2節と同じ表現が26章にも出て来ることから、7章以降はエホヤキムの治世初期(6章から十数年経過した頃)のことと思われますの。26:1」「エホヤキムの治世の初め」だとすると、BC609(第一年)頃でしょうか。
「あなたがたの行いと、わざとを改めよ」
ユダの民に対して、罪を自覚し悔い改めるようにと呼びかけられます。もし、この招きに応じて悔い改めるのであれば、「この所」つまりエルサレムに住み続けることができる、と言われています。しかし、そうでないならば、エルサレムに住み続けることはできない、ということでもあります。
彼らが改めるべき「行いとわざ」とは何か?について4節以降で告げられています。
*4~7節を読みましょう。
まず4節では、神殿の偶像化です。「主の宮だ」とは、「主の建てた宮、主が臨在される宮」という意味で、それはそれで間違っていないように聞こえますが、これが「偽りのことば」だと指摘されています。どういうことかというと、「エルサレム神殿には主がおられるから決して崩壊しない、完全に安全な場所である」ということを言っているのです。つまり、神殿そのものを神格化、偶像視している表現なのです。
確かに神殿で礼拝がささげられていましたが、日本の神社のように“そこ”に神がいる、という場ではありません。むしろ主はどこにでもおられるお方です。
使徒17:24~25「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」
二つ目は、みことばに基づく正義がないことです。
5節の「公義」が、みことばに基づく正義のことで、具体的な内容は6節に記されています。
6節に三つの「~せず、しなければ」が記されていますが、これらの反対のことが日常的に行われていた、ということでしょう。保護、支援されるべき社会的弱者を虐げ、理由なき殺害が行われ、異教の神々を慕い求めること…これらは、律法に示された“主のあわれみ”や“きよさ”にも反することでした。
*8~9節を読みましょう。
9節では、彼らが律法にことごとく反していることが告げられています。
「盗み」は第八戒、「殺し」は第六戒、「姦通」は第七戒、「偽って誓う」は第九戒、「バアルのためにいけにえを焼く」は第一戒、「ほかの神々に従う」は第二戒の違反になります。
*10~11節を読みましょう。
「それなのに…『私たちは救われている』と言う」
ことごとく律法違反の行為をしておきながら、みことばに聞き従っていない自覚がなく、むしろ「救われている」と自信を持って告白し、神殿で主にも偶像にも礼拝をささげることに矛盾を感じることもなかったのです。
11節のみことばは、イザヤ56:7にベースとなるみことばがあり、福音書の中でイエスさまによって引用されてるみことばでもあります。
マタイ21:13「そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
神殿が「わたしの名が付けられているこの家」と表現されているのは、神殿建築に取りかかる時、主ご自身が次のように告げられたからです。
Ⅱ歴代誌7:16「今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの心は、いつもそこにある。」
神殿とは、主の素晴らしさを讃えて賛美をささげる場であり、へりくだって礼拝をささげる場であり、感謝と決意を持って祈りをささげる場として設けられたのです。…とはいえ、神殿だけに主がおられるのではないのですが、そこを勘違いすると、生活と信仰生活が区別されたものになります。区別された生活が定着すると、礼拝などが宗教儀式のような形式的なものとなり、自己満足のために行く場のようになっていきました。
神殿に来るのは、“ささげる”ためではなく、“受ける”ため。人の欲や人の目的を満たす場と化していったのです。そのような“誤り”を指摘されたのが、先ほどのマタイ21:13のみことばです。
*12節を読みましょう。
そんな彼らに、「シロ」での歴史から学びなさいと告げられました。
「シロ」とは、エフライム領にあった町で、ヨシュアがカナンの地を占領していく中で、会見の天幕を建てた場所です。会見の天幕とは、神殿が無かった時代の礼拝の場です。
ヨシュア18:1「さて、イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。」
始まりは良かったのですが・・・カナンの地での定住生活が始まり、しばらく経った時には、すでに偶像が持ち込まれています。
士師18:31「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。」
そして、「シロ」の教訓として最大のものは、Ⅰサムエル4章の出来事でしょう。
Ⅰサムエル4:3「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。『なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう』」
ペリシテとの戦いで劣勢に陥ったイスラエルは、「主の契約の箱」を戦場に持ってくることで勝てるだろう、と考えたのです。それは信仰ではなく、「契約の箱」を偶像化する間違った不信仰な行為でした。
民は勝算を確信していたのですが、結果は惨敗。しかも、「契約の箱」は敵に持ち去られ、後年、シロも廃墟となりました。
詩篇78:60「それで、シロの御住まい、人々の中にお建てになったその幕屋を見放し」
このような残念な過去の罪が繰り返されていることに気付きなさい、と主は呼びかけておられるのですが、その警告を「聞こうともせず…答えもしなかった」民に、「シロにしたのと同様なことを行おう」と告げられたのです。それは、彼らの“間違った拠り所”となっていた神殿を失わせる、ということです。
さらに、かつては「シロの御住まい」(幕屋)を見放すと言われたのに、民もろとも追い払われる、という“さばき”の宣告が15節に記されています。
「エフライムのすべての子孫」とは北イスラエルの民のことで、「追い払った」とはアッシリヤ捕囚のことを指します。それと同様に、「あなたがた」(=南ユダ)も「わたしの前から追い払おう」と。つまり、バビロン捕囚が行われる、ということです。
*では、7:1~15を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。