聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1~3節を読みましょう。

 2節と同じ表現が26章にも出て来ることから、7章以降はエホヤキムの治世初期(6章から十数年経過した頃)のことと思われますの。26:1」「エホヤキムの治世の初め」だとすると、BC609(第一年)頃でしょうか。

「あなたがたの行いと、わざとを改めよ」

 ユダの民に対して、罪を自覚し悔い改めるようにと呼びかけられます。もし、この招きに応じて悔い改めるのであれば、「この所」つまりエルサレムに住み続けることができる、と言われています。しかし、そうでないならば、エルサレムに住み続けることはできない、ということでもあります。

 彼らが改めるべき「行いとわざ」とは何か?について4節以降で告げられています。

*4~7節を読みましょう。

 まず4節では、神殿の偶像化です。「主の宮だ」とは、「主の建てた宮、主が臨在される宮」という意味で、それはそれで間違っていないように聞こえますが、これが「偽りのことば」だと指摘されています。どういうことかというと、「エルサレム神殿には主がおられるから決して崩壊しない、完全に安全な場所である」ということを言っているのです。つまり、神殿そのものを神格化、偶像視している表現なのです。

 確かに神殿で礼拝がささげられていましたが、日本の神社のように“そこ”に神がいる、という場ではありません。むしろ主はどこにでもおられるお方です。

使徒17:24~25「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

 二つ目は、みことばに基づく正義がないことです。

 5節の「公義」が、みことばに基づく正義のことで、具体的な内容は6節に記されています。

6節に三つの「~せず、しなければ」が記されていますが、これらの反対のことが日常的に行われていた、ということでしょう。保護、支援されるべき社会的弱者を虐げ、理由なき殺害が行われ、異教の神々を慕い求めること…これらは、律法に示された“主のあわれみ”や“きよさ”にも反することでした。

*8~9節を読みましょう。

 9節では、彼らが律法にことごとく反していることが告げられています。

 「盗み」は第八戒、「殺し」は第六戒、「姦通」は第七戒、「偽って誓う」は第九戒、「バアルのためにいけにえを焼く」は第一戒、「ほかの神々に従う」は第二戒の違反になります。

*10~11節を読みましょう。

「それなのに…『私たちは救われている』と言う」

 ことごとく律法違反の行為をしておきながら、みことばに聞き従っていない自覚がなく、むしろ「救われている」と自信を持って告白し、神殿で主にも偶像にも礼拝をささげることに矛盾を感じることもなかったのです。

 11節のみことばは、イザヤ56:7にベースとなるみことばがあり、福音書の中でイエスさまによって引用されてるみことばでもあります。

マタイ21:13「そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

 神殿が「わたしの名が付けられているこの家」と表現されているのは、神殿建築に取りかかる時、主ご自身が次のように告げられたからです。

Ⅱ歴代誌7:16「今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの心は、いつもそこにある。」

 神殿とは、主の素晴らしさを讃えて賛美をささげる場であり、へりくだって礼拝をささげる場であり、感謝と決意を持って祈りをささげる場として設けられたのです。…とはいえ、神殿だけに主がおられるのではないのですが、そこを勘違いすると、生活と信仰生活が区別されたものになります。区別された生活が定着すると、礼拝などが宗教儀式のような形式的なものとなり、自己満足のために行く場のようになっていきました。

 神殿に来るのは、“ささげる”ためではなく、“受ける”ため。人の欲や人の目的を満たす場と化していったのです。そのような“誤り”を指摘されたのが、先ほどのマタイ21:13のみことばです。

*12節を読みましょう。

 そんな彼らに、「シロ」での歴史から学びなさいと告げられました。

 「シロ」とは、エフライム領にあった町で、ヨシュアがカナンの地を占領していく中で、会見の天幕を建てた場所です。会見の天幕とは、神殿が無かった時代の礼拝の場です。

ヨシュア18:1「さて、イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。」

 始まりは良かったのですが・・・カナンの地での定住生活が始まり、しばらく経った時には、すでに偶像が持ち込まれています。

士師18:31「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。」

 そして、「シロ」の教訓として最大のものは、Ⅰサムエル4章の出来事でしょう。

Ⅰサムエル4:3「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。『なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう』」

 ペリシテとの戦いで劣勢に陥ったイスラエルは、「主の契約の箱」を戦場に持ってくることで勝てるだろう、と考えたのです。それは信仰ではなく、「契約の箱」を偶像化する間違った不信仰な行為でした。

 民は勝算を確信していたのですが、結果は惨敗。しかも、「契約の箱」は敵に持ち去られ、後年、シロも廃墟となりました。

詩篇78:60「それで、シロの御住まい、人々の中にお建てになったその幕屋を見放し」

 このような残念な過去の罪が繰り返されていることに気付きなさい、と主は呼びかけておられるのですが、その警告を「聞こうともせず…答えもしなかった」民に、「シロにしたのと同様なことを行おう」と告げられたのです。それは、彼らの“間違った拠り所”となっていた神殿を失わせる、ということです。

 さらに、かつては「シロの御住まい」(幕屋)を見放すと言われたのに、民もろとも追い払われる、という“さばき”の宣告が15節に記されています。

 「エフライムのすべての子孫」とは北イスラエルの民のことで、「追い払った」とはアッシリヤ捕囚のことを指します。それと同様に、「あなたがた」(=南ユダ)も「わたしの前から追い払おう」と。つまり、バビロン捕囚が行われる、ということです。

 

*では、7:1~15を読みましょう。 

  ・・・最後にお祈りしましょう。

 先週は、食事会に招待された客たちの上座の奪い合いという醜い争いに対する叱責と共に“どうあるべきか”が告げられていましたが、今回は食事会を主催した側の人に対しても“どうあるべきか”が語られています。

*12節を読みましょう。

 この食事会を主催していたのは「パリサイ派の指導者」(1節)で、新約聖書によく登場する“パリサイ人”のことですが、いくつか存在する宗教指導グループの一派です。「パリサイ」とは“分離”という意味で、“自分たちだけが正しい”という偏見も持っている故に、“他とは分離する”という考えを持つグループ、つまり排他的な人たちなのです。さらに、「律法を重んじている」と主張していますが、実際は律法を自分たちの都合に合わせて解釈し、神さまが命じておられないことまで人々に強要したりしていました。ち

なみに、有名な下記のみことば⇩

マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」

 この「重荷」とは、このような“人の作り出した戒め”に従うことへの苦しみを指します。

 さて本文に戻りまして・・・イエスさまは食事会の主催側へ、「お返し」をしてくれそうな人を招くことはやめなさいと勧告されています。日本も「お返し」をする文化がありますが、その「お返し」は純粋に「ありがとう・うれしかった」という“感謝を形にしたもの”というよりも、“お返しはするもの”という常識に従った行為である場合が多いです。相手との関係を対等にしておく(もらいっ放しは悪い、プラスマイナスゼロにしておく)意味や、お返しをしなければどう思われるかわからないといった評判や評価を気にした行為でもあるのかな、と感じます。当時のパリサイ派の人たちも人の評価を気にしていたので、「お返し」はある意味自分への価値、評価の一つになっているところがあり、「お返し」をいつも期待して行動していました。すると、当然「お返し」をしてくれる人とは仲良くなり、その中でも高価な「お返し」をしてくれる人との関係は大切にしていきます。そのような行動が、彼らの排他的な姿勢を加速させていたのです。

*13~14節を読みましょう。

 そんな彼らに、イエスさまは「むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい」と言われました。その理由は、これらの人々は「お返しができない」からです。

 なぜイエスさまは「お返し」にこだわるのかというと、どんなに良いことや立派なことをしても、“お返し”や“見返り”を期待して行うなら、それは“主なる神に対して”ではなく“人に対して”する行為になるからです。それのどこが悪いのかというと、常に人の目を気にする行動を取るようになり、人が見ている時と見ていない時とで態度が変わるようになります。それは偽善の始まりなのです。

 パリサイ派の人々は、イエスさまから「偽善者だ」と指摘されている場面が度々見受けられます。この「偽善」とは、自分と神との間に“人”が入った状態のことを言います。神を見るべきなのに、神ではなく人を見て行動してしまう、神を畏れるべきなのに、神ではなく人を恐れるようになるのです。

 人間は人の心を見ることはできないし、その場にいなければ真相はわかりません。なので、ウソをつかれて騙されることもしばしばあります。要するに“装う”ことができる。この“装う”という意味が「偽善」のもともとの意味です。

 偽善者にならないためにも「お返しができない」人たちに与えることが大切だとイエスさまは言われます。なぜなら、「お返しができない」人たちへの行為は、神さまが報いてくださる。つまり、神さまが「お返し」をしてくださるから、と言われています。これは、あなたの行動が誰にも褒めてもらえなくても、神さまはすべてをご存じで報いてくださるということです。

 他の箇所で、次のようなことばがあります。

使徒20:35「受けるより与えるほうが幸いである」

 何かを得るために投資するようなつまりで善行に励むのではなく、見えないところで見ておられる神さまを意識して過ごすことの大切さを教えています。

 与えることは、自分のもの(時間、お金、物、体力など)が“減る、無くなる”ように見えるので、それを埋める「お返し・見返り」を求めがちですが、神さまに従って行ったことは神さまが報いてくださるので損失にはならず、むしろ心は豊かに恵まれるのです。

 

*お祈りしましょう。

*16~19節を読みましょう。

 16~17節では、主が民に対して「~せよ」と命じられたことばに、民がどのように答えたかが記されています。一つ目の問いかけは、「幸いの道を尋ね、いこいを見出せ」というもの。

 「四つ辻」とは、原文では“複数の道”で、様々な選択肢のことを示していると思われます。「見渡し」とは、多くの情報をよく見定めることを意味しますが、それは「昔からの通り道 / 幸いの道」を捜すためです。

「昔からの通り道」とは、主が昔から示してくださった(導き伴ってくださった)道のことで、「幸いの道」とは、“唯一の道”や“善い道”を意味し、それは“救い”のことです。

ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 ちなみに、上記の「道」も“唯一の道”という意味です。

「それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ」

 「いこい」とは、“休息”や“安息”を意味しますが、人間が本当に安らぐことができるのは、主と共にあるときです。日常の中で主を見出すことが「いこい」なのです。

 この問いかけに、ユダの民はどのように答えたでしょう。

「しかし、彼らは、『そこを歩まない』と言った」

 しかし、ユダの民は、みことばに聞き従わない、という決断をしました。意思を持って拒んだのです。

 二つ目の問いかけは、「見張り人の鳴らす角笛に注意せよ」というもの。

 「見張り人」とは、預言者たちのことで、「角笛」とは、危機が迫っていることを告げる知らせで、ここでは預言者の語るさばきの警告と、悔い改めの呼びかけのことです。

 それに対して、ユダの民はどう答えたでしょうか。

「彼らは『注意しない』と言った」

 預言者らの語るメッセージに心を痛めることもなく、むしろ預言者を迫害して拒み、悔い改めることをしませんでした。

「彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたから」

 このような明確な反抗心と頑なな心が、さばきを招いたのです。

*20~21節を読みましょう。

 「香油 / 菖蒲」とは、礼拝などに用いるものですが、ユダの民は、より上質なものを「シェバ」「遠い国」からわざわざ取り寄せていました。しかし、ささげものの質にこだわりを見せながら、悔い改めることのない彼らの礼拝は“形式的なもの”でしかなく、主に喜ばれるものではありませんでした。格好だけつけて、自己満足をしている…礼拝とは、主にささげるものであるのに、全く的外れな行為です。

Ⅰサムエル15:22「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

*22~26節を読みましょう。

 「北の地 / 地の果て」から来襲する「一つの民 / 大きな国」とは、バビロンのことです。

「ひとり子のために苦しみ嘆いて、喪に服せ」

 後継ぎである「ひとり子」を失うことは、名を残すことができず、部族から絶たれることを意味するので、“最も悲しいこと”とされています。それほどの悲しみと恐怖に見舞われる、という事と共に、だからこそ“今”悔い改めなければならない、という招きをしておられるのです。

*27節を読みましょう。

 「あなた」とはエレミヤのことで、ここは、エレミヤに対する主からの語り掛けです。

 主がエレミヤを預言者として召された理由の一つとして、民を「ためす / 試みる」ためであったと言われています。平和など、聞き心地の良いことばは、だれもが抵抗なく受け取るでしょう。しかし、“さばきの宣告”や“悔い改めのメッセージ”など、耳の痛い話には拒絶反応が出て来るものです。しかし、そこにこそ本音があるのです。彼らが本当に主に従う意思があるのか、本当に主を求めているのか、そうではなければ何を求めているのか、それを明らかにするのが“みことば”(特に、厳しいみことば)なのです。このように、主なる神が人々の信仰を試される、という表現は下記のみことばにも示されています。

ヨブ23:10「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出て来る。」

詩篇66:10「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。」

箴言17:3「銀にはるつぼ、金には炉。人の心をためすのは主。」

 「試す」のは、本物かニセモノかを見極めるためです。試される側は、いい気はしないでしょう。しかし、これは“民のため”なのです。本当は信仰が無いのに信仰者のような恰好をし続けることで、偽って生きていくことをやめるためには試される必要があります。形だけの信仰は、ただ重荷であって空しいものです。そこには何の希望も力もないからです。そんな空しさから解放されるためにも試されて、本当の自分の姿を知らされる必要があるのです。

 そして、試された結果が28節以降に記されています。

*28~30節を読みましょう。

 29節の描写は、金属から不純物を取り除いて純度を高めるための精錬作業の様子ですが、ユダの民に対する厳しい宣告(それに続く懲らしめ)は、まさに信仰を精錬する工程なのです。

 エレミヤは、主のみことばを真っすぐに語ることでユダの民を試みましたが、「むだだった」と、主に報告しています。エレミヤの見たユダの民の霊的状態は、28、30節に記されています。

「かたくなな反逆者」であり、その頑なさは「青銅や鉄」のようだと表現されています。さらに、エレミヤに対しても「中傷」し続け、それが主に対する「中傷」であることにも気付かず、「堕落」の深みにはまっているのです。それ故、精錬しても不純物を取り除くことができない「廃物の銀」のようだ、と。

 「銀」は高価な物で、当時は特に尊いことに用いられる素材でもありました。しかしそれは純度が高ければ、の話です。「これも銀だ!」と言い張っても、不純物の混ざった銀は、銀として用いられないのです。

 イスラエル(ユダ)の民は、異邦人に主を告げ知らせるための“神の器”として選ばれた民です。主がご自身の尊いことに用いようとしておられました。「銀」のような存在だったのです。彼らもそれを自覚し「私は銀だ!」と誇っていました。しかし、本当の意味(使命)を見失って、ただ誇っていたのです。彼らは主を捨て「反逆」の民となり、主ではない者を拠り頼み、その罪を悔い改めることもせず、「かたくな」な者と成り下がりました。その姿が「廃物の銀」なのです。

 それでも主は、彼らを完全に捨ててしまわれませんでした。この厳しい取り扱いも、彼らに立ち返ってほしいからこその懲らしめなのです。それが、主の愛、あわれみ、恵みなのです。

へブル12:10「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」

 

*では、6:16~30を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

*1節を読みましょう。

 先回から続く、パリサイ派の指導者宅で催された食事会において、来客者たちが「上座を選んで」いた様です。表向きだけでも謙遜に「どうぞどうぞ」と譲り合うのではなく、「私が上座だ」「いや、私の方が格上だ」と張り合っていたのでしょうか…すごい自信ですね。昔、内閣発足時の大臣の記念撮影で、前列の奪い合いみたいなことがあってなかなか撮影できない、みたいな珍事があったことを記憶しておりますが、恥ずかしくないのでしょうかね…。

 さて、その様子を見ていたイエスさまは、たとえ話を用いて教えられました。

*8~9節を読みましょう。

 「婚礼の披露宴」とは、来客者とその席次がきっちり決まっている場です。どこでも自分の好む席を選ぶことはできません。そのような場で、今回のように「来客者の中では私は格上だ」「尊敬されるべき立場の人間だ」という自己評価だけで、案内されてもいないのに「上座」を選んで座ってしまうようなことがないように、と注意勧告されました。なぜなら、自分よりも格上の人が来たら、「上座」を譲らないといけなくなるからです。

 今、「上座」を選んでいる人は、“今ここにいる人”しか見ていないので、この中では私が「上座」に座るべき人間だと判断するのです。しかし、「婚礼の披露宴」ともなると、来客者すべてを把握し、かつ序列によって席を用意している人がいるのです。そして、席次は自己評価や個人の希望ではなく、その全体を把握している人によって定められるのです。普段のちょっとした食事会なら「まぁいいか」で済まされても、慶事などのイベント時には、席次を変えることはできませんので、多くの人に注目される中、席移動を促され、恥をかくことになるのです。

 では、どのように振舞ったらいいのでしょう?

*10~11節を読みましょう。

 「末席に着きなさい」とは、日本的には下座を選ぶということです。初めから「末席」に座っておけば、恥をかくことはない上に、場合によっては「上座」へ案内されるという「面目を施す」ことになるからと言われています。

 さて、今回の“初めから末席を選ぶ”ことは、日本人的には当たり前のことで、むしろ“上座に座りたがる”精神の方が理解しがたいです。それは文化の違いによるもので、決して日本人が謙遜で常識的というわけではありません。周囲がそうするからそれに倣っているに過ぎないのです。

 では、ここでイエスさまが伝えたいことは何でしょうか?

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」

 「上座/末席」の序列や社会秩序について教えたいのではなく、本当の“へりくだり(謙遜)”とは何か? あなたの価値はだれが決めるのか? ということです。

①    本当の“へりくだり(謙遜)”とは?

 ここでの「自分」という語は、直訳では“力、強さ”と言う意味のことばです。つまり、“力”(能力、知力、体力、経済力等)を頼りに、自分の価値を誇ろうとするなら「低く」され、“力”に頼らず誇らないなら「高く」される。なぜなら、“自分の力に頼らない=神に頼り、神に委ねること”を意味するからです。

Ⅰペテロ5:6~7「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

② あなたの価値はだれが決めるのか?

 招待客の席次を決めるのは、宴会の主催側です。先回少し触れましたが、安息日の食事は、神の国での交わりを意識したものでした。なので、ここでも神の国の交わりを意識して「披露宴」のたとえがなされているのです。神の国の食事会の主催者は主なる神です。そして、来客者を招き、席を用意しておられるのも主なる神なのです。ということは、一人一人の価値を決めるのは主なる神である、ということです。自分の価値は、自分自身でも他の誰かでもなく、私たちを造ってくださった創造主なる神が定めておられるのです。その方はこのように評価してくださっています。

イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを創造した。」 

 

*お祈りしましょう。

*1節を読みましょう。

 「ベニヤミンの子ら」とは、エルサレムの住民のことです。エルサレムはベニヤミン領に位置していたため、このように呼ばれています。

 エルサレムの住民らに、エルサレムの南に位置する「テコア / べテ・ハケレム」に逃れ行くよう命じられています。それは、「北から見おろしている」敵(=バビロン)に備えるためです。

 「角笛を吹」くのは、敵が迫り来ることを知らせる合図で、「のろしを上げ」るのは、戦いの合図です。これらの合図をエルサレムから数十キロ離れた地で出さなければならないのは、エルサレムがもはや安全な場所ではなくなっていることを示しています。

*2~3節を読みましょう。

 ここでは、一つのたとえをもって、ユダがバビロンの手に陥る様子を示しています。

 「麗しい牧場」にたとえられている「シオン」(=エルサレムのこと)に、目をつけてやって来る「羊飼い」は“バビロンの王”のことです。そして、彼が連れて来る「自分の群れ」とは、“バビロン軍”のことです。周りに「天幕」を張るのは、そこにしばらく滞在することを示しますが、その目的は、連れて来た「群れ」「草を食べ」させるためです。これはエルサレムを陥落させることを示しています。

*4~5節を読みましょう。

 4~5節は、バビロン軍内でのやりとりの様子を示したものです。

 当時の戦いは、体力を温存するため、消耗の激しい昼間は一旦休戦するのが一般的でしたが、バビロンは「真昼に上ろう」と言っています。ユダからすると、「ウソでしょ…」と腰を抜かすほど驚いたでしょう。さらに、夕刻が近づいたことを残念がる発言があったのに、「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」と、奮起する様子が描かれています。つまり、一日中侵攻し、暗くなっても休まないほどの力をもって、少しも手を緩めることなく襲い掛かり、瞬く間にエルサレムは陥落する、ということを示しているのです。

 しかし、バビロンに指示を与えているのは主なる神であることが、6節以降で記されています。

*6~9節を読みましょう。

 「塁」とは、エルサレムを監視するためのやぐらのことです。それは、攻め込むタイミングを見計らうためです。そして、エルサレムを「罰せられる町」と言われていますが、その理由は「しいたげ / 悪 / 暴虐 / 暴行」があるためです。しかも、ユダの「悪」は、湧き水にたとえられているように、内面からでてくるものであると指摘されています。なので、外面だけを整えても無駄であること、彼らの内面を取り扱うための苦しみであることが告げられています。主なる神が、敵を使ってでもエルサレムを懲らしめられるのは、人情的には疑問を持たれる方もいるかもしれませんが、愛する故の厳しさであることを忘れてはいけません。その愛ゆえの厳しさが示されているのが8節です。

「エルサレムよ。戒めを受けよ。さもないと、わたしの心はおまえから離れ」

 戒めは、ユダの民が悔い改めるために与えられます。戒めを受けないなら、悔い改めることがないので、主と離れてしまうことになります。そうなってしまうことを主は避けたいのです。

 また、この「離れ」という語は、“脱臼する”という意味があります。脱臼した経験がある方は、その痛さが分かりますよね。私も肩を脱臼したことがあるのですが、肩も腕もどちらも痛くて動かせませんし、他の部分にも影響がでます。契約の民であるユダの民と主とが離れてしまうというのは、民の側だけでなく、主にとっても痛い(つらく悲しい)ものであると言っているのです。悪をやめないなら、異教の神々を慕い求め続けるなら、そんな民はいらない、わたしから離れて行け!とは言われないのです。そのための「戒め」なのです。

*10~12節を読みましょう。

 ここでは、ユダの民がどのような状態にあったかが記されています。

 「彼らの耳は閉じたまま」とは、直訳では“耳に割礼が無く”ということばで、“肉で覆われたまま”というような意味でしょう。つまり、民が“みことば”を聞くことができない原因は、聴力の問題ではなく、タイミングの問題でもなく、“肉”(この世のものや欲)によってふさがれてしまっているから、なのです。この世の価値観で“みことば”を聞くなら、何のメリットも魅力も感じず、むしろ従う事は損だと感じて退けたくなるでしょう。それゆえ、「主のことばは、彼らにとってそしりとなる…喜ばない」のです。

「それを、・・・ぶちまけよ」

 「それ」とは、みことばを拒絶する罪に対する「主の憤り」のことです。「主の憤り」が注がれる対象は、「道ばたにいる子ども / 若い男 / 夫・妻 / 年寄り / 齢の満ちた者」と、広範囲であることが告げられています。これは、主のさばきは“えこひいき”や“特別待遇”などによって曲げられることはないこと。どんな人も、その人と神との個人的な関係のもとに報い(さばき、救い)を受けることを示しています。そして、そのさばきは「家 / 畑」などが「他人のものとなる」。つまり、土地や持ち物はバビロン侵攻によって失われ、人は捕囚となって連れ去られるということです。

*13~15節を読みましょう。

 ここでは、もう一つの理由が挙げられています。それは「偽り」です。

 「預言者」は、人受けし易い「偽り」のメッセージを語り、「祭司」もそれを推奨し、「偽り」に加担します。そして、エレミヤの告げる“真実”と偽預言者の告げる「偽り」の両方を聞いた聴衆も、「偽り」のメッセージを受け入れます。それは聞き心地の良い内容だったからです。

「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」

 当時の人々の日常は、バビロンの脅威が迫って来ている状況には“未だ”無く、同じ日常を過ごしていました。そんな中、エレミヤがバビロン捕囚の預言を説き、悔い改めを迫っても、危機感を持つ人はなく、むしろ「なんでそんな不穏なことを言いふらしているんだ、国の滅亡を告げるなんて非国民だ!」と非難されたのです。そんな中、対抗馬の如く偽預言者らが「ユダは平安だ」と語っていたら、良いニュースを語る偽預言者の方が「愛国的で良い」と受け取られるのは当然です。占いやおみくじなどで、悪い結果が出た時には信じないで、良い結果が出た時には信じる、といった傾向があるそうですが、それに似た感覚でしょう。しかし、重要な事は“事実”と“願望”とは違う、ということです。「さばかれることなんてない」と強く願っても、さばかれる要因となった罪をやめない(悔い改めない)のであれば、さばきは下るのです。しかも、彼らが「偽り」のメッセージを受け入れた理由は「利得をむさぼり、偽りを行(う)」ためでした。自分の欲を満たすために、神の正しさは邪魔でしかない、ということです。

ヤコブ4:4「貞操の無い人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」

 

*では、6:1~15を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。