『自分で見た物のみ信用する』という自分の性格上、どれが正しいとは決めてはいません。(あらゆる角度から見ることで、見えてくるものが多くあります)


【白団日記】パイダン日記で明かされる歴史

【反中共】スターリン、マッカーサーもビビる日本軍人

がいた。

【白団】とは、中華民国陸海軍の再建、充実、発展を密かに援助し貢献した(1949〜1969) 旧日本陸軍の将校達。

覆面軍事顧問団、とも言われる。

覆面なので、根本博、も一員である。

戦後

共産党、国民党は内戦に陥る。

米国は、失敗した。兼ねてから連合国は、毛沢東、蒋介石、共に資金、武器を供給してきた。しかし結果、毛沢東に大陸を取られてしまった。( 米軍の誤算) 

岡村は、国民党が不利になった時点で米軍が介入して、南北を分断すると思っていました。


終戦後、岡村寧次の兵 105万は無傷だった。民留民 80万

含めて、約 200 万人は、蒋介石と岡本の、信頼の絆に

より無事に無傷で帰国した。


【岡本戦犯無罪判決】により【南京大虐殺の嘘】 

南京虐殺は、後のヴェノナ文書で「ソ連のスパイ」がプロパガンダで流した事がわかっている。


【白団】の記録を保存する会、編述


【反中共】で支那大陸での任務を終えた、岡村先生は

1人残った、最後の戦犯として裁判を受ける為、1948年7月「岡村寧次審判に関する会議」が開かれた。無期、死刑などの意見がある中、曹将軍が起立して、無罪にして日本に帰すべきだと発言したので、大騒ぎになった。

その理由の大要は以下の 4 点である。

1、岡村が中国で作戦したのは大本営の命によるものである。

2、岡村は部下に虐殺の命令を出した事が無く、逆に妄に殺人をしてはならないと命令している。

3、岡村は直接中国人を殺害した事実がない。また、それを告発した者まいない。

4、戦後の岡村はよく中央政府の命令に服従し、中国軍が接収に来る前に交通を維持し、武器を中共軍に渡す事なく、日本軍の終戦処理工作にも功労があった。


以上は、犯罪行為の点に付いて無罪の証明である。他は政治上では【反共】の立場の者であるから、もし彼に死刑の判決を与えるなら中共の思うツボになる。


曹将軍の説明を聞いて、皆、納得した。その後、上海に転居した。上海て形式だけの戦犯法廷を開き終了した。

その間、重い肺病にかかっていた。

1949年1月28日、無罪判決を言い渡した。


当日の夜、漫将軍に護送された岡村先生は乗船して、翌朝日本に向かって出発した。岡村先生と同行する者は、既に判決を受けた日本戦犯 259名で巣鴨で服役するためであった。この戦犯運輸船は曹将軍が予め、東京のGHQに連絡して、上海まで来て待機させていたものである。


船は、2月4日、米国海軍基地、横須賀に到着した。GHQのG2は、リミー中佐を派遣して岡村を迎え、接待した。また、屋外に高く日章旗を掲げて敬意を払った。これは、GHQが、岡村先生だけに敬意を表したものである。

岡村先生は、肺病が重いため、下船後、直ちに東京第一病院に入院した。ー(略)

 

【岡本寧次】陸軍大将

 

 

【大陸打通作戦】1944年4月〜12月まで、陸軍最大の大規模作戦。

日本軍敗戦濃厚になったため、太平洋方面と大陸両側からの空襲を回避するため

大陸の連合軍飛行場、線路、などの拠点を全て占領せよ。作戦距離 2400km,

 

 

全て攻略した完全【勝利】だった。

 

   

 

日本側の損害は、戦死約1500、戦傷約5000、戦病約8000、という他の資料の記述もある。

8月6日、原爆投下、8月15日、玉音放送、ポツダム宣言受諾。

8月9日、ソ連軍が連合軍に参加、南下開始。

 

岡村大将の手記から

悩んだことは「105万の兵士と80万の居留民を無事、内地に引き揚げさせるか?自分自身をどう処理すればよいか?日本人の事のみではない、これまで日本軍に協力してくれた重慶側からすればいわゆる「漢奸」ではあるが、南京の政府もあれば、その軍隊もある。

今となっては施す術もないが、道義的に申し訳ないことであったという悩みも多い」

 

15日は、御放送は寝耳に水であり、全軍茫然たる有様であった。

16日には、これからの日華関係はどうすればよいか、没落した日本がこの際協力できる道としては、ただ技術と経験力だけであろう。接収などについても、この趣旨で誠実に引き渡すべきである。

勝利していたので、兵士の士気は上がっていたこと、共産党軍、国民党軍、ソ連軍

の間で揺れた心境が書かれています。

 

『何日がすぎて、蒋介石委員長の「暴力に代うるに暴力を持ってすべからず。日本人に対しては旧悪を思うなかれ。侮辱暴行戒め、大国民の襟度を持つべし」

大方針の宣明があった〜略』

 

【白団】は、当初は有志 17 名であったが、最後には

83 名になった。台湾へ行くのは、密航しなければならない。内緒にするのに家族にも言わず行った者もいる。

彼らは、皆

自分の名前を変えて、中国名にし目立たず秘密を貫いた


行く理由は、【義】を返すという信念のみ。


覆面軍事顧問団の功績は、終了時には、200万以上の

兵員を招集できるようになった。


8/15日が終戦というのは、日本国内だけの事なので

「ポツダム宣言受諾の日」と変えた方がいい。

ソ連は、9月まで終戦していないのです。


【現場の司令官次第で、自衛は認められた】


 大陸の内戦が覚明に記録されていて、大変驚きましたが

「すごく良いものを発見した気分になりました」

軍事力は、軍事費 ( 金 ) で現在では重要なように言われますが、日本軍は10 倍程度をたいした兵器も無しに殲滅しています。


精神、技術、仲間意識、でも最強だったのです。

「日本軍人」が、【台湾】の軍隊を指導し軍事力の向上に貢献していたとは良い話でした。


【白団物語】白団の記録を保存する会

白団の存在を知った有志が、秘密さゆえに亡くなってしまい、1人でも多くの体験者に語ってもらったそうです。


http://www.kaikosha.or.jp/old/_userdata/pai-1.pdf



上記を是非、読んでいただきたいと思います。


我々も、軍人への感謝をする頃ではないか。


世界が狂う現在、特に思う次第です。


最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 

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