聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

クローバー今回は、二つ目のたとえ話を見ていきましょう。

*8節を読みましょう。

 ここで出てくる「銀貨」とは、普通の貨幣ではなく、結婚する女性が花婿から受け取る“花嫁料”で、現代の結婚指輪のような意味を持つ特別なコインです。この銀貨1枚の価値は当時の日当に等しいので、「十枚」では月収の三分の一くらいの価値だと言えます。

 そのような大切な「銀貨」のうちの「一枚」を失くしてしまった女性が登場し、しかも相当必死に「一枚」を捜している様子が描かれています。なぜこれほど必死に探しているのかというと、実はこの「銀貨」は、”十枚で一式”となっているため、その内の「一枚」でも失ってはならないものなのです。

 先回の「羊」を捜す羊飼い同様、この女性も「見つけるまで念入りに」捜しました。チラッと表面だけ眺めて捜したのではなく、膝をついて這いつくばって、小さな隙間も明かりを照らしながらくまなく捜したのです。

 そしてついに見つけ出しましたラブラブ

*9節を読みましょう。

 見つけ出した後の行動が、やや大げさに思えるかもしれませんが、当時のイスラエルの人々は、悲しみや喜びを身近な人たちと共有することをよくしていました。ここでは「友だちや近所の女たちを集めて」とあるので、一人でも多くの人と分かち合いたいほどの大きな喜びであったことがわかります。

 そして、もうお気づきだと思いますが、「必死に探す」⇨「やっとの思いで見つけ出す」⇨「喜びを人々と分かち合う」という流れは、一つ目のたとえ話にも共通しています。さらに、7節と10節も、少し表現の違いはありますが”天において同様の喜びがある”という点も一つ目のたとえ話との共通点です。

*7,10節を読みましょう。

 ここで「それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら」とあるので、これらのたとえ話にある“失われたもの”とは「ひとりの罪人」を指していて、“見つけ出す”(取り戻す)という行動が「罪人が悔い改める」ことによって“救われた”状態を指していることが分かります。そして、失われたものを捜索している“持ち主”は、創造主なる神さまのことを指しています。

 しかも、持ち主自ら「見つけるまで捜し歩く/念入りに捜す」様子は、神が人の姿を取って失われたものの近く(=地上)まで来てくださった“イエス・キリスト”の姿を現わしているのです。

ルカ19:10「人の子(=イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 そして、ひとりの罪人が救われることがどれほどの喜びであるかを、次のように表しています。

7節「悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜び」

 ここでの「悔い改める必要のない…正しい人」とは、文字通りの意味ではなく、自分で「私は正しい(罪がない)人間だ」と自認している人のことです。このような人は、罪の自覚が無いので悔い改めることがありません。なので、上記の聖句を言い替えると、「悔い改める必要がないと思い込んでいる自称正しい人」とあるでしょう。他の箇所でも同じようなみことばがあります。

ルカ5:31~32「そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」

 ここでの「正しい人」も、自分を正しいと自認している人のことです。このような人は罪人である自覚が無いので、救いを求めてイエスさまのところに来ることはありませんし、招かれても拒絶するのです。

 15章の本文に戻りますが・・・

 7節では「喜びが天にある」とあり、10節では「神の御使いたちに喜びがわき起こる」とあります。「ひとりの罪人」が、聖書に出会い、罪を示されて「罪を赦してほしい。救われたい。」と願ってイエスさまを信じた瞬間に、おそらく地上では、静かな時間が流れていると思いますが、天では「喜びがわき起こ」っているのです。なぜならば、「ひとりの罪人が悔い改める」ことによって救いを得ることは、神さまの最大の“みこころ”だからです。

Ⅰテモテ2:5「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」    

 

*お祈りしましょう。

*1~2節を読みましょう。

「一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです」

 本章は、失礼であることを承知の上で、主なる神に疑問を投げかけるエレミヤの姿が描かれています。

 エレミヤは、主なる神よりも自分の方が正しいとは思っていないし、主が人間に全てを明らかにしてくださるわけでもない…ともわきまえているのですが、それでも「あえて問いたい」と申し出ています。しかも、それは誰もが抱く“なぜ”でした。

「なぜ、悪者の道は栄え…」

 ここでの「悪者 / 裏切りを働く者」とは、“背く者”ということで、特に主に対する背き、背信、慕う素振りを見せながら従わない人のことです。おそらくエレミヤは、前章の自身への暗殺計画を知ったことから、このような疑問を抱いたのでしょう。自分のような信仰者は、祝福されるどころか、同胞からも迫害され、常に危険が付きまとっている状態であるのに、迫害者である“神に背く人々”は、平和に暮らしているように見える。

 しかも、彼らは主に拠って生かされ、豊かに恵まれているように見える。しかし、彼らは主に感謝しているかというと…そのようには見えなかったのです。

 「彼らの口には近い」とは、彼らが口先では賛美や祈りをささげたり、みことばを口ずさんだりしていた様子を表していますが、それが心からのものであったかどうかが「彼らの思いからは遠く離れて」という表現で”否定”されています。つまり、心の伴わない形だけの賛美や祈り、告白であったのです。そんな不実な人々を、なぜ主は祝福されるのですか…と、この目に見える状態だけを見ると、「なぜ」と問わずにはおられなかったのでしょう。

*3節を読みましょう。

 エレミヤは、迫害者たちが変わらぬ平穏な日々を送っている姿と、自分が危険な目に遭いながらも預言者として活動し続けて、しかも悔い改める人がなかなか現れない…という現実を見比べ、この先自分は報われるのだろうか…と葛藤しつつも、一つのことを主に願っています。それは、「もし、主が私を試してこの状況をお与えになったのであれば、私はこの信仰の試練を耐えたい」というものでした。

「あなたは私を知り、私を見ておられ」

 エレミヤは、状況がどう変化しようとも、主に対する信頼と畏敬の念を失っていませんでした。冒頭に投げかけた疑問が、“主に対する疑惑”ではないことはこの告白からわかります。むしろ、主に対する信頼のもと、心のうちにあることを隠すことなく打ち明けていたのです。さらに・・・

「主よ。…あなたへの私の心をためされます」

 エレミヤは、主の主権を認めていたからこそ、どんな出来事も“意味”があるはずで、自身が味わっている苦しい状況も、主のみこころやご計画があるはず、という視点に立っています。その上で、主が私を試みているのであれば、私はそれに応えたい。主の信仰のテストに合格したいと。

 そして、預言者としての歩みを辞めることや、保身のために妥協することを願わず、主に拠る正義が成されることを願い求めました。

「この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れ」

 この時すでに、みことばの聞き従わないことへの報い(=のろい)が地に現れていました。これは、申命記28章に記されている“主の御声に聞き従わない”時にのぞむ“のろい”そのものです。ユダの民が、幼き頃から語り聞かされていたみことばを、本当に大切にして親しんできたなら、エレミヤの宣告にハッとし、目の前の現状に恐れを抱いたはずです。しかし、この時彼らがしきりに話していたことは、恐ろしい内容でした。

「彼は私たちの最期を見ない」

 「彼」とは、エレミヤのことで、「私たち」とは、エレミヤを迫害していた者たちです。ここで言っているのは、「私たち」よりも「彼」の方が先に死ぬ(だから最期を見ない)ということで、なぜそう断言しているのかというと、迫害者たちはエレミヤを殺害する意思を固めているからです。

 心にあることを隠すことなく打ち明けたエレミヤに、主は、「今の時点でそんなに疲れていては、この先の試練を乗り超えるのは難しいよ」と叱咤激励されました。

*5~6節を読みましょう。

 主は、エレミヤの現状を「徒歩の人たちと走っている」状態であるのに、すでに「疲れ」を感じている、と表現しています。ちなみに、二行目は一行目と同じことを別の表現で語っているので、意味は同じです。

 周囲が「徒歩」であるのに、エレミヤ一人がせかせかと「走っている」と。あれこれ心配して「疲れ」てしまっているので、まずは落ち着きなさい、ということです。そうでなければ、「騎馬の人と競走」するような、「密林で」過ごさなければならないような危機的状況に陥った時、耐えられなくなってしまうからです。

 しかも、エレミヤに降りかかる困難は、偽預言者やその支持者たちのような敵対する人々によるものだけでなく、身内や親しい者からの「裏切り」もあるからです。そして、この「裏切り」こそエレミヤを大いに苦しめ傷つけることになるのです。しかし、このような不当な扱いを受けることは、預言者の定めでもあり、エレミヤが偽りなく真理を語っているからこその妨害なのです。

マルコ6:4「イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。』」

Ⅱテモテ3:12「確かに、キリストイエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

*7~13節を読みましょう。

 続いて、悔い改めない人々にどのような正義が示されるかが告げられます。

 ここの部分の語り手は主なる神であると思われますので、漢字表記の「私」となっていますが、平仮名表記の「わたし」とする方がよいかと思われます。

 「私の家」は、“エルサレム(神殿)”のこと、「私の相続地」は、“カナンの地”のこと、「私の心の愛するもの」は、“ユダの人々”のことを指し、それらを「捨て / 見放し / 敵の手中に渡した」、つまり、バビロンによって陥落、捕囚、支配することを許した、ということです。

 8節と9節の「相続地」とは、本来「相続」という意味の語なので、必ずしも“土地”についての言及ではありません。続くことばをみても、土地に限った内容ではないことが明らかです。

「私の相続(地)は、私にとって林の中の獅子」

 主はユダの民を「林の中の獅子」と、飼いならされていない肉食獣のように“言うことを聞かない”=反抗的だと言っています。

「私の相続(地)は、私にとってまだらの猛禽」

 さらに、「まだらの猛禽」とも言われています。こちらも、飼いならされていない肉食鳥獣という意味では、先ほどの「獅子」と同様なのですが、わざわざ「まだら」と表現しているのは、異邦諸国からは一風変わった存在であり、他の猛禽類(異邦諸国)から同類と見なされず、いじめの対象になるような存在であることを示しています。イスラエル、ユダの歴史には、周辺諸国との摩擦が絶えずあったことを思い起こさせるような表現です。

 「多くの牧者」とは、ユダの宗教指導者たちのことです。彼らは、国家の重役でもあったので、あらゆる権威が委ねられていると同時に、あらゆる責任をも負っている人々です。では、彼らは主の前に責任ある行動をとってきたのか…というと、、

「私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした」

 みことばを語り聞かせ、教え導き、とりなし祈る…のではなく、逆に、偽預言などの“人間のことば”に権威を与え、偽情報で民を安心させ、主から遠ざけるような働きをしていました。それによって、主からの祝福を失わせたのです。

 12節の「荒らす者」とは、バビロンのことです。しかし、バビロンを指揮するのは「主の剣」です。バビロンの来襲と侵攻は、主がユダの罪を咎め、さばくために起こされることが、再びここでも告げられています。

 主に拠るさばき(懲らしめ)であるから、悔い改めて主に立ち返ること以外に、どんなことをしても、自分で自分のいのちを守ることはできません。主に立ち返り、信仰が回復されることを目的とした懲らしめだからです。

*14~17節を読みましょう。

 最後の段落では、ユダの近隣諸国に対するさばきの宣告です。

 「悪い隣国の民」とは、シリヤ、モアブ、アモンなどを指します。彼らも、ユダと共にバビロン捕囚に遭うと告げられていますが・・・「しかし」と、彼らに対しても「彼らの国に帰らせよう」と、回復を約束しておられます。ただし、ここには条件があります。

「もし彼らが…『主は生きておられる』と誓うなら」

 これらの異邦人たちは、捕囚民となることによって、ユダの人々と生活を共にすることになります。その中で、彼らはみことばを聞く機会が与えられるのです。そもそも、彼らが捕囚となる理由のひとつは、イスラエル・ユダにに異教の文化、習慣を教え、偶像礼拝へと誘ったからです。かつては、彼らが「バアルによって誓う」ことをイスラエル・ユダに教えたけれど、今度はイスラエル・ユダが彼らに主なる神を教える。その教えに聞き従い、主を受け入れるなら、回復すると約束されています。つまり、みことばはただ聞くだけ(聞かされるだけ)で救われるわけではなく、それをもって主に応える時、救われる、ということを告げておられます。これは、ユダの民にとっても耳の痛い真実だったでしょう。

 

*では、12章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 先回の最後に「羊」の特徴を紹介しましたが、今回は、その内容を踏まえて、一つ目の「羊」「羊飼い」のたとえ話を見ていきましょう。

*4節を読みましょう。

 「羊を百匹持っている人」が、ある時「そのうちの一匹」がいないことに気付いて、その「一匹」を捜しに行くという話です。ここでのポイントは、羊飼い側の落ち度や過失ではなく「羊」の勝手な行動によって“いなくなった”という点です。そして、いなくなったのは「一匹」、目の前には「九十九匹」もの羊がいて、場所は羊舎ではなく、まだ移動中にある「野原」です。

普通はこんなリスクや考えが思いつくでしょう・・・

もやもやどこへ行ったかもわからない「一匹」を追う困難。

もやもやその「一匹」を捜している間、野に残された「九十九匹」が大人しく待っている保証はない。

もやもや1と99とを天秤にかけるなら、99が1に優るのは明らかなので、99を犠牲にして1を捜すのは愚かだ。

 結果、いなくなった「一匹」は、可哀そうだけど、自業自得と割り切って見捨て、「九十九匹」を連れて羊舎へ帰る、という選択をせざるを得ないのですが・・・

「九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を・・・捜し」

 この羊飼いは、「九十九匹」で妥協せず、失われた「一匹」を探し出して連れ戻すことを決めたのです。どれくらい捜したのかというと、「見つけるまで捜し歩く」とあり、これは見つかる当てはないけれど、執念を持って探し回ることを意味しています。そしてその結果は…、執念実って、見事に見つけ出したのです。

*5~7節を読みましょう。

「見つけたら、大喜びでその羊をかついで」

 必死に捜していたものが見つかった時の喜びや安堵感は計り知れないもので、「見つけた」ことを「大喜び」した様子はごく自然な反応なのですが、この場合は少し事情が違いますよね。この「一匹の羊」は勝手にフラフラ行動した結果迷子になったので、羊飼いからしたら迷惑な行為そのものなのです。羊飼いに捜索の疲労を与え、他の羊たちにも不安な状況を強いることになったのですから。普通なら、羊を𠮟りつけたり、罰を与えるなど、何らかのペナルティを課す状況ですが、「大喜び」しただけでなく、自分も疲労困憊であるのに、「その羊をかついで」帰って来たのです。そればかりか、周囲の人たちにこのことを告げて、喜びを共有しようとしているのです。

 このたとえ話に登場する有り得ないほど愛に満ち、寛容で献身的な「羊飼い」は、イエスさまのことを表しています。そして、捜し出された「一匹の羊」は、1節で登場した「取税人、罪人」のこと、そして私たちを含むすべての罪人のことです。

 “罪”の根本は、“いのちの主である神”から“離れて”しまうことです。“罪”のもたらすものは“死”であると告げられているのはこのためです。

ローマ6:23「罪からくる報酬は死です。」

 羊は羊飼いにお世話をしてもらわなければ生きていけないように、すべての人間は神から離れて生きることはできないのです。

 そして、神から離れ、迷い出た罪人は、神のもとへ戻る力がありません。だから、神の方から罪人が彷徨う世界へ捜しに来てくださったのです。それが、神が人の姿を取って来られたイエス・キリストです。

 羊飼いが全面的に犠牲を払って羊を探し出し、そのいのちを救ったように、キリストは罪人を救うために、ただひとり犠牲を負われたのです。

イザヤ53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

 

 そもそも…このたとえ話が語られたのは、パリサイ人らがイエスさまに対して「なぜ、罪人たちを受け入れて親しくするのか」と非難したことがきっかけです。

 そんな非難の声にイエスさまは、ご自身がこの地上に来られた目的は、

 十字架罪人を捜して救うためであること、

 キラキラだからこそ、罪人を招いて食事をし、彼らの心を開いて救いを求めさせることは当然のことだと答えられたのです。

 そして、罪人が悔い改めて救われることが“神が一番求めておられること”だと示されたのです。これは、先ほど引用したイザヤ書にも記されています。

イザヤ53:11,12「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

 

*お祈りしましょう。

*1節を読みましょう。

 「取税人」とは、ローマに雇われて徴税する仕事をする人のことです。当時のイスラエルは、ローマの支配下にあったので、自国(イスラエル)に対する納税の他に、ローマに対しても税を払わなければならなかったのです。

 異邦人に支配されている“屈辱”だけでなく、庶民生活を一層苦しめる二重の取り立てに、多くの人々は不満を持っていたので、その怒りの矛先が「取税人」に向けられていたので、彼らはとても嫌われていたのです。

 「罪人」とは、犯罪者という意味ではなく、宗教的に相応しくない職業に就いている人たちを指します。例えば、革製品を作る人は、動物の死体に触れなければなりません。律法では、死体に触れた者は“汚れる”ので、一定期間を空けなければ礼拝に集うことはできません。そのように、日常的に汚れるような仕事をする人が「罪人」と呼ばれていました。他には、“遊女”など、道徳的に相応しくない仕事に就いている人や、前科持ちのような“世間から受け入れられていない人”たちも含まれます。しかし、このような人々は、罪や悪を楽しんで、いい加減に生きている人なのか?…というとそうではなく、むしろ罪を自覚し、「どうにかしたい、変わりたい」という思いを持っていたのです。故に、イエスさまの話を聞くために、「みもとに近寄って」来ていたのです。

*2節を読みましょう。

 イエスさまは、求める者を歓迎され、受け入れられます。聞く耳のある者に、真理を語られます。なので、このように「聞こうとして」ついてくる人々と親しく交わることを喜ばれたのです。しかし、そのような交わりを面白くないと思う人々も多かったのです。

 特に「パリサイ人」は、「パリサイ」が意味する“分離する”の通り、他と自分たちをしっかりと“分離・区別する”ことで“きよさ”を保っていると思い込んでいる人々なので、「取税人・罪人」のような人々から嫌われている人たちと、時間や空間を共有することは一切しませんでした。

 イエスさまも一部の人々から「律法の教師」と呼ばれていたので、「なぜ“教師”と呼ばれている人が罪人と食事などしているのか」と軽蔑し、非難していたのです。そこでイエスさまは、なぜ「取税人や罪人たち」を受け入れるのか?について、三つのたとえを通してパリサイ人や律法学者に教えられました。

一つ目のたとえ話は羊と羊飼いの話です。

*3節を読みましょう。

 聖書の中には「羊」「羊飼い」という描写は、よく登場します。そして、私たち人間を「羊」に、イエスさまを「羊飼い」に例えて教えている箇所もあります。私たちにとっては身近ではない動物ですが、イスラエル人にとっては、「羊」の特徴は、罪人の性質を表すのに適した教材でもあったのです。

 羊の自慢は羊毛です。しかし不思議な事に、毛を手入れすることなく伸ばし過ぎてしまうと、自分の毛に足を取られて転倒してしまうのです。そして、転倒すると自力では起き上がることができません。もし、救助されなければ、そのまま衰弱し、餓死してしまうのです。羊にとっての唯一ともいえる“誇り”が、命取りとなってしまうという悲しい特徴は、高ぶりによって自らに滅びを招く罪人の姿を現わしているのです。

 羊は視力が悪く、近視眼だと言われています。鮮明に見えるのは自分のごく近い周辺だけで、遠くはぼんやりしています。目の前の草(えさ)しか目に入っていないので、離れた所から天敵が狙っていても全く気が付かないのです。これは、今さえよければ良い、今の欲が満たされることばかりを追い求め、その先に危険が待っていることに何も警戒していない罪人の愚かさを表しています。

 先ほどの視力にも関することですが、目の前の草を食べ進めるうちに、知らないところまで迷い込んでしまうこともあります。しかも、羊は近視眼なので帰り道が分かりません。覚えていないのです。自力で変えることができないので、救助されなければ、力尽きて、あるいは野獣に襲われて死んでしまうのです。これは、創造主である神から離れて、罪の世をさまよっている罪人の姿を現わしています。

 また、羊は足を清潔にしていないと病気になってしまう弱さがあります。これは、罪の世を歩き続けるうちに、死に近づいている罪人の姿を現わしています。

 このように、羊は人間のお世話を必要とする特別な動物であるのです。

 スペースの都合上、続きは次回~バイバイ。   

 

*お祈りしましょう。

*1~8節を読みましょう。

 「契約のことば」とは、何を指すのか?それはかつて、エジプトから救出された先祖たちが、荒野において主なる神から与えられた「契約のことば」のことです。

出エジプト19:4~5「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

レビ26:3、12「もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、・・・わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」

 本来、イスラエルは4~5節にあるような祝福を受ける民でした。

クリップ主の民になる

クリップ主が私の神となってくださる

クリップ乳と蜜の流れる地が与えられる

申命記6:3「イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。」

 そして、上記の約束は成就したのです。…しかし、その祝福は長続きしませんでした。

「わたしの声を聞けと言って、しきりに戒めてきた。しかし彼らは聞かず…」

 彼らは重大な誤解をしていました。約束の地である“カナンに居住すること”によって「わたし(=主)の民」となると。しかし、主は、「わたしの声に聞き従い…行(う)」ことによって「主の民となる」と言われたのであって、どこに住むかは、“みことばに聞き従うこと”以上に重要ではないのです。主に聞き従うことの延長線上に、祝福(約束の成就)はあるのです。このことを改めて認識し直す必要がありました。

「それで、わたしはこの契約のことばをみな、彼らに実現させた」

 「契約のことば」には、守り行うことによる“祝福、幸い”の約束だけでなく、守らなければ“のろい、わざわい”を受けなければならないことも明言されていました。ここで「実現させた」と言われているのは、後者の“わざわい”の実現です。

レビ26:14、33「もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行わないなら、・・・わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」

 ユダの民が受けている苦しみ、この先のユダの民が受ける苦しみは、誰のせいでもなく、ユダの民が「聞き従わなかった」(=主への反抗、背信)に拠るのだと。だからこそ、彼らにバビロンに抵抗するのではなく、降伏しなさいと命じられているのです。

 主がバビロンを使って懲らしめようとしておられるので、バビロンに抵抗することは“主と戦うこと”になり、バビロンに降伏することは“主に降伏(へりくだる)こと”になるからです。

 エジプトから救出され、約束の地であるカナンへ導かれる途上において「契約のことば」が与えられたことは、イスラエル民族の原点ともいうべき出来事で、子々孫々に語り継がれてきた大切な教えでした。それを今一度、エレミヤによって語り聞かせようとしておられるのは、主がイスラエルに求めておられるのは、“原点に立ち返ること”であることを気付かせるためなのです。

*9~13節を読みましょう。

 では、なぜユダの民は主の御声に聞き従わなくなったのでしょう?

「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある」

 「謀反」とは、主君に対して武力を用いて反乱を起こすことで、支配(権力)を転覆させようとする反逆罪です。日本史だと、本能寺の変などがそれに当たりますが、これは、最初の人間(アダム)が犯した罪そのものであり、私たち誰もが犯し得る罪なのです。

「ほかの神々に従って、これに仕えた」

 「主に支配されたくない!」と「謀反」を起こしたのに、「ほかの神々」に仕えたのはなぜか?

 「ほかの神々」は、仕えやすい神だからです。人間の欲のままに(都合よく)作った神なので、仕えることに苦痛は無いのです。つまり、人間は自分の欲に仕え、自分の罪の力に支配されていることに気付いていないのです。主なる神が与えてくださる救いは、この罪の支配からの解放であり、真の祝福は罪赦されて、主との関係が回復されることなのです。

「彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、…彼らを決して救うことはできない」

 一方、人間が自分の意のままに作った神々は、救いを与えることはできません。

 当時、ユダには「町の数ほど/エルサレムの通りの数ほど」神々の像や祭壇があったと記されています。これは、偶像が民衆の日常に欠かせない存在であったことを示しています。それほど多くの神々に囲まれていたのに、「わざわいの時」に助けてくれる神々はひとつもないのです。これが偶像の究極の虚しさです

*14~17節を読みましょう。

 さばきの宣告の後、主はエレミヤに「この民のために祈ってはならない」と、とりなしの祈りをしてはならないと命じられます。同じ命令(とりなし禁止)は、7章でもありましたが、この先14章、15章でも告げられています。なぜでしょう? 彼らが真に立ち返るためには、あえて厳しい取り扱いを受ける必要があるからです。ここで人情的な思いであわれみを乞うたりしてしまうなら、彼らのためにならないだけでなく、逆に彼らが立ち返る機会を失わせることになるからです。

 「わたしを呼ぶときにも、わたしは聞かない」ということばは、冷たく突き放しているように見えるかもしれませんが、主ご自身が誰よりも彼らを愛し、彼らの姿を悲しんでおられる故の厳しさであることを知らなければなりません。その証拠に、主はユダの民を「わたしの愛する者」と呼んでいます。

 ユダの民が、「わたしの家」(=神殿)にまで偶像や異教の神々への祭壇を持ち込み、主に逆らう行為をしているのに、それを大目に見てあげることは優しさではありません。

 かつて彼らを「良い実をみのらせる美しいオリーブの木」として、約束の地に植えられた(住まわせた)のは主なる神です。植えた方だから、引き抜く権威ももっておられるのです。そして、再び彼らを植え直すことができる方は、主だけなのです。

*18~23節を読みましょう。

 最後の段落は、エレミヤ暗殺計画が企てられていることを、主がエレミヤに知らせてくださったことが記されています。

 「ほふり場に引かれていくおとなしい子羊」とは、自分が殺されることを全く気付いていない様子を示す表現です。つまり、エレミヤにとって、自身の暗殺計画が立てられていることは予想もしなかったことだった、という驚きを示しているのです。

「木と実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」

 「木」とはエレミヤのことで、「実」とは、エレミヤの実績や働きの成果のことです。エレミヤ自身を殺害するだけでなく、彼の記した書物や手紙なども抹殺し、エレミヤの痕跡を少しも遺さない、という計画を立てていたようです。

 しかも、暗殺計画を立てていた人々は、「アナトテの人々」でした。「アナトテ」(1:1)とは、エレミヤの出身地であり、祭司の町です。エレミヤは、バビロンに降伏せよと語っていました。それが、主に降伏することであるからです。しかし、偽預言者は逆のことを言いました。そして、時の王もバビロンに反逆する政策を進めていました。…すると、エレミヤは愛国心が無い“反逆者”扱いされるわけです。そんなエレミヤに対する風当たりの強さは、祭司である身内からも厄介者扱いされる一因となったのでしょう。自分たちの立場を守るために、エレミヤを亡き者にするという決断はそう難しくなかったのかもしれません。

 エレミヤにとっては、身内からの殺害計画ほどショックなものはないでしょう。しかし、エレミヤは感情的になったり、取り乱したりうることなく、冷静に受け止めています。それは、主に目を向けていたからです。

 

*では、11章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。