日本本土での地上戦である沖縄戦は
1945年3月から6月23日で終了(アメリカが沖縄を掌握)
と書かれています。
島田氏は1945年(昭和20年)1月10日、
沖縄県知事の打診を受け、即受諾しました。
「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、
言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、
誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」
島田知事はつぎのように着任挨拶している。
「今は非常に緊迫した状態で、
ちょうど壁に向かって馬を走らせているようなものだ。
壁のところでうまくかわせられるか、
そのままぶち当たって人馬ともに倒れるか。
諸君と共にその辺をよく考えて、力を尽くしたい」
島田知事が最初に着手した事は、
沖縄県民の本土への疎開と
台湾から食料の確保を得た事です。
3月空襲が始まると地下壕の中で執務を行なうように
なります。
外では激しいゲリラ戦が行なわれていて
水の確保も命がけでした。
「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」
そう言って女子職員が汲んできた水を辞退し
皆と同じ米のとぎ汁で顔をぬぐっていました。
島田知事は軍が沖縄を道具と見ていた事を心得ていて、
女子職員にささやいている。
「君たち女、子どもには(米軍は)どうもしないから、
最後は手を上げて出るんだぞ。
決して(友)軍と行動を共にするんじゃないぞ」
ついに首里を放棄し戦線を後退せざるを得なくなったとき、
島田はこれ以上の兵員、住民の被害を食いとめるために首里放棄に反対する。
これ以上の戦いは無意味であると判断したのだ。
しかし、軍部にその意見は入れられずに、沖縄戦は最悪の事態を招く。
島田知事の部下である荒井警察部長は内務大臣宛に以下の電文を打っている。
「六十万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク
此ノ決戦ニ皇国破レテノ安泰以テ望ムベクモナシト
信ジ此ノ部民ト相共ニ敢闘ス」
この後、海軍の大田少将の打電した
「沖縄県民斯ク戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
は有名だ。
特別の御高配が米軍基地の存続である現実が
大変悲しいところでありますね。。。。
同年6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、
「どうか命を永らえて欲しい。」
と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。
知事は6月26日壕を出たきり消息を絶ちます。
目撃者の証言によると
海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて
“知事さんがはいっておられますよ
”という。奥行き六メートルくらいの横穴で、
頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。
“知事さんだそうですね”とたずねると
“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。
“負傷しているんですか”ときくと、
“足をやられました”といわれた。
知事さんが“兵隊さん、
そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。
何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。
二つもらって“元気にいて下さい”
といって自分のごうに戻ったのを忘れません。
その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていた
メリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、
島田知事に持って行った。
ところが、先日と同じ人が
“知事さんはなくなりましたよ”という。
ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。
右手から落ちたような感じで
“ああ自決したんだなあ”と思った。
合掌して知事さんのごうを出ました。
どうして島田知事は投降しなかったのか?
新聞記者が尋ねている。
「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。
文官なんですから、最後は手を上げて、
出られても良いのではありませんか」
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね?
沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう?」
「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、
後にも先にもいないだろうなあ。
これは、きっと、末代までの語り草になると思うよ
私が島田氏を美しいと感じるのは
ご自身が沖縄県民でもない(氏は中央官庁のエリートです)
この時代に有って、一番大切なものが
軍隊でも日本でもなく
個々の命
を最上と思うその心なのです。
沖縄の島守―内務官僚かく戦えり
島田氏の事について書かれている書籍もあるようです。
1945年3月から6月23日で終了(アメリカが沖縄を掌握)
と書かれています。
島田氏は1945年(昭和20年)1月10日、
沖縄県知事の打診を受け、即受諾しました。
「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、
言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、
誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」
島田知事はつぎのように着任挨拶している。
「今は非常に緊迫した状態で、
ちょうど壁に向かって馬を走らせているようなものだ。
壁のところでうまくかわせられるか、
そのままぶち当たって人馬ともに倒れるか。
諸君と共にその辺をよく考えて、力を尽くしたい」
島田知事が最初に着手した事は、
沖縄県民の本土への疎開と
台湾から食料の確保を得た事です。
3月空襲が始まると地下壕の中で執務を行なうように
なります。
外では激しいゲリラ戦が行なわれていて
水の確保も命がけでした。
「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」
そう言って女子職員が汲んできた水を辞退し
皆と同じ米のとぎ汁で顔をぬぐっていました。
島田知事は軍が沖縄を道具と見ていた事を心得ていて、
女子職員にささやいている。
「君たち女、子どもには(米軍は)どうもしないから、
最後は手を上げて出るんだぞ。
決して(友)軍と行動を共にするんじゃないぞ」
ついに首里を放棄し戦線を後退せざるを得なくなったとき、
島田はこれ以上の兵員、住民の被害を食いとめるために首里放棄に反対する。
これ以上の戦いは無意味であると判断したのだ。
しかし、軍部にその意見は入れられずに、沖縄戦は最悪の事態を招く。
島田知事の部下である荒井警察部長は内務大臣宛に以下の電文を打っている。
「六十万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク
此ノ決戦ニ皇国破レテノ安泰以テ望ムベクモナシト
信ジ此ノ部民ト相共ニ敢闘ス」
この後、海軍の大田少将の打電した
「沖縄県民斯ク戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
は有名だ。
特別の御高配が米軍基地の存続である現実が
大変悲しいところでありますね。。。。
同年6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、
「どうか命を永らえて欲しい。」
と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。
知事は6月26日壕を出たきり消息を絶ちます。
目撃者の証言によると
海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて
“知事さんがはいっておられますよ
”という。奥行き六メートルくらいの横穴で、
頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。
“知事さんだそうですね”とたずねると
“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。
“負傷しているんですか”ときくと、
“足をやられました”といわれた。
知事さんが“兵隊さん、
そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。
何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。
二つもらって“元気にいて下さい”
といって自分のごうに戻ったのを忘れません。
その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていた
メリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、
島田知事に持って行った。
ところが、先日と同じ人が
“知事さんはなくなりましたよ”という。
ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。
右手から落ちたような感じで
“ああ自決したんだなあ”と思った。
合掌して知事さんのごうを出ました。
どうして島田知事は投降しなかったのか?
新聞記者が尋ねている。
「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。
文官なんですから、最後は手を上げて、
出られても良いのではありませんか」
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね?
沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう?」
「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、
後にも先にもいないだろうなあ。
これは、きっと、末代までの語り草になると思うよ
私が島田氏を美しいと感じるのは
ご自身が沖縄県民でもない(氏は中央官庁のエリートです)
この時代に有って、一番大切なものが
軍隊でも日本でもなく
個々の命
を最上と思うその心なのです。
沖縄の島守―内務官僚かく戦えり
島田氏の事について書かれている書籍もあるようです。