主婦は、封筒を開けなかった。
それは勇気ではなく、
ただの先延ばしだったのかもしれない。
青い封筒は、まるで意思を持つかのように、
テーブルの上で静かに存在感を放っていた。
開けなければ、まだ“知らないまま”でいられる。
知らなければ、罪も、選択も、確定しない。
主婦は、ネックレスを手に取った。
指先に触れる金属は、ひんやりとしている。
イニシャル“R”が、照明を受けて淡く光った。
――返すつもりだった。
あの夜、彼が眠りについたあと、
主婦はネックレスを外し、
それを掌に握ったまま、そっと部屋を出た。
返すつもりだった。本当に、返すつもりだった。
けれど、返せなかった。
翌朝、彼はいなかった。連絡も、言葉も、何も残さず。
ネックレスだけが、主婦の手元に残った。
それきりだ。
主婦は、ゆっくりと視線を上げた。
窓の外は、すでに夜の色を帯びている。
向かいのマンションの灯りが、ぽつぽつと点き始めて
いた。
――見られている。
根拠はない。けれど、確信だけはあった。
スマホが、再び震えた。
画面に表示されたのは、見知らぬアカウント。
《沈黙は、あなたを守らない》
短い一文。それだけで、心臓が強く脈打つ。
主婦は、返信しなかった。既読もつけず、
ただ画面を伏せる。
沈黙を選んだのは、逃げるためではない。
まだ、語る準備ができていなかっただけだ。
その頃――
別の部屋で、少女はベッドに座り、
スマホを見つめていた。
画面には、拡散され始めた投稿。
《#青い封筒 #罪を告げる声》
少女の喉が、ひくりと鳴る。
――動き出した。
自分が投函した、あの一通。
それが、
こんな形で波紋を広げるとは思っていなかった。
けれど、もう引き返せない。
少女は、引き出しを開けた。
その奥に、小さな布袋。
中には、見覚えのあるネックレス。
“R”。
あの夜、父の部屋に残されていたもの。
持ち去ったのは、誰だったのか。
置いていったのは、誰だったのか。
少女は、まだ知らない。
ただひとつ、確かなことがある。
――この沈黙は、いつか必ず、誰かを傷つける。
だからこそ、誰かが語らなければならない。
そのとき、スマホに新しい通知が届いた。
差出人は、不明。
《開けたのは、誰?》
少女の指が、止まる。
同じ夜、同じ問いが、
別々の場所で、静かに突きつけられていた。
封筒を開けた者。沈黙を守った者。
そして、見ていた者。
真実は、まだ語られていない。
けれど――沈黙は、
もう限界だった。