこに“居てくれた”。


それだけで、十分だと思ってしまった。


――魔が差した。そう言えば、簡単だ。


けれど、本当は違う。

長い時間をかけて、

静かに、確実に、心は削られていた。


ネックレスを渡されたとき、主婦は断れなかった。


「似合うと思う」


その言葉を、信じたかっただけだ。


彼が眠りについたあと、主婦はネックレスを外し、

それを掌に握ったまま、そっと部屋を出た。


返すつもりだった。

けれど、返せなかった。


翌朝、彼はいなかった。


ネックレスは、まだ自分の手の中にあった。


それきりだ。


――のはずだった。


青い封筒が、

すべてを引きずり戻した。


主婦は、ようやく封筒に手を伸ばした。

けれど、指先が触れる直前で止まる。


怖いのは、中身ではない。


「誰が」これを送ったのか。

そして、「なぜ、私なのか」。


沈黙は、守りだった。

少なくとも、ここまでは。


だが、その沈黙が、

誰かにとっては“待っていた時間”だったとしたら。


背後で、微かな音がした。


主婦は、振り向かなかった。