唐突ですが、
皆さんは来世のようなものを信じられますか?
来世があれば私などチキンにはすごく嬉しいけど
私は見たり経験したわけでは無いので、
有るというのも無いというのも
今のところ解らないとしか言えません。
http://ameblo.jp/inugamiakira/entry-10765457522.html
こちらのブログで
祈るべき対象が無く、信仰を否定する人は、
祈る事は無いのだろうか?
また死んだら無になると言う事は、
見送った愛する人に対して言葉を掛けたり祈ったりする事は
無意味だから全く行なわないのだろうか?
このような疑問を投げかけています。
来世に対しては
本来仏教では、絶対的な力、神というものが
あまり出てきません。
では信仰は無いのか?と言うと
そうではなく私などでも辻の地蔵尊に頭も下げるし
偉大なる自然にも絶対的な力を感じます。
神社仏閣に祈りを捧げる事ももちろんあります。
神(生きていたものたちの想いをくみ取りたいと願う気持ち
人間の力では作りようも無い自然の力)
はあちこちに存在しますから
たとえば行き倒れた鳥のなきがらに
その辺の摘み草を手向けていた後を見れば
その小さい優しい心に感動もしますし
逝く物全ての生を敬う心は
すばらしい思っています。
あの世の有る無しにかぎらず
今を生きる事を大切に思う気持ち
命を尊敬する心は変わらないと思います。
神社仏閣、キリストの聖地でもイスラムの聖地
宗教は違っても
そこに脈々と受け継がれた死んだ人に対する
敬虔な想い安らかにと願う優しい想いはどれも一緒です。
だから何処でも自然に頭が下がります。
来世の救済と言う不確かな一つのものの考えで
人間が何のために苦しんで生きるのかの答え
死を受け入れる心構え
としちゃう事はなんだかおかしいです。
人は一人では生きていけません。
そして人の心は周りとの生活で人や自然と触れ合う事で
初めて喜びも憎しみも悲しみも生まれます。
両親から生まれた偶然、
色々育った環境ゆえに出会う偶然
新しいコミュニケーションの手段が生まれれば
それから遠い知らない人と出会えるかもしれない
全て偶然です。
この偶然を必然、と言いたくなっちゃう人も
居るようですが私は運命を決まったものと考える
その考えは、たとえばどんなに努力しても報われない
と言う人たちが居る現実が世界中に沢山ある中で
奢っている考えだと感じてしまいます。
NHK,BSで”縁を結ぶ国・にっぽん”
と言う番組を見ました。
その中で身寄りの無い老人ホームに居る老人女性が
”大切なのはお金よ”
と言いました。
縁を結ぶ事が下手でそのように生きちゃったから
友人や頼るものが出来ずお金だけが頼りの寂しい
晩年に成ってしまったと語っていました。
ぎくっっとしましたね。
好むとこのまざるにかかわらず、性格上そういう人生を
歩んじゃう悲しい性の人が必ず居ます。
私もそれにすごく近い。
でも、それじゃあいけないんですよね。
自分の殻を自分で閉じてしまったら・・・・・
ダメならダメななりになんとか社会に係わって行く
その心を持って人間らしく有りたいと感じました。
般若心経には色即是空と言う言葉があります。
ニーチェは宗教を捨てて運命を全て受け入れる
超人になれと言いますが
なかなかそこまで達観する事は凡人には
難しいです。
人生は決して必然のように決まったものではなく
流動的なものです。
弱い人間はたまたま出逢った偶然のご縁を大切にして
弱いもの同士、助け合いながら生きていくんだと思います。
その中で一人一人の心の中に来世が見えなくても
心のより所は有ると信じます。