*1~2節を読みましょう。
「一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです」
本章は、失礼であることを承知の上で、主なる神に疑問を投げかけるエレミヤの姿が描かれています。
エレミヤは、主なる神よりも自分の方が正しいとは思っていないし、主が人間に全てを明らかにしてくださるわけでもない…ともわきまえているのですが、それでも「あえて問いたい」と申し出ています。しかも、それは誰もが抱く“なぜ”でした。
「なぜ、悪者の道は栄え…」
ここでの「悪者 / 裏切りを働く者」とは、“背く者”ということで、特に主に対する背き、背信、慕う素振りを見せながら従わない人のことです。おそらくエレミヤは、前章の自身への暗殺計画を知ったことから、このような疑問を抱いたのでしょう。自分のような信仰者は、祝福されるどころか、同胞からも迫害され、常に危険が付きまとっている状態であるのに、迫害者である“神に背く人々”は、平和に暮らしているように見える。
しかも、彼らは主に拠って生かされ、豊かに恵まれているように見える。しかし、彼らは主に感謝しているかというと…そのようには見えなかったのです。
「彼らの口には近い」とは、彼らが口先では賛美や祈りをささげたり、みことばを口ずさんだりしていた様子を表していますが、それが心からのものであったかどうかが「彼らの思いからは遠く離れて」という表現で”否定”されています。つまり、心の伴わない形だけの賛美や祈り、告白であったのです。そんな不実な人々を、なぜ主は祝福されるのですか…と、この目に見える状態だけを見ると、「なぜ」と問わずにはおられなかったのでしょう。
*3節を読みましょう。
エレミヤは、迫害者たちが変わらぬ平穏な日々を送っている姿と、自分が危険な目に遭いながらも預言者として活動し続けて、しかも悔い改める人がなかなか現れない…という現実を見比べ、この先自分は報われるのだろうか…と葛藤しつつも、一つのことを主に願っています。それは、「もし、主が私を試してこの状況をお与えになったのであれば、私はこの信仰の試練を耐えたい」というものでした。
「あなたは私を知り、私を見ておられ」
エレミヤは、状況がどう変化しようとも、主に対する信頼と畏敬の念を失っていませんでした。冒頭に投げかけた疑問が、“主に対する疑惑”ではないことはこの告白からわかります。むしろ、主に対する信頼のもと、心のうちにあることを隠すことなく打ち明けていたのです。さらに・・・
「主よ。…あなたへの私の心をためされます」
エレミヤは、主の主権を認めていたからこそ、どんな出来事も“意味”があるはずで、自身が味わっている苦しい状況も、主のみこころやご計画があるはず、という視点に立っています。その上で、主が私を試みているのであれば、私はそれに応えたい。主の信仰のテストに合格したいと。
そして、預言者としての歩みを辞めることや、保身のために妥協することを願わず、主に拠る正義が成されることを願い求めました。
「この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れ」
この時すでに、みことばの聞き従わないことへの報い(=のろい)が地に現れていました。これは、申命記28章に記されている“主の御声に聞き従わない”時にのぞむ“のろい”そのものです。ユダの民が、幼き頃から語り聞かされていたみことばを、本当に大切にして親しんできたなら、エレミヤの宣告にハッとし、目の前の現状に恐れを抱いたはずです。しかし、この時彼らがしきりに話していたことは、恐ろしい内容でした。
「彼は私たちの最期を見ない」
「彼」とは、エレミヤのことで、「私たち」とは、エレミヤを迫害していた者たちです。ここで言っているのは、「私たち」よりも「彼」の方が先に死ぬ(だから最期を見ない)ということで、なぜそう断言しているのかというと、迫害者たちはエレミヤを殺害する意思を固めているからです。
心にあることを隠すことなく打ち明けたエレミヤに、主は、「今の時点でそんなに疲れていては、この先の試練を乗り超えるのは難しいよ」と叱咤激励されました。
*5~6節を読みましょう。
主は、エレミヤの現状を「徒歩の人たちと走っている」状態であるのに、すでに「疲れ」を感じている、と表現しています。ちなみに、二行目は一行目と同じことを別の表現で語っているので、意味は同じです。
周囲が「徒歩」であるのに、エレミヤ一人がせかせかと「走っている」と。あれこれ心配して「疲れ」てしまっているので、まずは落ち着きなさい、ということです。そうでなければ、「騎馬の人と競走」するような、「密林で」過ごさなければならないような危機的状況に陥った時、耐えられなくなってしまうからです。
しかも、エレミヤに降りかかる困難は、偽預言者やその支持者たちのような敵対する人々によるものだけでなく、身内や親しい者からの「裏切り」もあるからです。そして、この「裏切り」こそエレミヤを大いに苦しめ傷つけることになるのです。しかし、このような不当な扱いを受けることは、預言者の定めでもあり、エレミヤが偽りなく真理を語っているからこその妨害なのです。
マルコ6:4「イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。』」
Ⅱテモテ3:12「確かに、キリストイエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
*7~13節を読みましょう。
続いて、悔い改めない人々にどのような正義が示されるかが告げられます。
ここの部分の語り手は主なる神であると思われますので、漢字表記の「私」となっていますが、平仮名表記の「わたし」とする方がよいかと思われます。
「私の家」は、“エルサレム(神殿)”のこと、「私の相続地」は、“カナンの地”のこと、「私の心の愛するもの」は、“ユダの人々”のことを指し、それらを「捨て / 見放し / 敵の手中に渡した」、つまり、バビロンによって陥落、捕囚、支配することを許した、ということです。
8節と9節の「相続地」とは、本来「相続」という意味の語なので、必ずしも“土地”についての言及ではありません。続くことばをみても、土地に限った内容ではないことが明らかです。
「私の相続(地)は、私にとって林の中の獅子」
主はユダの民を「林の中の獅子」と、飼いならされていない肉食獣のように“言うことを聞かない”=反抗的だと言っています。
「私の相続(地)は、私にとってまだらの猛禽」
さらに、「まだらの猛禽」とも言われています。こちらも、飼いならされていない肉食鳥獣という意味では、先ほどの「獅子」と同様なのですが、わざわざ「まだら」と表現しているのは、異邦諸国からは一風変わった存在であり、他の猛禽類(異邦諸国)から同類と見なされず、いじめの対象になるような存在であることを示しています。イスラエル、ユダの歴史には、周辺諸国との摩擦が絶えずあったことを思い起こさせるような表現です。
「多くの牧者」とは、ユダの宗教指導者たちのことです。彼らは、国家の重役でもあったので、あらゆる権威が委ねられていると同時に、あらゆる責任をも負っている人々です。では、彼らは主の前に責任ある行動をとってきたのか…というと、、
「私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした」
みことばを語り聞かせ、教え導き、とりなし祈る…のではなく、逆に、偽預言などの“人間のことば”に権威を与え、偽情報で民を安心させ、主から遠ざけるような働きをしていました。それによって、主からの祝福を失わせたのです。
12節の「荒らす者」とは、バビロンのことです。しかし、バビロンを指揮するのは「主の剣」です。バビロンの来襲と侵攻は、主がユダの罪を咎め、さばくために起こされることが、再びここでも告げられています。
主に拠るさばき(懲らしめ)であるから、悔い改めて主に立ち返ること以外に、どんなことをしても、自分で自分のいのちを守ることはできません。主に立ち返り、信仰が回復されることを目的とした懲らしめだからです。
*14~17節を読みましょう。
最後の段落では、ユダの近隣諸国に対するさばきの宣告です。
「悪い隣国の民」とは、シリヤ、モアブ、アモンなどを指します。彼らも、ユダと共にバビロン捕囚に遭うと告げられていますが・・・「しかし」と、彼らに対しても「彼らの国に帰らせよう」と、回復を約束しておられます。ただし、ここには条件があります。
「もし彼らが…『主は生きておられる』と誓うなら」
これらの異邦人たちは、捕囚民となることによって、ユダの人々と生活を共にすることになります。その中で、彼らはみことばを聞く機会が与えられるのです。そもそも、彼らが捕囚となる理由のひとつは、イスラエル・ユダにに異教の文化、習慣を教え、偶像礼拝へと誘ったからです。かつては、彼らが「バアルによって誓う」ことをイスラエル・ユダに教えたけれど、今度はイスラエル・ユダが彼らに主なる神を教える。その教えに聞き従い、主を受け入れるなら、回復すると約束されています。つまり、みことばはただ聞くだけ(聞かされるだけ)で救われるわけではなく、それをもって主に応える時、救われる、ということを告げておられます。これは、ユダの民にとっても耳の痛い真実だったでしょう。
*では、12章を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。