*19~21節を読みましょう。
罪を指摘されても悔い改めようとしないユダは、“さばき”を免れることができない状態になっていました。そんな中、エレミヤは蔑んだり軽蔑したりするのではなく、むしろ民の一員として(代表として)嘆き、この先に起きるエルサレムの惨状を悲しんでいます。
「はらわた」とは、“内臓”や“曲がりくねった入り組んだ所”という意味の語で、聖書では“感情の在り処”や“感情の中心部”を表す語として使われています。なので、ここでは「心の底から痛み悲しむ」というような心情(普通の感情ではない)を言い表しています。これほどの「痛み苦しみ」の理由が19節後半で述べられています。
「角笛の音と戦いの雄たけび」とは、バビロン軍の来襲を示しています。バビロンの侵攻によって、イスラエル・ユダの誇りであったエルサレムは、神殿、城壁も含めてことごとく破壊されます。しかし、バビロンは手を緩めることなく徹底的に破壊行為を続け、ユダの頼みとしていたものをすべて失わせます。彼らに“主だけが残される”というあわれみの取り扱いです。
*22節を読みましょう。
22節は、一人称が平仮名表記の「わたし」となっていることから、主なる神が語っておられる部分です。
「わたしを知らない」と言う不従順なユダの民であっても、主は「わたしの民」と呼ばれます。だからこそ、罪を叱責し、懲らしめを与えられるのです。
一方、「わたしを知らない」とは、知識の欠如などの未熟さ故の「知らない」ではなく、知識としては知っているのに、実際的な関りは拒絶していることを示しています。このことは、彼らの実生活に大きな影響を及ぼしています。
「悪事を働くのに賢くて、善を行うことを知らない」
「悪事を働くのに賢く」とは、“悪知恵”というよりも、“世渡り上手”的な意味です。つまりユダの民は、この世での出世や成功、生活の安定(豊かさ)などが最大の関心事であり、それらが幸いな姿だと思っていたということを示しています。そして「善」とは、道徳的な善い行いのことではなく、神に関することを指し、“神の望まれること”、“神の喜ばれること”“みこころ”などを意味します。ここに根本的な彼らの問題が指摘されています。それは、ユダの民は、“自分が喜ぶこと”、“自分にとって良いと思うこと”ばかりを求めていて、神が何を求めておられるか、何を喜ばれるかなどは関心の外だった、ということです。
ローマ16:19「あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」
*23~節を読みましょう。
ここでは、バビロン捕囚と共に終末のさばきに関する預言がなされています。預言書には当時起きることと将来起きることとが重ねて預言されている場面がよく見られます。それは、バビロン捕囚のような出来事は当時だけで終わるものではないこと。つまり、当時の人々だけが注意しなければならないことではなく、時を経てすべての信仰者たちが学ぶべきひとつの教訓であり、最終的なさばきこそ、本当のさばきであることを知るためです。
23節の「茫漠として何もなく」とは、以前の都の姿(日常の姿)が失われ、全く違う光景となっていることを示しています。バビロン軍の侵攻によって堅固な城壁が打ち破られた後のエルサレムは、見渡す限り瓦礫の山となりました。しかし、このような光景は終末にも見られるのです。
「天と見ると、その光はなかった…山々…揺れ動き、すべての丘は震え」
これらの表現は、バビロン捕囚時のことではなく、終末に限ったことでしょう。終末には地震が多発し、天変地異が起きるのです。
25~26節では、多くの人々がいなくなったことで、土地が荒れ、まるでいのちがないかのような光景が広がっています。しかし、このような中にも希望があることを、27~28節で告げています。
「わたしはことごとくは滅ぼさない」
これは“残りの民”がいることを告げています。そもそも、さばきはなぜ起きるのかというと、民の側が罪を認めることも悔い改めることもしないからです。それらを自覚させ、信仰を立ち返らせることを目的とした“こらしめ”なのです。なので、主なる神が求めておられるのは従わない者を罰することではなく、イスラエルが信仰を回復し、真の神の民として主を証しする者として回復することです。そのために、各時代において“残りの民”という信仰者を残してくださっています。無名の彼らの存在があったからこそ、神の民イスラエルは絶滅せず、回復した信仰者たちによって世界中に福音が語り告げられているのです。
ただし、イスラエルは神の民である故に特別扱いを受けてさばかれない、ということはなく、イスラエルであろうと異邦人であろうと、罪に対する報いは受けなければならないし、悔い改めないのであればさばきを免れることは決してできない、ということも同時に告げられています。だからこそ、回避できるのではないか?と変な企てをして逃亡策を謀るのではなく、素直に悔い改めることが必要なのです。
最期の段落では、知恵を絞って回避策を練ったとしても、それは空しく失敗すると告げられています。
*29~31節を読みましょう。
29節では、敵の攻撃を目前にして逃げ惑う人々の様子が、30節では、国を挙げて逃避を謀る様子が描かれています。
「踏みにじられた女」と表現されている“エルサレム”が、「緋の衣」(=高価な服のこと)や「金の飾り」で装い、「恋人」と表現されている“バビロン”に対して、持てる物すべてを投げうって媚びへつらっている様子を描いています。しかし、「かいがない」と言われているように、そんなことでバビロンの侵攻を止めることはできません。なぜなら、バビロンを用いておられるのは主なる神だから。主に悔い改めることなく、“この世の知恵”や“この世の富”を用いて問題を回避しようとする姿勢そのものが筋違いなのです。
“苦しみ”に対して、回避するか、受け留めるか。受け留めて絶望するか、意味を見出そうとするかで、その後の歩みは大きく変わります。誰でも無駄に苦しみたくはないですよね? しかし、無理やり平気な素振りをしたり、強がったりすることは正しい反応ではありません。では、どうしたらいいか?…まずは、正しく悲しむことです。正しく悲しむとは、主にすがり、悔い改めるということです。
Ⅱコリント7:10「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
*では、4:19~31を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。