聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*19~21節を読みましょう。

 罪を指摘されても悔い改めようとしないユダは、“さばき”を免れることができない状態になっていました。そんな中、エレミヤは蔑んだり軽蔑したりするのではなく、むしろ民の一員として(代表として)嘆き、この先に起きるエルサレムの惨状を悲しんでいます。

 「はらわた」とは、“内臓”や“曲がりくねった入り組んだ所”という意味の語で、聖書では“感情の在り処”や“感情の中心部”を表す語として使われています。なので、ここでは「心の底から痛み悲しむ」というような心情(普通の感情ではない)を言い表しています。これほどの「痛み苦しみ」の理由が19節後半で述べられています。

「角笛の音と戦いの雄たけび」とは、バビロン軍の来襲を示しています。バビロンの侵攻によって、イスラエル・ユダの誇りであったエルサレムは、神殿、城壁も含めてことごとく破壊されます。しかし、バビロンは手を緩めることなく徹底的に破壊行為を続け、ユダの頼みとしていたものをすべて失わせます。彼らに“主だけが残される”というあわれみの取り扱いです。

*22節を読みましょう。

 22節は、一人称が平仮名表記の「わたし」となっていることから、主なる神が語っておられる部分です。

 「わたしを知らない」と言う不従順なユダの民であっても、主は「わたしの民」と呼ばれます。だからこそ、罪を叱責し、懲らしめを与えられるのです。

 一方、「わたしを知らない」とは、知識の欠如などの未熟さ故の「知らない」ではなく、知識としては知っているのに、実際的な関りは拒絶していることを示しています。このことは、彼らの実生活に大きな影響を及ぼしています。

「悪事を働くのに賢くて、善を行うことを知らない」

 「悪事を働くのに賢く」とは、“悪知恵”というよりも、“世渡り上手”的な意味です。つまりユダの民は、この世での出世や成功、生活の安定(豊かさ)などが最大の関心事であり、それらが幸いな姿だと思っていたということを示しています。そして「善」とは、道徳的な善い行いのことではなく、神に関することを指し、“神の望まれること”、“神の喜ばれること”“みこころ”などを意味します。ここに根本的な彼らの問題が指摘されています。それは、ユダの民は、“自分が喜ぶこと”、“自分にとって良いと思うこと”ばかりを求めていて、神が何を求めておられるか、何を喜ばれるかなどは関心の外だった、ということです。

ローマ16:19「あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」

*23~節を読みましょう。

 ここでは、バビロン捕囚と共に終末のさばきに関する預言がなされています。預言書には当時起きることと将来起きることとが重ねて預言されている場面がよく見られます。それは、バビロン捕囚のような出来事は当時だけで終わるものではないこと。つまり、当時の人々だけが注意しなければならないことではなく、時を経てすべての信仰者たちが学ぶべきひとつの教訓であり、最終的なさばきこそ、本当のさばきであることを知るためです。

 23節の「茫漠として何もなく」とは、以前の都の姿(日常の姿)が失われ、全く違う光景となっていることを示しています。バビロン軍の侵攻によって堅固な城壁が打ち破られた後のエルサレムは、見渡す限り瓦礫の山となりました。しかし、このような光景は終末にも見られるのです。

「天と見ると、その光はなかった…山々…揺れ動き、すべての丘は震え」

 これらの表現は、バビロン捕囚時のことではなく、終末に限ったことでしょう。終末には地震が多発し、天変地異が起きるのです。

 25~26節では、多くの人々がいなくなったことで、土地が荒れ、まるでいのちがないかのような光景が広がっています。しかし、このような中にも希望があることを、27~28節で告げています。

「わたしはことごとくは滅ぼさない」

 これは“残りの民”がいることを告げています。そもそも、さばきはなぜ起きるのかというと、民の側が罪を認めることも悔い改めることもしないからです。それらを自覚させ、信仰を立ち返らせることを目的とした“こらしめ”なのです。なので、主なる神が求めておられるのは従わない者を罰することではなく、イスラエルが信仰を回復し、真の神の民として主を証しする者として回復することです。そのために、各時代において“残りの民”という信仰者を残してくださっています。無名の彼らの存在があったからこそ、神の民イスラエルは絶滅せず、回復した信仰者たちによって世界中に福音が語り告げられているのです。

 ただし、イスラエルは神の民である故に特別扱いを受けてさばかれない、ということはなく、イスラエルであろうと異邦人であろうと、罪に対する報いは受けなければならないし、悔い改めないのであればさばきを免れることは決してできない、ということも同時に告げられています。だからこそ、回避できるのではないか?と変な企てをして逃亡策を謀るのではなく、素直に悔い改めることが必要なのです。

 最期の段落では、知恵を絞って回避策を練ったとしても、それは空しく失敗すると告げられています。

*29~31節を読みましょう。

 29節では、敵の攻撃を目前にして逃げ惑う人々の様子が、30節では、国を挙げて逃避を謀る様子が描かれています。

 「踏みにじられた女」と表現されている“エルサレム”が、「緋の衣」(=高価な服のこと)や「金の飾り」で装い、「恋人」と表現されている“バビロン”に対して、持てる物すべてを投げうって媚びへつらっている様子を描いています。しかし、「かいがない」と言われているように、そんなことでバビロンの侵攻を止めることはできません。なぜなら、バビロンを用いておられるのは主なる神だから。主に悔い改めることなく、“この世の知恵”や“この世の富”を用いて問題を回避しようとする姿勢そのものが筋違いなのです。

 “苦しみ”に対して、回避するか、受け留めるか。受け留めて絶望するか、意味を見出そうとするかで、その後の歩みは大きく変わります。誰でも無駄に苦しみたくはないですよね? しかし、無理やり平気な素振りをしたり、強がったりすることは正しい反応ではありません。では、どうしたらいいか?…まずは、正しく悲しむことです。正しく悲しむとは、主にすがり、悔い改めるということです。

Ⅱコリント7:10「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

 

*では、4:19~31を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 24節で「狭い門から入りなさい」という勧めと共に、「努力して」入るべき理由を、「入ろうとしても入れなくなる人が多い」からだと言われていました。その「入ろうとしても入れなくなる」とはどういう事なのか?についての教えです。

*25節を読みましょう。

 入れなくなる理由の一つ目は、「主人が・・・戸をしめて」しまう時が来るからです。ここでの「主人」はイエスさま、「戸」24節「狭い門」と同様の意味です。救いに至る「狭い門」は、いつまでも解放されていないということです。

 神さまはすべての人が救われることを望んでおられるはずなのに、どうして閉めてしまうのか?と思われるかもしれませんが、神さまは人情に流されてえこひいきしたり、罪を大目に見るようなことはなさいません。すべてにおいて聖い方なので、悔い改める者を赦してくださいますが、罪は罪としてさばかれます。

 ここで言う「狭い門」「戸」を閉めるのは、罪人を招く“あわれみの期間の終わり”、罪の“さばきの始まり”を示します。

 だからこそ、「戸」が閉じられたあとは、再び「戸」が開かれて招き入れられることはないことが示されています。

「あなたがたがどこの者か、私は知らない」

 上記の「知らない」は、面識の有無を示すのではなく、「どこ」に属する者か、という出身や所属に関することで、救いとさばきに関する場面なので、当然霊的な意味でのことを指します。

 すべての人は、二種類に分類されます。生まれながらの罪人(肉に属する人)と、罪を赦された人(御霊に属する人)です。前者は、神と敵対し、神との関係が断絶したままの人で、後者は、神と和解し、神との関係が回復された人です。

ここで「主人」であるイエスさまから「知らない」と言われている人は、神との関係が断絶したまま、つまり“神との関係が無い人”ということです。

しかし、この人は知らない関係ではないと主張します。

*26~27節を読みましょう。

「食べたり飲んだりし・・・大通りで教えていただきました」

 面識はあるどころか、何度も交流があったことを必死にアピールしています。しかし、「主人」からは変わらず「知らない」と言われてしまうのです。これはどういうことでしょうか?

 ここで、戸をたたき「あけてください」とお願いしている者たちは、おもにイスラエルの民です。だからこそ、彼らは「知らない関係ではないでしょう」と訴えているのです。彼らは、「自分たちは神の民であり、救いを約束された民だ」と自覚していたからです。それが、ここで言っている「食事を共にし、教えを受けて来た」というアピールです。

 しかし、イエスさまから見たイスラエルの民は、型通りの礼拝や祈り、知識だけの聖書理解、間違ったメシヤ待望など、頭だけ(形ばかり)の信仰者だったのです。彼らは、悔い改めて神との関係を回復されなければならない者であるという自覚がないままに、礼拝や祈り、聖書の学びも、すべてを自分の満足のために行っていたのです。

*27~28節を読みましょう。

 「アブラハム / イサク / ヤコブ」の名が挙げられているのは、イスラエルの民にとって救いの根拠となっているのが血筋だからです。神さまは、アブラハムの子孫に祝福の約束を与えられました。そのアブラハムの子孫である自分たちこそ神の祝福の民であると考え、救いを疑っていなかったのです。その確信がここで猛アピールをしている姿なのです。

 しかし、イエスさまはアブラハムたちが入っている御国にこのままでは入ることはできないと、厳しいことばを告げています。

*29節を読みましょう。

 「東からも西からも、また南からも北からも」来る人々は、異邦人のことを指します。この人々が「神の国で食卓に着きます」とは、イスラエルの民は異邦人は「アブラハムの子孫ではないから救われない」と思い込んでいるが、そうではない。救われることができるのだ、という思いがけないことを明かされます。

 これは、神の愛とあわれみの大きさと、すべての人は神の前に等しい価値があることを示すとともに、イスラエルの民に良い意味でのねたみを起こさせ、「異邦人でさえ救われるのであれば、神の民と言いながら背いてきた自分の罪も神は赦してくださる」と、悔い改めて神に立ち返ることを期待した語り掛けでもあるのです。 

 

*お祈りしましょう。

*1~2節を読みましょう。

 過去に荒野で過ごした40年間に、イスラエルの歴史の縮図が現わされているように、罪➱さばきの宣告➱悔い改め➱救い➱罪…という繰り返しを辿って来ました。その背景には、いつも主のあわれみと忍耐があったのです。この時代にも、同じことが繰り返されていますが、やはり主はあわれみと忍耐を持って彼らに呼びかけられます。

「もし帰るのなら…わたしのところに帰って来い」

 「帰って来い」との呼びかけは、“帰るべき場所”を用意してくれている“前提”のもと、発せられたことばです。そして、その“帰るべき場所”とは「わたしのところ」だと明言しています。

 帰るべき場所がある安心感は半端ないものであり、だからこそ悔い改めることができるのです。では、どのようにして「わたしのところに帰る」のか?

「あなたが忌むべき物をわたしの前から除く」

 それは、偶像を捨て去ること、偶像を慕い求めることをやめることによってです。

 そして、“悔い改め”とは“方向転換する”という意味があるように、「除く」(捨てる)なら、すぐに新しい決心をして行動することが大切です。なぜなら、悪い物を捨て去って、心を空っぽにした状態のまま放置しておくと、そこへまた無益なものや悪い物を受け入れてしまう危険があるからです。

 では、なすべき新しい決心、行動とは何でしょう?

「あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓う」

 「主は生きておられる」という宣言は、イスラエルの民が昔から好んで使っていた定型文句です。これを、ただ口癖のように発するのではなく、ウソ偽りのない信仰告白として宣言しなさい、と命じています。別の言い方をすれば、形だけ信仰者ぶるのをやめて、本気で主に従いなさい、ということです。

 そのように、イスラエルの信仰が回復され、本来彼らに与えられた使命(異邦人へ主を告げ知らせること)に生きるなら、「国々」(異邦諸国)が救いに導かれ、イスラエルと共に主を讃えるものとなる、と告げられています。

*3節を読みましょう。

 「耕地」とは、“何も植えていない、生えていない”土地のことで、「開拓」とは、“砕いて掘り起こす”ことです。もちろんこれは比喩であり、「耕地」と表された“人の心”を、「開拓せよ」つまり、“打ち砕いて柔らかにせよ”と命じているのです。

 「いばら」とは、厄介な雑草のひとつですが、“悩み”や“苦痛”などを表すことばでもあります。そして、その中に「種を蒔くな」と命じられていますが、ちょうどよいたとえ話が新約聖書にありますね。

マタイ13:22「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」

 ここで「いばら」とは、「この世の心づかい・富の惑わし」であると言われています。では、この二つだけが問題なのかというとそうではありません。これらは「みことばをふさぐ」ものの代表例に過ぎません。

 なので、「いばらの中に種を蒔くな」とは、みことばに目を向けることを妨げさせるような心配の仕方、不安の解消の仕方をやめる、ということを示しているのです。

「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」

 「割礼」は、イスラエルの男性が“契約のしるし”として受ける儀式で、その起源は創世記17章にあります。簡単な外科手術によって成され、痛みはあるものの、受け手にとってはハードルの高くない儀式です。そして「割礼」を受けることで、神の祝福を受ける民として認められる、と考えられていたので、「割礼」を受けること安心を得ようとしていました。受けること自体が目的であり、ゴールであるかのような、間違った捉え方をし続けてきたイスラエルの民に対して、“自分のため”ではなく「主のために」、“皮膚の一部分”を切り取る割礼ではなく、「心の包皮」を切除することを求められました。

 儀式を行う事は簡単で、“やった感”があるのでわかりやすいですが、聖書はそのような方法で確信を得ることを述べてはいません。むしろ、形だけの儀式は無意味であり、害なのです。見せかけの信仰は偽善だからです。

ローマ2:28~29「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人なのであり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

*5~7節を読みましょう。

 「角笛を吹け」とは、危機が迫っていることを広く告げ知らせる様子です。現代の防災無線による避難の呼びかけみたいなものでしょうか。そして、ここでの危機とは「北」から来る「獅子によって」もたらされる「わざわい」「大いなる破滅」です。

 ここで「獅子」と呼ばれている“バビロン”によって、難攻不落を誇るエルサレムが包囲され陥落…。そして堅固な城壁も神殿も崩壊するという、前代未聞の「わざわい/大いなる破滅」が迫っていたのです。この危機を乗り越える方法は、ただ一つしかありません。それは、主の前に悔い改め、バビロンに降伏することです。なぜならこの危機は、ユダが信仰に立ち返るための懲らしめであり、その懲らしめの道具として“主が”バビロンを用いておられるからです。ユダにとってバビロンは敵国であり、しかも異邦人です。彼らに降伏することは、惨めで情けなくて決してやりたくない行為でしょう。しかし、バビロンに降伏することこそ、主のみこころであり、御手の下にへりくだる行為なのです。逆に、バビロンと戦おうとしたり、いつまでも城壁や神殿の堅固さに過信してエルサレムにしがみついたりしても、そこには滅びしかないのです。主に対抗し、主と戦うことになるのですから。では、どうしたらいいのでしょう?彼らがさばきを免れる道はひとつ。

*8節を読みましょう。

「そのために荒布をまとい、悲しみ嘆け」

 その唯一の方法とは、…くどいようですが、悔い改めることです。そもそも、このようなわざわいを招いた原因は何かと言えば、イスラエル・ユダが、みことばに聞き従わず、異教の神々を慕い求め、それらを拝み続けたからです。彼らが口先だけでなく、本当に神の民として生きるためには、偶像を捨て、信仰を立ち返らせる必要がありました。そのための懲らしめがバビロン捕囚なのです。しかし、多くのものは悔い改めなかったので、バビロン捕囚は現実のものとなったのです。

*9節を読みましょう。

 ここでの「その日」とは、バビロンによってエルサレムが陥落させられる日のことです。

 「王、つかさ、祭司、預言者」とは、国の指導的立場にいる人々で、彼らがこぞって「驚く」様子が描かれています。これは、彼らがバビロンに侵攻されるその時まで油断していたこと。さばきの宣告に対して、真剣に向き合っていなかったことを示しています。なぜなら彼らは、偽りの平和を告げる偽預言者のことばを信じていたからです。そのことについて、エレミヤが悔しい胸の内を率直に打ち明けています。

*10節を読みましょう。

 ここでエレミヤは、主なる神が「あなたがたには平和が来る」と告げて民を欺かれた、と訴えているように聞こえます。どういうことでしょう?

 ここで「あなたがたには平和が来る」と告げたのは、主ではなく“偽預言者たち”です。そして、その偽預言は、多くの人々の心を捕らえ、信じてしまったのです。結果、信じた多くの者たちが、さばきを告げるエレミヤを迫害したのです。その苦悩を吐露しつつ、「なぜ主は、偽預言者たちがのさばるのをお許しになられたのですか」と訴えているのです。もちろん、エレミヤは「神さまが悪い!」と言いたいのではありません。たとえ偽預言者が勢力的に活動したとしても、聴衆の一人一人がそれを吟味し、真偽を確かめれば欺かれることはないのです。神さまが悪いわけではありません。むしろ、偽の登場によって一人一人が本当に真理を求めているのか、何を信仰しているのかが明らかにされたのです。さばきの前には、そのような“ふるい分け”が行われるのです。

*11~12節を読みましょう。

 ふるい分けによって真偽が明らかにされた後に、さばきが来るのです。

 神のさばきが「熱風」にたとえられていますが、この「熱風」とは、砂漠から吹いてくる季節風のことで、草木も枯らしてしまうほどの風です。この激しい風は、「吹き分けるため」つまり、“ふるい分け”のためではありません。もはや、その段階ではないということです。また、「清めるためでもない」つまり、より成長させる(益となる)ための試練でもないのです。「さばきを下そう」と言われているように、さばきのための激しい風なのです。だからこそ、さばきが始まる前に悔い改め、主に立ち返れと呼びかけられているのです。

*13~18節を読みましょう。

 ここでは、「熱風」に例えられた“さばき”についての描写が記されています。

 バビロン軍が攻め寄せる様子が「つむじ風」「鷲」に例えられ、その勢いと迅速さに、決して逃れることはできないことが強調されています。そして、「上って来る」という切羽詰まった状況で、最後の招きのことばが叫ばれています。

「救われるために、心を洗って悪を除け」

 「今ならまだ間に合う」というよりも、最後の機会だから「今、決断しなさい」という招きです。そして、その方法として告げられた「心を洗って」とは、“向き直って”という意味です。つまり悔い改めて主に向き直るということです。悔い改める(主に向き直る)ことで「悪を除く」ことができるのです。自分の努力や意志の強さでは心をきれいにすることはできないし、まして救いを得ることなどできないのです。主にしかできないので、主に向き直るのです。

 15節の「ダン」はイスラエルの最北の地、「ナフタリ」は最南の地を指し、この二地の地名でイスラエルの全土を表しています。主への悔い改めの招きの声はイスラエルの全土に告げ知らされる様子が描かれています。ゆえに、さばきが起きた時に「聞いたことが無い」「知らなかった」と言い逃れることができる人はいないのです。

 本聖書は“きょう”という時を大切にするよう、語っています。それは、“きょう”なすべきことは“きょう”なすべきだからです。過ぎ去ってしまったら、戻ることができないのです。そして、“きょう”何をなすべきなのかを、次のように告げています。

へブル3:13「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」

同15節「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

 

*では、4:1~18を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

*22~23節を読みましょう。

 イエスさまがこの世に来られた目的は、罪人の身代わりとして死に、葬られ、よみがえることによって贖いを成し遂げられるためですが、それだけが目的ではありません。次のようなみことばがあります。

マルコ1:38「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』」

 もし、イエスさまがこの世に来られた目的が十字架に架かって死ぬためだけであれば、わざわざ弟子を作り、寝食を共にしながら旅をする必要はなかったでしょう。しかし、上記のみことばにある通り、イエスさまは“福音を知らせる”ためにも、この世に降りて来てくださったのです。

 イエスさまは弟子たちを伴って、町々村々で福音を語っておられました。その行く先では、多くの群衆がイエスさまに興味をもって取り囲み、移動すればぞろぞろついて来る・・・というのが日常のよくある光景でした。しかし、群衆の多くは、イエスさまのなされる奇蹟などに興味関心をもつのに、福音に対しては無反応という場面がよく見られます。そんなことを、イエスさまの身近で肌で感じていた人が「主よ。救われる者は少ないのですか」と、尋ねたのです。

 私たちの身近でも、クリスチャンは少数派ですので、現代にも通じる疑問です。

*24節を読みましょう。

 それに対して、イエスさまは「少ない」とも「少なくない」とも答えられず、この質問をきっかけに、救いに至る道について教えられたのです。

「努力して狭い門から入りなさい」

 この「努力して」とは、競技用語で“全力を傾ける”ことを意味し、それは敵との戦いというよりも“自分(自我)との闘い”という面が強いです。救いに至るには、まず自分が罪人であることを認め、悔い改める必要があるからです。その罪の自覚に必要な罪の基準は、神の定めた基準であり、自分なりの正義や道徳ではないのです。人を見て(人との比較で)「私はあの人よりはマシ」「あの人は酷い」などと、人の罪にばかり注目してさばいたり、比較による優劣で自分の罪人レベルを測ろうとするなら、それは正しい悔い改めには至りません。だから、自分自身を見つめ直す自分との闘いという「努力」が必要になるのです。

 「狭い門」に関しては、他の箇所では次のように記されています。

マタイ7:13~14「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」

 マタイの福音書では、「狭い門」「いのちに至る門」であり、狭いだけでなく、見つけることができる人も“滅多にいない”、“非常に少ない”と言っています。・・・ということは、やはり救われる人は少数派なのでしょうか?

 一方で、神は全ての人の救いを願っているとのみことばもあります。

Ⅰテモテ2:4「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

 救いを与えるのは神であり、神ご自身が願っておられるのであれば、なぜ“救い”は「広い門」ではないのでしょう?

 実はこの「狭い / 広い」という表現は、人の目から見た時の狭さと広さのことです。神は、救いの門を広く開いて、誰にでも見つけることができるようにしてくださっているのに、人間の側が「狭い」と決めつけていることを示しています。世界には多くの宗教があります。その中で「なぜキリストだけが神、救い主と言えるのか? 他にも立派な神々、教祖はいるだろう」「なぜ福音を信じないと救われないのか? 他にも良い教えの宗教はあるだろう」などと、聖書の示す“唯一”に関して心が狭いと非難し、もっと自由でいいじゃないかと曖昧さを求める、そんな人間の考えが、福音を「狭い門」にしてしまったのです。

 私たちは子どもの頃から多数決で決定するという方法を、多くの場面で採用してきたので、どうしても多数派の方が正解、多数派にいれば安心という感覚を持っています。しかし、いつでも“多数=正しい判断”ではなく、時には少数派の方が正しい見方をしていることもありますよね。特に、救いは個人的に応答し、個人的に受けるものです。そういった点からも、人の意見に影響される必要はなく、多数派に流される必要もないのです。

 ルカの福音書では、「入ろうとしても、入れなくなる人が多い」と言われているのが、多数派に流され、真理を見失った人のことです。

 福音は広く語り尽くされています。人間の側の責任は、福音に対する正しい応答、招かれている時に応答することです。   

*お祈りしましょう。

*6節を読みましょう。

 「背信の女イスラエル」とは、北イスラエル王国のことを指します。とはいえ、BC721(722)にアッシリヤ捕囚に遭っているので、この時「ヨシヤ王の時代」(BC640~609)には、北イスラエルはもう存在しません。しかし、主は「見たか」と、北イスラエルが不信仰からどのような結末を辿ったかを思い起こし、そこから教訓を得るようにと命じておられます。

 北イスラエルは、アッシリヤの攻撃によって首都サマリヤが陥落し、多くの民が捕囚として外国へ連れて行かれました。同時に、北イスラエルの領土は植民地化され、捕囚とならなかった民は混血によって民族性を失っていきました。そのような経緯から、南ユダの人々は北イスラエルを軽蔑し、同胞ではなく異邦人であるかのように扱うようになっていきました。…では、南ユダは本当に北イスラエルのことを笑える立場なのでしょうか?

 北イスラエルが滅ぼされた理由は、アッシリヤが強すぎたからではなく、イスラエルの軍事力が乏しかったからでもありません。彼らが偶像礼拝の罪を犯し続け、主を捨てたことが原因でした。ここで「高い山の上…淫行を行った」という表現はそのことを示しています。その罪から離れるため、悔い改めて主に立ち返ることを目的とした“主に拠るさばき”がアッシリヤ捕囚だったのです。ここが「イスラエルが行ったことを見たか」(それを見て、自分を戒めなさい)と言われているところです。つまり、南ユダは北イスラエルを軽蔑し嘲笑しているが、彼らと同じ道を辿っているのだ、ということです。

*8~10節を読みましょう。

 北イスラエルが「背信の女」と呼ばれているのに対し、南ユダは「裏切る女」と呼ばれています。微妙な違いですが、それぞれの罪の違いを言い表しています。

 「背信」とは、文字通り“背を向ける”ことを意味し、主に対する不信仰や偶像礼拝を指すことばです。一方、「裏切る」とは、“顔と顔とを合わせておきながら背を向ける”ことで、卑怯で、悪質な行為なのです。実際はどんな違いがあったかというと、北イスラエルはエルサレムに代わる(独自の)礼拝所を設け、偶像礼拝が加速していき、全く異教徒のようになっていました。一方、南ユダにはエルサレムがあるので、神殿礼拝と偶像礼拝とが同時に行われている状態でした。「私たちは異教の神々にも主にも礼拝をささげている熱心な信仰者だ」という自覚を持っていた厄介さがありました。これが「背信」「裏切り」の違いです。

*11節を読みましょう。

「イスラエルは、…ユダよりも正しかった」 

 北イスラエルがアッシリヤ捕囚となったのはAD721(722)で、南ユダがバビロン捕囚となったのはAD586。両者の差は140年弱もあります。その間、南ユダはアッシリヤ捕囚を自分事として捉え、反面教師として倣い、悔い改めるための機会としなければなりませんでした。しかし、ユダはそうしませんでした。「北イスラエルはさばかれた」と軽蔑し、自分たちは信仰的だと高ぶっていったのです。

 それゆえ、主は北イスラエルにも回復の約束を告げ、招かれます。

*12~13節を読みましょう。

 1節で、律法によれば、不貞を理由に離縁された女は元の夫とよりを戻すことはできない、ということを確認しましたが、本来は不可能であるのに、主は「帰れ」と呼びかけ、「わたしがあなたがたの夫になるから」と告げています。

 律法で不可とされている理由は、「彼女は汚されているから」(申命記24:4)です。しかし、主は罪人が悔い改めるなら、その罪を赦し、きよめることがおできになるので、「帰れ」「わたしがあなたがたの夫になるから」と告げることができるのです。 一度壊れた関係を修復(回復)することができるのは、主なる神だけなのです。

Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 ただし、上記のみことばにあるように、人間の側が招きに応えなければ回復(救い)はありません。なので、13節で「ただ、あなたは自分の咎を知れ」と、あなたがたがすべきことは悔い改めであると言われているのです。

*14節を読みましょう。

 ここからは、終末の時代のエルサレムの回復についての預言です。16、18節「その日」、17節「そのとき」という表現は終末を示します。

「わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたりを選び取り、シオンに連れて行こう」

 「シオンに連れて行こう」とは、世界中に離散しているイスラエルの民を、主ご自身がエルサレムへ連れ帰ってくださるという回復の約束です。しかし、全員が帰還するのではなく、限られた一部の人々であることが告げられています。ここでの「ひとり / ふたり」とは、“ごく少数人”を指し、別の箇所では“残りの民”と表現されている人々(真の信仰者たち)のことです。しかし、いつまでも“少数人”のままではありません。「国中にふえて多くなる」のです。

「主の契約の箱について何も言わず…作ろうともしない」

 「主の契約の箱」とは、昔、幕屋(神殿)の至聖所内に置かれていた箱で、“主の臨在”を象徴するものでした。しかし、その箱の中に主がおられるわけではありません。主は遍在される方です。

エレミヤ23:23~24「わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ―― 遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ―― 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ――」

 しかし、イスラエルは「契約の箱」のある所に主もおられると勘違いし、偶像のように扱うという失敗をしたのです。有名なところでは、ペリシテとの戦いで、劣勢に陥ったイスラエル軍が「劣勢になっているのはここに神がおられないからだ!」と、契約の箱を戦場まで持って来たものの、ペリシテに奪われる(しかも敗北)という話がありますね。それほどに、イスラエルの民にとって神殿や契約の箱は神そのものであるかのような存在になってしまっていたのです。そんな彼らが契約の箱にこだわらなくなる、というのは、「その日」(終末)には、“象徴”とされていた方(キリスト)そのものが来られるので、“象徴”は必要なくなる、ということを示しています。

 そして17節は、キリストが“王の王”、“主の主”として現れ、エルサレムを中心に世界を治められる様子が描かれています。その時には、北と南に分裂していたイスラエルも一つとされ、回復するのです。それは、彼らもキリスト共に治める者とされるからです。

 しかし、現状は“キリスト共に治める者”とは程遠い状態であることが19~20節で告げられています。主なる神の側は、イスラエルをご自身の民として、祝福を与えんと教え導いて来られましたが、民はそれに応えず、背き続けているのです。

*21~23節を読みましょう。

 「裸の丘」とは、偶像礼拝がささげられていた場所のことで、そこから聞こえてくるのは「哀願の泣き声」。なぜ泣いているのかというと、多くのものを失ったからです。イスラエルは、神の祝福や将来の約束よりも、目の前の利益や身近な満足を追い求めて、それらを手にすることが喜びであり幸いであると思い込んでいました。主に従うことよりも、自分の欲や感覚に従う道を選んだのです。しかし、実際には得るものはわずかで、多くのものを失ったのです。気付いた時には悲嘆に暮れて泣くしかなかったのです。自業自得です。…自業自得なのですが、主はそんな彼らに「帰れ」と招き続けられたのです。そして、帰るべき理由をも告げています。

「わたしがあなたがたの背信をいやそう」

 聖書は罪を病にたとえています。しかも死に至る病です。少し休んだら治るようなものではないのです。そしてその“死に至る病”(罪)は、神にしかいやすことができないのです。

 この招きを受けて、エレミヤが民を代表して応答します。

「今、私たちはあなたのもとにまいります」

 この素直な応答だけが正しい選択なのです。まずは自分で頑張ってみてダメなら帰る、のではないのです。そして「今」と言っているように、招かれている時に、すぐに答えなければならないのです。

 招きへの応答を告げた後には、信仰告白が続きます。

「あなたこそ、私たちの神、主」

 世には「神」と呼ばれる存在は無数にあります。それは、人間がそれほど多くの神々を作り出したからです。しかし、本物の「神」は人間をはじめすべての被造物を造られた方で、誰の手も必要とせず自存しておられる唯一のお方です。その方は、私たちにいのちを与え、愛し、あわれみ、恵みをもって生かしてくださっている「主」なのです。

「もろもろの丘も、山の騒ぎも偽りでした」

 「もろもろの丘、山の騒ぎ」とは、偶像礼拝のことを指し、それらが「偽り」であると分かったので、捨てる決心をしています。いろいろな神を信仰することは、信心深さや熱心さの現れではありません。むしろ、ひとつの神を信じきれない不信仰の現れで、それだけ多くの欲望を抱えていることの現れです。損失よりも利益を…と、いろいろな神々に保険をかけるような信じ方は、結局、自分を信じているにすぎないのです。

「確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります」

 偶像は、人間が欲望のままに“願いを叶える”ことを目的として作られたものなので、罪をさばく神や罪を赦す神などは存在しません。しかし、真の神は「救い」を与える方です。

*24~25節を読みましょう。

 「しかし」とあるように、今この時点では民は悔い改めてはおらず、未だ罪の中にいるのです。

 「若いころから」とは、イスラエル民史の初期のころから、ということです。

「バアルが、私たちの先祖の勤労の実…を食い尽くしました」

 バアル神は、“豊穣の神”とされていて、カナンの地では、農作業の守りと収穫の祝福などを祈願する神でした。カナンの地は非常に豊かな産物を生み出す恵まれた土地でしたが、それは、主なる神がそのような地を造られたからです。しかし、カナンに住む異教徒たちは「バアルのおかげだ」と、バアルに感謝をささげていたのです。それをイスラエルも倣うようになったのです。

 しかし、豊作を与えてくれるはずのバアルを信仰することで、多くのものを失いました。失って初めて気が付いたことは「私たちの神、主の御声に聞き従わなかった」という背信の罪でした。この「御声に聞き従わなかった」という反抗心は、誰の心にも(もちろん私たちの心にも)あるものです。だからこそ、聖書は後の時代の私たちに次のように警告しています。

へブル3:15「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

 

*では、3:6~25を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。