「もう、わかんない、わかんない」

リビングの壁を蹴って娘が叫んだ。愛犬のナツが即座にリビングのソファの下に潜り込む。娘の狂気を察したのだろう。

「わかった、じゃあ風香、もう一度図に書いて考えてみようか」

「私、図を書くの嫌い!ママの解き方大嫌い!」

また壁を蹴る。

「わかった、じゃあ塾の先生に解き方を聞こう」

「やだ!塾の先生には聞きにくい!上から目線んでムカつく!」

「わかった、じゃあママが別の解き方考えるからソファーで待っていて」

娘はテーブルから立ち上がると地団駄を踏んでからソファーにゴロンと寝そべった。そのまま顔をソファーにうずめて動かなくなった。私は塾の解答冊子を睨む。解答は式がさらりと3行書かれてあるが、あまりに簡易すぎて理解が及ばない。塾のテキストの解説はもう少し詳細にできないものなのだろうか。ああ、お手上げだ、そう思ってソファーを見ると風香の背中がゆっくりと上下に動いていた。最近は朝早く起きて勉強していたし寝不足だったのだろう。私より背が高くなった風香を担いでベットまで運ぶのは無理だと思い膝掛けをそっとかけた。

 夏休みが終わって1ヶ月が過ぎた。夏休み明けの模試の偏差値は思うように伸びず、焦りが募るばかりだ。風香はわからない問題があったらイライラし、壁を足で蹴って大きな音を鳴らすようになった。やめなさい!と大声を張り上げても全く聞く耳を持たない。

「わからない問題はお宝なのよ!風香は今、お宝を見つけたのよ。イライラすることなんてない、一緒に解こう」

その言葉が聞こえないくらい壁を蹴って大きな音を出す。初潮を迎えて6回目には過多月経となった。月経量が大量でしかも期間が長い。貧血にならないかと心配だったので婦人科に行くとホルモン剤と貧血の薬をもらった。貧血を予防しながら、女性ホルモンの過剰な分泌を一旦抑えるらしい。大人になる過渡期の時期だから身体のバランスも精神のバランスも崩れるのだ、と医者は言った。中学受験間近なので、生理を止めるとか、何とかなりませんか、という言葉が喉まで出かかったが、慌てて口をつぐんだ。中学受験のため視野狭窄になった異常な親だと思われるのが関の山だ。かつてはあんなにも素直に、真面目に塾の勉強に取り組んでいた風香が受験の直前期になって体と心のバランスをくずし、母親に当たり散らすなんて。お願いだから初潮を1年遅らせて欲しい、このままでは今までの努力も金銭も時間も水泡に帰してしまう。それだけでない、娘との大切な絆もこのままでは無くしてしまいかねない。

 風香が脱ぎ捨てた靴下がテーブルの下に散らばっている。中学受験をすると決めてから、お手伝いはほとんどさせなくなった。下敷き取って、消しゴム取ってと言われれば、私は奴隷のように素早く動く。娘の受験に役に立てるのなら何だってする、そんな気持ちだった。だけど奴隷を勝ち取った主人の命令はエスカレートしていった。ハンバーガーが食べたい、宅配ピザが食べたい、机の上を掃除しろ、靴下を履かせろ。私が言うことを聞くことで娘の精神が安定するのなら、お安い御用だと命令に従い続けた。だが、反抗も命令も精神の不安定さもエスカレートするばかりで私が奴隷のように立ち回っても何ら解決することはなかった。


 「ただいまー」

夫の疲れた声が玄関から聞こえた。

「ああ、おかえりなさい」

私は我に返り立ち上がろうとした途端、眩暈がした。

「大丈夫か?」

夫は私の腕を掴んだ。

「ええ、大丈夫。さっきまで風香と・・・」

私は風香が起きていたらいけないと思い、夫に目配せをした。

「ああ、そうか。夕食温めたりは自分でするから横になってていいよ」

夫は冷蔵庫からビールを取り出して一口飲むとご飯を茶碗に入れテーブルに並べた夕食を食べ始めた。私はテーブルの椅子に腰掛けた。

「今日も反抗がひどかったか?」

夫は風香がソファで寝ているのにお構いなしに話し始めた。私は風香の前で風香のことを悪く言うのは憚れたので深く頷くだけにした。

「大丈夫だよ、ご覧のようにぐっすり眠っているよ。また壁を蹴ったんだろう。ここ、凹んできてるもんなあ」

夫は凹んだ壁を手でさすった。

「ママの一生懸命さには脱帽するけど、中学受験に固執しすぎて盲目になってしまっていないか?」

夫は冷えたままの肉じゃがをつまんでいる。「最近の風香の反抗は度が過ぎていると思うよ。それに耐えているママも度が過ぎていると思う」

私は泣きたくなった。全ては中学受験のため、仕方ないのだ、と心の中で呟いた。

「ママ。ママが風香を産んだ直後に言った言葉、覚えている?」

何を言い出すのだろう、と思い夫を見つめたが、夫は下を向いたまま肉じゃがをしきりにつまんでいる。

「自分が風香を産んだのに風香を産んだ瞬間、自分が生まれた意味を知ったんだ、って言ってたよな。風香に会うために私は生まれてきたんだとわかったって。ママは風香との出会いを自分の人生の目的だとまで思ったんだよ。なのに、中学受験ごときで風香との健全な親子関係を崩してしまっていいのか?」

生まれた瞬間の風香の顔が浮かんだ。風香は羊水を飲み過ぎて、苦しくて、思うように泣けず、だけど私の胸の上で私の乳房を探し母乳を飲もうとしていた。助産師が手を貸すと乳首に吸い付いた。ありがとう、という言葉が私の口から思わずこぼれた。でもそれは生まれてきてくれてありがとう、ではなかった。はっきりと『私が生まれた意味を教えてくれてありがとう』と言ったんだ。

「中学受験なんて単なる通過点なんだよ。目的じゃないはずだ。だから、もう、思い切ってママは中学受験をやめるべきだと思う」

「私が?中学受験を?」

見上げると夫は私を見つめ返した。

「ああ、風香はやりたければ続ければいい。あと3ヶ月ほどだ。だけどママはもうやめたほうがいいよ。風香のために栄養のある食事を作る、身の回りのことをしてあげる、それだけで十分。」

夫はニカっと笑った。急に結論を突きつけられてすぐには受け入れ難かったが、夫の意見は的を射ているような気がした。もう、受験のために娘の感情の起伏にいちいちビクビクしなくてもよいのだと思うと安堵の念が心の底から沸き立った。

「でも風香だけで頑張るなんて到底無理だと思う」

「そうだな、でも本番の試験で門をくぐるのは風香一人なんだ。もう、ここからは一人でやっていく練習をしないといけないと思う。それでダメならそこまでだ。それに風香なら一人でも大丈夫だと俺は思っている。風香を信じよう」

ソファで眠っている風香の背中が細かく震えているような気がした。私は深いため息をつくと

「本当に、そうね、風香なら大丈夫ね」

と呟いた。