*1~6節を読みましょう。
ここでは、当時起きた「日照り」による被害に苦しみ嘆く人々と、とりなし祈るエレミヤの姿があります。
「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ」
「喪に服し」とは、ユダ全体が、“日常”を失われて、人々の気力も失われた状態になったことを示し、「門」は行政や司法の権威を象徴するものなので、それが「打ちしおれ」たとは、社会が機能不全のような状態に陥ったことを示しています。
「日照り」は、パレスチナ地方では珍しくない災害のひとつですが、ここでの「日照り」は複数形になっているので、短期間に何度も起きたこと、それゆえに被害が甚大であったことがうかがえます。
3節では、これまで生活に困ったことがない「貴人」(上流階級の人々)でさえ、水不足に困惑させられる様子が描かれています。…といっても、困って走り回っているのは、水汲みを命じられた召使たちですが。
4節では、農作業の計画が台無しになり、嘆く農夫の様子が描かれています。「秋の大雨」とは、9~10月頃に降る雨のことで、“先の雨”とも呼ばれています。収穫後に降り、次の作物の種蒔き前に土壌の状態を良くするために必要な雨でした。しかし、それが降らず「地面が割れ」てしまうほど干からびた畑に種を蒔くことはできません。種蒔きが出来なければ、収穫の見込みもできないので死活問題でした。
日照りによる水不足と干ばつに苦しんでいたのは人間だけではありません。野生の動物たちが食べる「若草/青草」も枯れてしまうので、飢え渇き、その危機的状況の中で究極の選択をしています。最も優しい動物と称される「野の雌鹿」でさえ、自分の子を捨てます。自分が生き延びるためです。また、最もたくましいと称される「野ろば」でさえ、弱ったジャッカルのように彷徨うほどだと…。
*7~9節を読みましょう。
ここでは、エレミヤのとりなしの祈りが記されていますが、エレミヤは“正しい者の側”から他人事のように祈ったのではなく、「私たちの咎が」と、エレミヤも罪を犯した民の一員として(自分事として)祈っています。
「あなたの御名のために事をなしてください」
これは、この「日照り」という苦しみを通して、「御名があがめられるように」、あるいは「主がどのようなお方であるかを知ることができますように」、というような意味です。
「御名」とは、神のご性質や本質(どのような方であるのか)を示す語ですが、そのご性質の一つである、“主のあわれみ深さ”にすがって「あわれんでください」と祈っているような感じでしょうか。
「私たちの背信ははなはだしく、私たちは罪を犯しました」
憐れみを乞い求めていますが、だからといって「雨を降らせてください」とか、困りごとや願い事を一方的に並べ立てる祈りはしていません。罪を認めて告白し、赦しを求める祈りをしたのです。
「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」
ここでの「望み」とは、“水源”、“水の集まる所”などの意味があります。
多くの人々が、一杯の水を求めて嘆いていましたが、エレミヤは「私たちが本当に求めるべきは、この“水源”である“救い主”です」と告白しているのです。本当にそうですよね…。
ヨハネの福音書には、生活のための水を汲みに来たある女性とイエスさまとのやり取りが記されています。その時イエスさまは、人々の生活、またいのちに欠かせない“水”を教材に、それよりももっと大切な水があることを教えられました。
ヨハネ7:13-14「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」
水は生活に欠かせないものでありながら、人間が作りだすことができないものでもあるので、泉や井戸などの水源は貴重な存在でした。だからこそ、泉や井戸が枯れてしまうような干ばつは、生きることを脅かす大きな問題だったのです。しかし、そのような不安や心配は、問題の本筋から目を逸らせてしまいます。本当の問題は、人のいのちは“水”や“食物”によって保たれているわけではない、ということです。
上記の場面で、生きていくために“水”を求める女性に、本当に必要なのは“いのちの水”(キリスト)なのだと教えられました。エレミヤも同様のことを言っているのです。
「在留異国人のように…旅人のように、すげなくされるのですか」
主なる神を「イスラエルの望み」、「苦難の時の救い主」と呼んでいますが、現時点でのイスラエルは、神に見捨てられたかのような状態になっていることを嘆き祈っています。
自分たちの罪が招いた結果と分かっていても、イスラエルは「あなたの御名をもって呼ばれている」民であるのに、私たちを捨ててしまわれるのですか…という嘆きです。これは、神さまに対する恨みつらみをぶつけているのではなく、エレミヤの恐れからくる焦りの表われだと思います。罪は見過ごされるべきではないけれど、ここまで追い詰められても悔い改めようとしない民の姿を見ていると、主の民であるはずのイスラエルが絶たれてしまう…そんなことはないですよね?そんなことはあってはならないはず…という複雑な思いだったのではないかと想像します。
*10節を読みましょう。
エレミヤの悲痛な「なぜ」という訴えに、主は「彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない」と答えられました。イスラエルは自ら「在留異国人/旅人」のように生きることを選んだ、つまり、主なる神と関係のない異国の人々のように生きることを好み、そのように歩むことを選んだ、ということです。それは異教の神々を慕い求め、異教徒のように生きることです。…ということは、主が民を捨てられたのではなく、民が主を捨てたということです。
*11~12節を読みましょう。
「この民のために幸いを祈ってはならない」
主は、再びエレミヤに、とりなし祈ることを禁じました。7:16,11:14に続き三度目です。
前出の二回は「この民のために祈ってはならない」と言われましたが、ここでは「幸いを」とより具体的な注文がつけられています。なぜなら、「幸い」とは主からの恵みであり、主との関係に基づく祝福だからです。主との関係が壊れた状態にある者たちに、幸いが与えられることは有り得ません。まず、求めるべきことは“主との関係の回復”です。それは悔い改めによって成されるのです。たとえエレミヤが熱心に祈ったとしても、本人が悔い改めなければ、彼らに幸いはないのです。
12節の「断食」や「いけにえ」をささげることは、本来であれば悔い改めの表わす行動ですが、「わたしはそれを受け入れない」と言われているのは、民の「断食」や「いけにえ」は形式的な宗教儀式的なものであって、悔い改めを伴わないものであることが明らかだからです。だからこそ、エレミヤにとりなし祈ることを禁じられたのです。
*13節を読みましょう。
するとエレミヤは、民も偽預言者たちにだまされている被害者であることを訴えます。
偽預言者たちは、主からの御告げだと偽って、「エルサレムに危機は訪れない、平和になる」など、民のニーズに合わせた調子の良いことばかりを語り、民を惑わしていました。人間は、嫌なことから目を背け、自分の信じたいものを信じようとする傾向があります。不安が強ければ特に、慰め励ましてくれる存在を求めがちです。しかし、強く信じたらそれが実現するのではありません。
都合の良いことを信じたい気持ちから、偽預言者らが支持を集めるのは“民の”間違った選択であることは分かっていても、尚、問いたくなったのです。「偽預言者たちが活動することを許容しておられる(彼らが直ちにさばかれない)のは何故ですか」と。
エレミヤは、とりなし祈ることを禁じられたので、人情的な観点から民の弁護をする形であわれみを求めたのだと思いますが、主はこれらの訴えに明確な判断を示されました。
*14~16節を読みましょう。
「わたしは彼らを遣わしたことも…命じたことも…語ったこともない」
預言者とは、主から示されたことを民に告げ知らせる働きをする人です。故に、主によって任命され、遣わされた者なのですが、主は「あの預言者」(偽預言者)を遣わしていもいないし、彼らに語ったこともないと、きっぱりと関係を否定されました。
「剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる」
「剣とききんによって」とは、バビロンによるエルサレム包囲(兵糧攻め)による餓死、侵攻による戦死というさばきにあうことを示しています。捕囚民となって、後に帰還する者とはならない、ということです。さらに、偽預言者だけでなく、「彼らの預言を聞いた民」に対しても同じくさばきが待っていることを告げられます。
偽りを語った者だけが悪いのではなく、それを信じた者たちにも罪があるのです。なぜなら、真の預言者たちによって主の御告げも語られていたからです。ただ、そっち(さばき)は信じたくないから拒絶した、というのは主を拒絶したことなのです。
とはいえ、悲惨なエルサレムの姿に、主はエレミヤ以上に心を痛めておられたのです。
*17~18節を読みましょう。
「わたしの目は夜も昼も涙を流して、やむことがない」
主なる神が何に対して涙を流すほど悲しんでおられるかというと、悔い改めない頑なな心のままに生きている姿に対してです。平安を求めながら、平和の主のもとへ来ようとしない民。生きることに執着していながら、死に向かっている民。この先起こる「剣で刺し殺され/飢えて病む」(=戦士・餓死・病死)と「地にさまよって途方にくれる」(=捕囚)という結果を招いたのは民自身の選択によるのです。その結果ではなく“愚かな選択”に、悲しまれているのです。
私たちは、自分の罪によって招いた結果を悲しみ、後悔することはあっても、罪そのものを悲しむことには鈍感です。しかし、主は罪の結果が生じる以前から、罪そのものを悲しまれます。
山上の説教において、イエスさまもそのことを教えておられます。
マタイ5:4「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
ここでの「悲しむ」とは、自分の境遇や状況などではなく、“罪”に対する悲しみです。罪を認め、悔い改めることです。故に、「慰められる」=立ち上がる、生きる力を頂くのです。
*19~22節を読みましょう。
最後の段落は、エレミヤの訴えと祈りです。
「ユダを全く退けたのですか…シオンをきらわれたのですか」
いゃ…なんとも切ないことばです。
エレミヤ以前にも多くの預言者たちを通して偶像を捨て、悔い改めることを呼びかけられてきた長い歴史が、主のあわれみと忍耐がどれほどであるかを物語っています。そして、エルサレム陥落が間近に迫る段階になってもなお、悔い改める時を与えてくださっています。そのことを思えば、決して退けられていないし、嫌われてもいない。むしろ愛されていることがわかります。もちろん、エレミヤもそれはわかっているのです。
しかし、あわれみと忍耐の期間はいつまでも延長されません。なぜなら、主は正義であり、聖い方であるので、罪を曖昧にされることはないからです。なので、エレミヤは民を代表して「ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています」と、罪を告白してとりなし祈っているのです。しかし、そのとりなしは、民に対する温情を求めているような内容ではありません。むしろ“主のため”に、さばきを思い直してください、というものでした。その訴えは三点あります。順に見ていきましょう。
①「御名のために、私たちを退けないでください」
エルサレムとは、主が御名を置く町と言われた地です。
Ⅰ列王記11:36「わたしの名を置くために選んだ町、エルサレム」
その町が敵の手に陥り、崩壊してしまうことは、主の御名が嘲られることになります、と訴えました。
②「あなたの栄光の御座をはずかしめないでください」
エルサレム神殿の至聖所には、主が臨在されると考えられていました。それは半分正解で半分不正解なのですが…というのも、主はどこにでもおられる(遍在される)方で、小さな空間に収まっておられる方ではないからです。しかし、神殿を建て、奉献したときには、神殿内が主の栄光に満たされた、というのも事実です。
Ⅱ歴代5:14「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」
これは、正しい恐れをもって主を拝し、仕え、従うことを教えるために与えてくださった体験なのですが、このことが逆に“主は神殿におられる”という極端な見方を招き、神殿を離れて家路につけば主を忘れた日常を送る、というような不信仰を招いたのです。とはいえ、神殿は主が臨在されるというのが一般的な見方であったので、その神殿が敵によって崩壊させられることは主の栄光が辱められることになる、と訴えています。
③「あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください」
最後は、神殿ではなく民に視点が変わっています。「私たちに立てられた契約」とは、主とイスラエル民族との間で結ばれた契約のことです。
この時から100年以上前に北イスラエルはアッシリヤ侵攻によって失われています。首都サマリヤは陥落し、アッシリヤ捕囚や植民地かによる雑婚によって、イスラエルの10部族も失われたも同然の状態でした(実際は失われていませんが)。その上、南ユダまでも失われてしまったら、イスラエル民族は絶たれ、主との契約も自動消滅してしまう…という心配をしています。
しかし、この契約が南ユダの堕落を増長していたところもあるのです。目の前で北イスラエルが滅びる様を見ていながら、悔い改めようとしなかったのは、ダビデ契約があるのでダビデ王家を継承する王がいる南ユダは滅びることが無い、という過信、契約を免罪符のように捉えて安心していたふしがあったのです。当然、それは間違った信仰です。
・・・という意味では、エレミヤのこれら三つの訴えも、「なるほど」というものではなく、退けられるのです。むしろ、“主の民”と自称し、その立場を誇りとする者たちが、異教の神々をも熱烈に慕い求め続けることは、真に主を求める人々、真に救いを求める人々にとって混乱や悪影響を及ぼすだけです。
逆に、主はご自身の民でさえ容赦なくさばかれる様は、イスラエル内外に主への恐れを抱かせます。その方が、主の真の栄光を現すことになるのです。
*では、14章を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。