聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

 14:11で「この民のために幸いを祈ってはならない」と、とりなし祈ることを禁じられましたが、このように命じられたのはこれで三度目です。それでも、エレミヤはことばを変え、方向性を変えて、ユダに対するあわれみを乞い願い続けましたが…本章では、とりなし祈ったとしても、その祈りは聞かれないこと。それは何故なのか、その理由が告げられています。

*1節を読みましょう。

「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない」

 ここで挙げられている「モーセとサムエル」は、民のためにとりなし祈った預言者です。

「モーセ」は、荒野を旅する途上のシナイ山で、モーセが主から十戒を授かる際、待っていた民衆が、想像以上に日数がかかったことからしびれを切らし、自分たちを先導する新たな神として、エジプト生活で馴染みの有った金の子牛を作ってしまうという出来事がありました(出エ32章)。

 「サムエル」の時代は、神制政治が行われている時代でしたが、イスラエルの民は諸外国のように王(王制政治)を求めました。それは、高齢になったサムエルの後任(サムエルの息子)が頼りない人物で、将来に不安しか見えない状況だったからです。

 この民の要望は、国の安定や安全を求めているようで、実際は“主を退けること”であったのです(Ⅰサム8章)。しかし、主は彼らの望む通りに王を与えられました。それによって立てられた初代王がサウルですが、最初は謙虚であったサウルも、直ぐに高ぶって権威権力を悪用し、早々に国に危機を招いたのです。

 ・・・ということで、「モーセとサムエル」は、民が主を捨てた罪に憤り、その罪が招いたさばきに嘆き悲しみ、何度もとりなし祈った預言者、という点で共通点があり、エレミヤとも状況が似ているのです。

 実際、イスラエルはこのようなとりなしの祈りによって守られてきたのですが、主は、「モーセとサムエル」がとりなし祈ったとしても、今の状態のユダからさばきを取り下げることはしない、と言われます。これは、祈り手に力があるのではない、ということを告げているのです。つまり、エレミヤのとりなしの祈りが退けられる理由は、エレミヤの祈り(祈り方、祈りのタイミングなど)やエレミヤの信仰に問題があるからではない、ということを示しているのです。ユダが真に立ち返るためには、厳しいさばきによって信仰が試される必要があるからです。今、エレミヤがなすべきことは、とりなし祈る事ではなく、主からのことばをそのまま民に聞かせることです。

*2~6節を読みましょう。

 「どこへ去ろうか」とは、さばきを免れるために「どこへ」逃れるべきかという民の声です。そのような質問を受けたなら、どこへ逃れようとも、“定められたとおりになる”のだから、さばきを免れることはできないと告げるよう命じられています。さばきを免れる方法は“逃げる”ことではなく“悔い改める”こと。このただ一つの方法しかないからです。

 そして、これほどのさばきが下される原因を「マナセがエルサレムで行ったこと」が挙げられています。これはⅡ列王記21章に記されているのですが、要約すると…

*父ヒゼキヤが一掃した異教の偶像やその祭壇を設置し、北イスラエルで盛んになっていた異教をも持ち込みました。

*極めつけは、異教の礼拝において、人身をいけにえとしてささげさせたことです。

 この時点で、エルサレム陥落とバビロン捕囚というさばきが下されることが告げられたのですが、そこから約100年経過していたのがエレミヤの時代です。どれほど主が忍耐し、悔い改めることを待っておられたか…。このようなイスラエル・ユダを愛し、憐れんで忍耐してくださるのは主なる神だけです。しかし、イスラエルもユダも、その唯一のお方を自分の方から捨てたのです。だからこそ、もう“とりなし祈る時”ではないのです。

*7節を読みましょう。

「わたしはこの国の町囲みのうちで、熊手で彼らを追い散らし、」

 「熊手」とは、収穫した麦を脱穀する時に使う道具のことです。熊手ですくい上げた麦を空中でまき散らし、もみ殻と実とを分けるのです。これは、試みによって信仰者と不信仰者とを選り分けることを意味します。

 バビロン侵攻によって“失われ”、“滅ぼされる”のは、敵が強かったから、戦力に差があったから…などが原因ではなく、「彼らがその行いを悔い改めなかったからだ」と、各人の罪の故であると告げています。

 8節では、夫や息子が戦死することによって苦境に追い込まれる婦人たちの姿があり、9節では、一般的に祝福された女と称されるはずの「七人の子を産んだ妻」(子だくさん)も、祝福のかけらもないほどに悲しみに打ちひしがれる様子が描かれています。

*10節を読みましょう。

「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので」

 エレミヤは疲れ果てるほどに悲しみました。そして、自分が生まれてきたことすら、悲しむようになったのです。もちろん、これは母親に対して「何で産んだんだ!」と恨み言をぶつけているのではありません。主の民であるはずの同胞が、いとも簡単に主を捨て、堕落し続ける姿。しかも、自分は嫌われ者となり、殺害計画まで立てられていて、民の心は一層頑なになり、悔い改めることが無い。そして、この先起こるエルサレムの惨状を見るに堪えない、という悲しみが、このような不健全な思考に陥らせているのです。

 そんなエレミヤに、主は慰めと励ましをくださいました。エレミヤの苦悩を慰め、励ますことができるのも、主だけです。だからこそ、エレミヤはこの思いを心の内に仕舞い込むのではなく、正直に吐露したのです。

*11節を読みましょう。

「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする」

 まず、救いと幸いを約束してくださいました。いや、これほど強い確信と平安を与えることばはない…言われた瞬間に、感動感涙です。そして、二つ目の約束は、敵がエレミヤを頼って来る、具体的には「とりなし祈ってほしい」と求めて来るというものです。

 ここでの「敵」とはバビロンの事ではなく、エレミヤを嫌って殺そうとしている同胞のことです。つまり、彼らはエレミヤに敵対しているだけでなく、神さまにも敵対している人々だ、ということでもあるのです。みことばを拒絶すること、悔い改めを拒否することは、神に対する敵対の姿勢なのです。

 

*では、15:1~11を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 先回までは、父親と弟息子に注目して解説して来ましたが、今回は、もう一人の登場人物(兄息子)に注目してみましょう。

 弟息子との再会を果たした父親は、「祝宴」を開いてその喜びを皆と分かち合おうとしました。しかし、この喜びを分かち合うことを拒絶する人物がいたのです。それが兄息子でした。

*25~28節を読みましょう。

 しかも、兄息子が祝宴を知ったのは、一日の労働を終えて疲れて帰宅した時でした。…どうやら、畑で働いていた兄息子を、祝宴の開始時刻に間に合うように招いた人は誰もいなかったようです。なぜでしょう?(あとでお話します)

*29~30節を読みましょう。

 なだめる父親に対して、兄息子は怒りをぶつけます。しかし、その愚痴の端々に、父親に対する不満や不信感が現れていて、父親との本当の関係がどのようなものであったのかが読み取れます。

「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません」

 兄息子は、父親と自分の関係を、“親子”ではなく“雇用関係”に捉えていました。父親に対する敬愛はなく、契約やルールで縛る上司のように考えていて、報酬を得るために従わなければならない、という義務感から仕えていたようです。

「私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません」

 兄息子は父親に対して、ケチでえこひいきをする人だ、という印象を持っていたようです。それは、弟息子に対してふところの大きすぎる対応を見せたことで、そう感じたのです。その心情が、次のことばに表れています。

「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさった」

 自分はずっと我慢して頑張って来た。一方、弟はわがままで自分勝手。しかも、何の役にも立っていないし、何一つ頑張っていない。むしろ、損失を生み出しただけの迷惑な存在なのに、なんでそんな奴を歓迎するんだ!と、弟を断罪しているように見えますが、…本音は弟に対する嫉妬心です。自由気ままに生きて、どうしようもなくなってから帰って来た弟を「おまえなんか息子じゃない!」と、父親に厳しく叱責され、絶縁される弟を見たかったのだと思います。頑張って来た自分への報いの一つとして。

 しかし、あわれみ深い父親は、そうはしなかったのです。だから、兄息子の怒りの矛先は弟だけでなく父親にも向けられることになったのです。

 弟息子の帰宅をともに喜んでほしかった父親の気持ちは踏みにじられましたが、父親は兄息子にも、あわれみをもって接します。

*31~32節を読みましょう。

 父親は、兄息子が弟息子に嫉妬していることに気付いたのでしょう。兄息子だけが受けて来た祝福に気付かせようとして、優しく語りかけます。

「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる」

 父親と共に生活し、一緒に働くことを窮屈に感じていたのは、弟息子だけでなく、兄息子も同様の想いがあったのです。しかし、父親は父と共にいることは束縛ではなく祝福なのだと告げます。なぜなら・・・

「私のものは、全部おまえのものだ」

 父親は、自分のものを自由に使う権利を息子に与えている、と言うのです。窮屈に感じていたのは、息子たちの勝手な思い込みだったのです。

 そして最後に、なぜ父親が弟息子の帰宅を歓迎し、祝宴まで開いて喜んでいるのか、その理由を伝えます。

「弟は、死んでいたのが生き返って・・・いなくなっていたのが見つかった」

 自分の欲を満たし、罪を楽しむために、父親と家、家族に何の未練も感じずに出て行った弟息子は、父親にとっては“失われた”息子となってしまいました。

 “失われた”とは、単に“いなくなった”ことを指すのではなく、“本来いるべき場所から迷い出た”、ということで、“捜して取り戻す(連れ戻す)べき存在”であることを意味します。つまり、父親にとっては弟息子を忘れた日は一日たりともなく、心を痛めながら帰って来るのを待っていた、ということです。この場合、父親の家にいる、父親と共にいることが息子たちにとっての“居るべき場所”なのです。

 弟息子は、自分の欲を満たすことだけを考えて放蕩三昧に暮らしていましたが、その生活に満足を得たわけではなく、むしろ空しさだけが募ったことに気付かされたのです。それは何のために生きているか分からない、“死んでいる”のと同様の状態なのです。罪は、一時的に楽しい気分にさせてくれますが、その行きつく先は滅びです。そこから抜け出したいと、罪からの解放(救い)を求めることが“生きる”ことなのです。そのような意味で父親は、弟息子は「死んでいたのが生き返った」と表現したのです。

 このことばは兄息子に対する警告でもあります。父親と共にいるのに、自分の身を滅ぼす罪の生活に惹かれているならば、父親と共にいても“死んでいる”も同然で、「あなた(兄息子)も失われた人だ。悔い改めて、“いるべき場所”に戻らなければならない」と諭しているのです。これが、兄息子が祝宴に呼ばれなかった理由です。

 悔い改めたことで、弟は人生観が変わり、父親との関係も回復しました。このことは、父親からすると、失われていた息子を取り戻した、という感覚なのです。

 15章では、“失われたもの”をテーマに、この父親と息子のたとえ話を含め、三つのたとえ話が記されていました。初めの二つのたとえ話に共通していたのは、次のような表現です。

7、10節「ひとりの罪人が悔い改めるなら・・・喜びが天にある/わきおこる」

 前半の二話で出て来た“失われたもの”は、羊と銀貨で、それぞれに罪などはなく、ただ持ち主のもとに帰って来たこと、つまり、“あるべき場所”に戻されたことが「悔い改め」と表現されています。

 そういう意味では、兄息子は家出をしておらず、ずっと父親と一緒に暮らしていたので“失われて”いないし、“悔い改め”の必要もないのではないのか?…そんな気にもなってしまいそうですが、実は違います。

 最後の父親と息子のたとえ話においては、弟息子が自分の愚かさや罪深さを自覚して謝罪し、父親のもとで一から出直したいと申し出たことで、父親との関係が回復され、“あるべき立場”に戻ったことが「悔い改め」と表現されています。この“あるべき立場”というのは、父親の家という場所のことではなく、戸籍上の親子関係でもありません。

 以前も書きましたが、ここでもまとめておきます。

 「悔い改め」とは、反省やくよくよ後悔すること、自己嫌悪や自己卑下することではありません。もともとは“向きを変える・方向転換する”という意味で、自分に向いていた視点や意識を、主に向け直すことを指します。あるいは、“罪”に向いていた関心を“神”に向き直ること、を意味します。

 自分の都合や自分の好み、自分の計画やなどを重視して、自己中心に人生の歩むを進めるのではなく、神のみこころや神が喜ばれること、神の約束を重視して、神中心に人生の歩みを進めること、そのような願いを持って生きることが「悔い改め」なのです。そして、神中心に生きることは、本来の人間に与えられた生き方なのです。

使徒17:27~28(抜粋)「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」

ローマ11:36「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」

 このたとえ話に出て来る父親が、息子たちに願っていたことは、人生において良い成績を収める優等生になることや、仕事に成功して出世することなどではなく、ただ正直に父親と向き合い、父親と親しい関係を築き、共に生きることでした。それは、天の神さまが私たちに臨んでおられることを表しているのです。それは、昔から聖書に記されていることです。

Ⅰサムエル15:22「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

ミカ6:8「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

 

*お祈りしましょう。

*1~6節を読みましょう。

 ここでは、当時起きた「日照り」による被害に苦しみ嘆く人々と、とりなし祈るエレミヤの姿があります。

「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ」

 「喪に服し」とは、ユダ全体が、“日常”を失われて、人々の気力も失われた状態になったことを示し、「門」は行政や司法の権威を象徴するものなので、それが「打ちしおれ」たとは、社会が機能不全のような状態に陥ったことを示しています。

 「日照り」は、パレスチナ地方では珍しくない災害のひとつですが、ここでの「日照り」は複数形になっているので、短期間に何度も起きたこと、それゆえに被害が甚大であったことがうかがえます。

 3節では、これまで生活に困ったことがない「貴人」(上流階級の人々)でさえ、水不足に困惑させられる様子が描かれています。…といっても、困って走り回っているのは、水汲みを命じられた召使たちですが。

 4節では、農作業の計画が台無しになり、嘆く農夫の様子が描かれています。「秋の大雨」とは、9~10月頃に降る雨のことで、“先の雨”とも呼ばれています。収穫後に降り、次の作物の種蒔き前に土壌の状態を良くするために必要な雨でした。しかし、それが降らず「地面が割れ」てしまうほど干からびた畑に種を蒔くことはできません。種蒔きが出来なければ、収穫の見込みもできないので死活問題でした。

 日照りによる水不足と干ばつに苦しんでいたのは人間だけではありません。野生の動物たちが食べる「若草/青草」も枯れてしまうので、飢え渇き、その危機的状況の中で究極の選択をしています。最も優しい動物と称される「野の雌鹿」でさえ、自分の子を捨てます。自分が生き延びるためです。また、最もたくましいと称される「野ろば」でさえ、弱ったジャッカルのように彷徨うほどだと…。

*7~9節を読みましょう。

 ここでは、エレミヤのとりなしの祈りが記されていますが、エレミヤは“正しい者の側”から他人事のように祈ったのではなく、「私たちの咎が」と、エレミヤも罪を犯した民の一員として(自分事として)祈っています。

「あなたの御名のために事をなしてください」

 これは、この「日照り」という苦しみを通して、「御名があがめられるように」、あるいは「主がどのようなお方であるかを知ることができますように」、というような意味です。

 「御名」とは、神のご性質や本質(どのような方であるのか)を示す語ですが、そのご性質の一つである、“主のあわれみ深さ”にすがって「あわれんでください」と祈っているような感じでしょうか。

「私たちの背信ははなはだしく、私たちは罪を犯しました」

 憐れみを乞い求めていますが、だからといって「雨を降らせてください」とか、困りごとや願い事を一方的に並べ立てる祈りはしていません。罪を認めて告白し、赦しを求める祈りをしたのです。

「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」

 ここでの「望み」とは、“水源”、“水の集まる所”などの意味があります。

 多くの人々が、一杯の水を求めて嘆いていましたが、エレミヤは「私たちが本当に求めるべきは、この“水源”である“救い主”です」と告白しているのです。本当にそうですよね…。

 ヨハネの福音書には、生活のための水を汲みに来たある女性とイエスさまとのやり取りが記されています。その時イエスさまは、人々の生活、またいのちに欠かせない“水”を教材に、それよりももっと大切な水があることを教えられました。

ヨハネ7:13-14「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」

 水は生活に欠かせないものでありながら、人間が作りだすことができないものでもあるので、泉や井戸などの水源は貴重な存在でした。だからこそ、泉や井戸が枯れてしまうような干ばつは、生きることを脅かす大きな問題だったのです。しかし、そのような不安や心配は、問題の本筋から目を逸らせてしまいます。本当の問題は、人のいのちは“水”や“食物”によって保たれているわけではない、ということです。

 上記の場面で、生きていくために“水”を求める女性に、本当に必要なのは“いのちの水”(キリスト)なのだと教えられました。エレミヤも同様のことを言っているのです。

「在留異国人のように…旅人のように、すげなくされるのですか」

 主なる神を「イスラエルの望み」「苦難の時の救い主」と呼んでいますが、現時点でのイスラエルは、神に見捨てられたかのような状態になっていることを嘆き祈っています。

 自分たちの罪が招いた結果と分かっていても、イスラエルは「あなたの御名をもって呼ばれている」民であるのに、私たちを捨ててしまわれるのですか…という嘆きです。これは、神さまに対する恨みつらみをぶつけているのではなく、エレミヤの恐れからくる焦りの表われだと思います。罪は見過ごされるべきではないけれど、ここまで追い詰められても悔い改めようとしない民の姿を見ていると、主の民であるはずのイスラエルが絶たれてしまう…そんなことはないですよね?そんなことはあってはならないはず…という複雑な思いだったのではないかと想像します。

*10節を読みましょう。

 エレミヤの悲痛な「なぜ」という訴えに、主は「彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない」と答えられました。イスラエルは自ら「在留異国人/旅人」のように生きることを選んだ、つまり、主なる神と関係のない異国の人々のように生きることを好み、そのように歩むことを選んだ、ということです。それは異教の神々を慕い求め、異教徒のように生きることです。…ということは、主が民を捨てられたのではなく、民が主を捨てたということです。

*11~12節を読みましょう。

「この民のために幸いを祈ってはならない」

 主は、再びエレミヤに、とりなし祈ることを禁じました。7:16,11:14に続き三度目です。

 前出の二回は「この民のために祈ってはならない」と言われましたが、ここでは「幸いを」とより具体的な注文がつけられています。なぜなら、「幸い」とは主からの恵みであり、主との関係に基づく祝福だからです。主との関係が壊れた状態にある者たちに、幸いが与えられることは有り得ません。まず、求めるべきことは“主との関係の回復”です。それは悔い改めによって成されるのです。たとえエレミヤが熱心に祈ったとしても、本人が悔い改めなければ、彼らに幸いはないのです。

 12節の「断食」「いけにえ」をささげることは、本来であれば悔い改めの表わす行動ですが、「わたしはそれを受け入れない」と言われているのは、民の「断食」「いけにえ」は形式的な宗教儀式的なものであって、悔い改めを伴わないものであることが明らかだからです。だからこそ、エレミヤにとりなし祈ることを禁じられたのです。

*13節を読みましょう。

 するとエレミヤは、民も偽預言者たちにだまされている被害者であることを訴えます。

 偽預言者たちは、主からの御告げだと偽って、「エルサレムに危機は訪れない、平和になる」など、民のニーズに合わせた調子の良いことばかりを語り、民を惑わしていました。人間は、嫌なことから目を背け、自分の信じたいものを信じようとする傾向があります。不安が強ければ特に、慰め励ましてくれる存在を求めがちです。しかし、強く信じたらそれが実現するのではありません。

 都合の良いことを信じたい気持ちから、偽預言者らが支持を集めるのは“民の”間違った選択であることは分かっていても、尚、問いたくなったのです。「偽預言者たちが活動することを許容しておられる(彼らが直ちにさばかれない)のは何故ですか」と。

 エレミヤは、とりなし祈ることを禁じられたので、人情的な観点から民の弁護をする形であわれみを求めたのだと思いますが、主はこれらの訴えに明確な判断を示されました。

*14~16節を読みましょう。

「わたしは彼らを遣わしたことも…命じたことも…語ったこともない」 

 預言者とは、主から示されたことを民に告げ知らせる働きをする人です。故に、主によって任命され、遣わされた者なのですが、主は「あの預言者」(偽預言者)を遣わしていもいないし、彼らに語ったこともないと、きっぱりと関係を否定されました。

「剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる」

 「剣とききんによって」とは、バビロンによるエルサレム包囲(兵糧攻め)による餓死、侵攻による戦死というさばきにあうことを示しています。捕囚民となって、後に帰還する者とはならない、ということです。さらに、偽預言者だけでなく、「彼らの預言を聞いた民」に対しても同じくさばきが待っていることを告げられます。

 偽りを語った者だけが悪いのではなく、それを信じた者たちにも罪があるのです。なぜなら、真の預言者たちによって主の御告げも語られていたからです。ただ、そっち(さばき)は信じたくないから拒絶した、というのは主を拒絶したことなのです。

 とはいえ、悲惨なエルサレムの姿に、主はエレミヤ以上に心を痛めておられたのです。

*17~18節を読みましょう。

「わたしの目は夜も昼も涙を流して、やむことがない」

 主なる神が何に対して涙を流すほど悲しんでおられるかというと、悔い改めない頑なな心のままに生きている姿に対してです。平安を求めながら、平和の主のもとへ来ようとしない民。生きることに執着していながら、死に向かっている民。この先起こる「剣で刺し殺され/飢えて病む」(=戦士・餓死・病死)と「地にさまよって途方にくれる」(=捕囚)という結果を招いたのは民自身の選択によるのです。その結果ではなく“愚かな選択”に、悲しまれているのです。

 私たちは、自分の罪によって招いた結果を悲しみ、後悔することはあっても、罪そのものを悲しむことには鈍感です。しかし、主は罪の結果が生じる以前から、罪そのものを悲しまれます。

山上の説教において、イエスさまもそのことを教えておられます。

マタイ5:4「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

 ここでの「悲しむ」とは、自分の境遇や状況などではなく、“罪”に対する悲しみです。罪を認め、悔い改めることです。故に、「慰められる」=立ち上がる、生きる力を頂くのです。

*19~22節を読みましょう。

 最後の段落は、エレミヤの訴えと祈りです。

「ユダを全く退けたのですか…シオンをきらわれたのですか」

 いゃ…なんとも切ないことばです。

 エレミヤ以前にも多くの預言者たちを通して偶像を捨て、悔い改めることを呼びかけられてきた長い歴史が、主のあわれみと忍耐がどれほどであるかを物語っています。そして、エルサレム陥落が間近に迫る段階になってもなお、悔い改める時を与えてくださっています。そのことを思えば、決して退けられていないし、嫌われてもいない。むしろ愛されていることがわかります。もちろん、エレミヤもそれはわかっているのです。

 しかし、あわれみと忍耐の期間はいつまでも延長されません。なぜなら、主は正義であり、聖い方であるので、罪を曖昧にされることはないからです。なので、エレミヤは民を代表して「ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています」と、罪を告白してとりなし祈っているのです。しかし、そのとりなしは、民に対する温情を求めているような内容ではありません。むしろ“主のため”に、さばきを思い直してください、というものでした。その訴えは三点あります。順に見ていきましょう。

①「御名のために、私たちを退けないでください」

 エルサレムとは、主が御名を置く町と言われた地です。

Ⅰ列王記11:36「わたしの名を置くために選んだ町、エルサレム」

その町が敵の手に陥り、崩壊してしまうことは、主の御名が嘲られることになります、と訴えました。

②「あなたの栄光の御座をはずかしめないでください」

 エルサレム神殿の至聖所には、主が臨在されると考えられていました。それは半分正解で半分不正解なのですが…というのも、主はどこにでもおられる(遍在される)方で、小さな空間に収まっておられる方ではないからです。しかし、神殿を建て、奉献したときには、神殿内が主の栄光に満たされた、というのも事実です。

Ⅱ歴代5:14「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」

 これは、正しい恐れをもって主を拝し、仕え、従うことを教えるために与えてくださった体験なのですが、このことが逆に“主は神殿におられる”という極端な見方を招き、神殿を離れて家路につけば主を忘れた日常を送る、というような不信仰を招いたのです。とはいえ、神殿は主が臨在されるというのが一般的な見方であったので、その神殿が敵によって崩壊させられることは主の栄光が辱められることになる、と訴えています。

③「あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください」

 最後は、神殿ではなく民に視点が変わっています。「私たちに立てられた契約」とは、主とイスラエル民族との間で結ばれた契約のことです。

 この時から100年以上前に北イスラエルはアッシリヤ侵攻によって失われています。首都サマリヤは陥落し、アッシリヤ捕囚や植民地かによる雑婚によって、イスラエルの10部族も失われたも同然の状態でした(実際は失われていませんが)。その上、南ユダまでも失われてしまったら、イスラエル民族は絶たれ、主との契約も自動消滅してしまう…という心配をしています。

 しかし、この契約が南ユダの堕落を増長していたところもあるのです。目の前で北イスラエルが滅びる様を見ていながら、悔い改めようとしなかったのは、ダビデ契約があるのでダビデ王家を継承する王がいる南ユダは滅びることが無い、という過信、契約を免罪符のように捉えて安心していたふしがあったのです。当然、それは間違った信仰です。

 ・・・という意味では、エレミヤのこれら三つの訴えも、「なるほど」というものではなく、退けられるのです。むしろ、“主の民”と自称し、その立場を誇りとする者たちが、異教の神々をも熱烈に慕い求め続けることは、真に主を求める人々、真に救いを求める人々にとって混乱や悪影響を及ぼすだけです。

 逆に、主はご自身の民でさえ容赦なくさばかれる様は、イスラエル内外に主への恐れを抱かせます。その方が、主の真の栄光を現すことになるのです。

 

*では、14章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 今回は、三つ目のたとえ話を見ていきましょう。資産家の父親と、その二人の息子の物語です。

*11~12節を読みましょう。

「私に財産の分け前を下さい」

 この弟息子の要求は、父親にとって大変無礼なことでした。一般的に、財産分与は父親の死後に行われるもので、しかも、故人の遺志が尊重されるものです。しかし、父親はまだ健在で、余命宣告をされているような状態でもないのに、父親側からではなく、息子の方から「ください」と要求しているのです。まるで、父親の価値は“資産だけ”と言っているようなものなのです。

こんなドラ息子の要求に応えなくてもいいよ、と思ってしまいますが、父親は息子の要求に応じて、二人の息子にそれぞれ財産を分与したのです。

*13節を読みましょう。

 大金を手にした弟息子は、何の未練もなく家を出て行きました。「遠い国」とは、“父親のいない環境”、“父親の支配の及ばない環境”を示す場所のことです。実家を離れて自由になることが彼の目的で、それを実行するために、父親の財産に目をつけたのでしょう。

 念願適った弟息子は、後先考えずに遊び暮らしました。この「放蕩して」とは、“蓄える”の反対語で、“無駄に”などを意味する語です。つまり、非常にもったいない無駄遣いをくり返したということです。その結果、「財産を使ってしまった」とありますがこの「使ってしまった」とは、“破壊してしまった”と言う意味です。これは、単にお金が無くなっただけではなく、自分の生活も健康も人間関係も“破壊してしまった”ということです。

 聖書には次のようなことばがありますが、まさにその通りです。

箴言13:11「急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。」

箴言20:21「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない。」

*14~16節を読みましょう。

 「何もかも使い果たしたあと」、弟息子にさらなる試練が襲い掛かります。それは、その国に起きた「大ききん」です。一部の地域ではないので、みんながみんな生活が苦しく、自分のことで精一杯という状態です。身近に頼れる人もおらず、ようやく見つけた就職先は「豚の世話」でした。ユダヤ人からは“けがれた仕事”と見なされていたので、かつての弟息子であれば軽蔑していた職業でしょう。しかし、不満や好みを言っている身分ではありません。この「身を寄せた」とは、“しがみついた”という意味です。それほど生活苦に追い込まれていたのです。

 恥を忍んで豚小屋に住み込みで働くことにしたものの、その生活は想像以上に辛く厳しいもので、働いても空腹を満たすことはできないままでした。

 このように、落ちるところまで落ちた弟息子は、惨めになって初めて自分の愚かさに気付かされるのです。

*17節を読みましょう。

 17節だけを読むと、弟息子が厚顔無恥にも、また父親に無心しようと悪知恵を働かせているようにも見えますが、そうではありません。

 「我に返った」とは、“立ち返る”ことを示しているので、弟息子が自分の愚かさに気付き(認め)、悔い改めたことを意味します。

*18~19節を読みましょう。

 弟息子は、父親のところへ帰る決心をしました。それは、裕福な父親のもとで衣食住を確保するためではなく、自分の過ちを告白して謝罪するためです。そして、以前のように何不自由なく暮らすのではなく、使用人として雇ってもらい、父親に従業員として仕えることを願い求めようとしました。

 “悔い改め”と“後悔”、“反省”は、似ているようですが全く違う性質のものです。

 “後悔”は、くよくよと引きずり、自分に罰を課したりします。

 “反省”は、自分の行動を良かったか考えること、そして次の機会のために改善しようとすることです。だから「もうしません」と約束したりします。一見、“反省”は、良さそうな取り組みに見えますが、果たしてその約束は守れるのでしょうか?改善することはできるのでしょうか?それが難しいのです。

 一方、“悔い改め”は、“向きを変える”、“方向転換”という意味で、今まで“罪”や“自我”に向いていた意識を、“神(キリスト)”に向き直すということです。自分に従うのではなく、キリストに助けていただく、導いていただくことを求める、ということです。ここには自分には罪や欲の力に勝つ力も、自分を改善する力もない。全く無力であることを認めるところから始まる決心です。そして、“悔い改め”は、行動が伴います。ここで弟息子が“思った”だけでなく、実際に父親のもとへ帰り、父親と対面して告白したという行動が、彼が本当に悔い改めたことを示しているのです。

 しかし、弟息子には少し思い違いもありました。それは、「父親に迎え入れてもらえないのではないか」という心配です。それほど、自分の犯した罪の大きさを痛感していたのです。だから、「息子」としてではなく「雇い人のひとり」として受け入れてもらおうとしたのです。つまり、受け入れてもらえない覚悟で、一から出直して認められるよう頑張りますと誓おうとしたのです。

 そんな弟息子に、父親は予想外な対応をしました。

*20~24節を読みましょう。

 20節と22節の弟息子のことばを聞いた父親の反応に、「ところが」という接続詞がついています。これは父親の行動が予想に反するものだったことを示します。予想外の行動を挙げますと…

①帰宅する前に父親が出迎えてくれた。

 「家までは遠かったのに…見つけ」とあります。おそらく父親は、弟息子が家を出た日からずっと彼の帰宅を待ちわび、特に、飢饉が起きてからは毎日遠くまで弟息子の姿を捜しに出かけていたのでしょう。

②あわれみ、受け入れてくれた。

 「かわいそうに思い・・・抱き、口づけした」とあります。父親に対する無礼をしただけでなく、散財して無一文となった姿を見て、呆れて叱責したのではなく、あわれみ、息子として受け入れ、帰宅を歓迎したのです。

③弟息子のことばを遮った。

 20節、21節の弟息子のことばを父親は最後まで聞かずに、次の行動に移っています。これは、話を聞かない父親だったということではなく、あえて息子に最後まで喋らせなかった、ということです。なぜなら、息子が悔い改めて帰って来たことを理解していたからです。それ以上のことは求めていないのです。

 この物語は、罪人の救いと神の愛についてわかり易く教えるたとえ話です。

 「父親」は”神さま”を、「弟息子」は”私たち罪人”のことを表しています。

 すべての生けるものは、神の恵みを受けて生かされています。しかし、私たちは「自分で生きている」気分になり、神さまに感謝することもなく、むしろ「神など必要ない」と、神を無視して生きるようになったのです。その行きつく先は滅びです。そんな私たち罪人を憐れんで、悔い改めることを毎日毎日、忍耐深く待ち続けてくださっているのです。

Ⅰテモテ2:4「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

 そして、悔い改めた弟息子が「雇い人」からスタートさせてほしいと願い出たことに対して、父親がまるで聞いていなかったようにスルーしたのは、そんな必要はないからです。この弟息子の発言は、罪が赦されるためには何か努力が必要ではないか、という誤った考えを表しています。良いことをして罪を帳消しにしてもらうことなどできません。もし、そのような方法であれば、誰も赦しを得ることはできないでしょう。私たちにできること(しなければならないこと)は、ただ神の憐れみにすがり、恵みを受けるだけなのです。

ローマ3:24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 そして、最も予想外だったのは、「息子」として迎えられ、帰宅を盛大に喜ばれたことです。 22節で息子に与えられた「一番良い着物 / 指輪 / くつ」は、「あなたは従業員でも奴隷でもなく、私の家族、私の息子だ」という“証”として与えられたものです。

 私たちは、かつては罪の欲に囚われていた罪の奴隷でした。その支配から、自力で抜け出すことはできない者たちでした。だから、イエスさまが身代わりとなって死んでくださり、その流された血によって贖いを成し遂げ、私たちを罪の力から解放してくださいました。そして、罪から解放された者は“神の子ども”としての新しい立場が与えられます。これが、神との関係の回復であり、救いなのです。

ヨハネ1:12「この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 

 

*お祈りしましょう。

*1~5節を読みましょう。

 イザヤもそうでしたが、エレミヤも“ことば”による宣告だけでなく、象徴的な行動を通して(自らが視覚教材となって)宣告する、という方法をとるよう命じられました。ここでは、「帯」を使った象徴的行為です。

 「亜麻布の帯」とは、おそらく祭司の装束の帯のことで、「水に浸してはならない」とは、洗ってはいけないということです。これらがどんな意味を持つか、その詳細は明かされませんでしたが、エレミヤは「主のことばのとおり」行動しました。左差しここ大事です。理解できてもできなくても「主のことばのとおり」従う姿勢こそ信仰の従順です。準備が整ったエレミヤに、次に取るべき行動が示されました。

「ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ」

 エレミヤの居住地(ベニヤミン領内)からユーフラテス川までは、近い場所でも500㎞以上は離れていましたが、エレミヤは面倒くさがったりもたもたすることなく、「主が…命じられたように」行動しました。

*6~7節を読みましょう。

 どれほどの日数が経過したかはわかりませんが、後日、かつてユーフラテス川に隠した帯を取り出すよう命じられたので、行ってみると…「帯は腐って」ボロボロになっていました。

 この「何の役にも立たなくなっていた」「帯」の状態をエレミヤに確認させた後に、これがどのような意味を示すのかを、主は教えて下さいました。

*8~11節を読みましょう。

「帯」を使った意味

 「亜麻布の帯」は、祭司の装束にも使われると説明しましたが、祭司とは“神”と“人”との仲介役であり、とりなす者です。イスラエルは、本来そのような役目をになって選ばれた民でした。異邦人に主なる神を示し、彼らが主に立ち返るようにとりなし祈るものであるようにと。

 しかし、イスラエルは主を示すどころか、逆に異邦諸国の文化や習わしに憧れ、主ではなく王を欲しがり、主ではなく異教の神々を慕い求めるようになりました。

 また、「帯」は、二つのものを「結びつけ(る)」役目があります。

 「イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた」(v11)と言われているように、主は民とひとつとなることを求められ、契約を結ばれたのに、民は契約の意味を取り違え(間違った特権意識をもち)高ぶりました。

「ユーフラテス川」へ行かせた理由

 「帯」を劣化させるだけなら、エレミヤの居住地付近でも可能だったはずですが、なぜ“帯を隠す”ためだけに500㎞以上も離れた「ユーフラテス川」へ行かせたのでしょう? ・・・ユーフラテス川沿いに栄えた都市、バビロンへ連行されること(バビロン捕囚)を示すためです。

③ 劣化した帯の意味

 川のほとりに放置された天然素材の帯は、当然、「腐って」いました。帯として「何の役にも立たなくなって」いたこの状態は、ユダの民が、主のみことばを聞こうとしない一方で、異教の神々に対しては熱心に求めている姿を示しています。

 イスラエルの民は、異邦人たちに主を証しし、みことばを語り伝える使命、目に見えない神を、自分たちが視覚教材となって主の存在を知らしめる使命を与えられていましたが、彼らはそれをしなかったのです。むしろ、異邦人の神々を慕い求め、みこころに逆行することをしてきたのです。

 主なる神は、民とひとつになること(結び付けられること)を願われたのに、民はそれを願わなかった…それが「何の役にも立たなくなって」いた、ということです。

*12~14節を読みましょう。

 ここから「つぼ」「酒」を用いた象徴行為(行動を通した預言)が描かれています。

 ここでの「つぼ」とは、“イスラエル、ユダの民”のことで、そこに満たされる「酒」とは“さばき”のことです。なので、「すべてのつぼには酒が満たされる」とは、北イスラエルにさばきが下されたように、南ユダにも同じく(偶像礼拝の罪の故に)さばきが下される、ということを示す表現なのです。

 しかし、このことばを聞いたユダの民は的外れな応答をします。

「すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか」

 当時の家庭には、生活に必要な水を入れておく大きな「つぼ」がありました。飲料水として、発酵の進んでいない(アルコール度数が高くない)ぶどう酒(ジュース)を入れておく「つぼ」もありました。どちらも日常必需品なので、この「つぼ」が空にならないようにしておくことは欠かせない日課でした。そんなことから、「つぼに酒を満たしておくことは当たり前でしょう」と答えたのです。さばきのことを告げている象徴的なメッセージであるとは理解できなかったのです。聞いたまま、表面的にしか受け取れない、そんな霊的状態だったということです。このようなところに、彼らが悔い改めることができなかった原因があるのです。

 しかし、主は彼らの鈍さに応じて、より明確に“さばき”が迫っている事を告げられます。特に14節では「容赦せず、惜しまず、あわれまない…滅ぼし尽くしてしまおう」と、厳しいことばが並んでいます。

 では、主なる神は、民が滅んでしまうことを望んでいるのでしょうか?

 もし、滅びることを願っているなら、長い間何度も何度も警告をし続けるはずはありません。罪赦されて生きることを願っておられるからこそ、何度も同じメッセージを語り続けておられるのです。

*15節を読みましょう。

 ユダの民が、主なる神と永遠に引き離され、滅んでしまうことではなく、罪を悔い改めて、主と結び合される(救われる)ことを願っておられるので、みことばを真剣に聞き、悔い改めるようにと求めておられます。

 では、“いつ”みことばを聞き、“いつ”主に答えたらいいのでしょう?

「まだ主がやみを送らないうちに」

 それは、「やみ」(=さばき)が来る前に、です。そして、この時点では「“まだ”さばきは来ていない」とし、ならば“今”みことばを聞き、“今”主に答える時だ、と言っています。

 では、「やみ」(=さばき)が始まってからではダメなのか?

「あなたがたの足が暗い山でつまずかないうちに」という表現が、その難しさを物語っています。「暗い山ではつまずく」ということですから。

 さばきの渦中で悔い改めること、救いを求めることは、全く不可能ではないけれど非常に難しいのです。その時には、今まで通りの日常を送ることすら困難になり、心は不安や恐れに満たされるでしょう。そんなとき、落ち着いて自己吟味することは…難しいでしょう。悔い改めるよりも後悔と失望によって、主よりも自分の内や環境(状況)ばかりを見て、みことばよりも人の言葉ばかりを聞くようになってしまうことは、聖書が記録している人間の傾向です。

「私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き」

 エレミヤは“涙の預言者”とも呼ばれていますが、ここでも不従順でかたくなな民の行く末を思い、悲しんでいる様子が描かれています。しかし、これはエレミヤが情に厚い人だから、ということではなく、神さまのあわれみを自分の心としていたからこその感情なのです。つまり、主なる神も、民の行く末を思うとき、痛み悲しまれておられるのです。

*18節を読みましょう。

 「王」とはエホヤキン王のことで、「王母」はネフシュタ(Ⅱ列王24:8)のことです。当時、エホヤキンは18歳という若さで王位に就かなければならなかったので、母ネフシュタが後見人のような形で実権を握っていたとも言われています。北条政子的なイメージかな…?

 そんな二人に、「あなたがたの頭から…輝かしい冠が落ちた」と告げられます。これは、「王と王母」共に、権威の座から引きずり降ろされることを示しています。告げられている通り、即位3か月の時、バビロンに捕囚として連行され、治世は終わりました。

 19節の「ネゲブ」とは、ユダ最南端の町です。そして「閉ざされる」とは、自由に出入りできなくなること…つまり、敵に支配されることを意味します。バビロンは北から侵攻してきましたが、その脅威は最南端まで及ぶということは…、ユダ全域がバビロンの支配下に置かれることを告げています。

 20節の「あなた」とは、エルサレムを擬人化した表現で、「あなたの美しい羊の群れ」とは、エルサレムの住民のことです。「どこにいるのか」と問われているように、ユダの民はエルサレムの陥落と共に、散らされます。ある者は城内で息絶え(戦死・餓死・病死)、ある者は捕囚民として連行され、ある者は外国へ逃亡します。それはまるで羊飼いを失った羊が混乱して彷徨うような光景です。しかし、これは自業自得でもあるのです。羊であるユダの民が、羊飼いである神を捨て、自分にとって都合の良い羊飼い(主以外の存在)に乗り換えたのですから。

 では、ユダは誰(何)に頼っていたのでしょうか?

「あなたは彼らを最も親しい友として自分に教え込んでいたのに」

 ここで「最も親しい友」と言われている「彼ら」とは誰のことでしょう? それは20節の「北から来る者たち」のことで、バビロンのことです。

 ユダは長年アッシリヤの行動に警戒し、周辺諸国と反アッシリヤ同盟を結んでいました。その流れで、バビロンとも手を組んでいたことがあったのです。その頃は、ユダにとってバビロンは強くて頼もしい友だったのです。そんなバビロンに攻め入られ、支配されるなどと考えもしなかったので、「なぜ、こんなことが、私の身に起こったのか」と驚き、嘆いています。

 しかし、バビロン側からしたら、ユダのためにアッシリヤと戦ったわけではなく、ユダを守る理由もありません。むしろ、自ら懐に転がり込んできたユダを支配下に置くのは当たり前のことです。

 そして、彼らがまだ気づいていないことがあります。それは、羊飼いである主を捨て、羊飼いではない存在を信頼し、慕い求めたことがさばきを招いた、ということを。

*22節を読みましょう。

「それは、あなたの多くの咎のため」

 主を捨て、忘れたこと。偶像を造って慕い求め、外国の戦力に頼ったこと。それらの罪によってさばきを招くことになりました。

「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を変えることができようか」

 「クシュ人」とは、現在のエチオピア辺りの人々のことで、肌の黒い人種を代表して名指しされています。有色人種の肌色は、遺伝子によって決まるものなので、自分の意志で変えることはできません。また、ヒョウのように毛皮に模様のある動物たちも、自分の意志で模様を変えることはできません。このように、世の中には“変える”ことが難しい、あるいは不可能なことがあり、その一つが人間の“罪の性質”です。

 肌色や毛皮の模様のように、“罪の性質”も、生まれた時から備わっていたものです。

 人は、無垢の状態で生まれて来て、ある時、罪を犯した時から“罪人”になるのではなく、“罪の性質”を持った“罪人”として生まれてくるのです。この性質は、肌色や毛皮の模様と同様に、自分の意志で変える(罪人ではなくなる)ことはできません。どんなに真面目に生きようと決心しても、罪を犯さず生きることはできませんし、どんなに善行に励んだとしても、それでプラスマイナスされて罪が帳消しにされたりすることはありません。

 では、私たちは罪のために滅びる運命なのでしょうか?

  ・・・そうではありません。

 自分ではできないからこそ、主がすべてをしてくださいました。なぜなら、主は、私たちが滅びることを望まず、救われることを望んでおられるからです。

エゼキエル33:11「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」

 主がすべてをしてくださったからこそ、主に立ち返らなければ救いを得ることはできないのです。

*では、13章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。