こんにちは、みるこです。ウインク

近所の幼稚園や小学校から運動会の音楽が流れているのを聞くと、ああ秋だなあーとしみじみしちゃいますね。もみじ子供たちの笑顔のために、皆が工夫して安心・安全に行事を企画運営されているご様子を感じとれ、一層じーんとします。ニコニコ

 

 

 

さて、運動会といえば。私はめっぽうな運動音痴で、毎年運動会が憂鬱でした。皆さんはどうでしたか?

 

 

 

足が遅いから徒競走もヤダ。振付覚えられないし、なんか気恥ずかしいから集団演技もヤダ。あーーーもっというと、一発目のラジオ体操からヤダヤダヤダヤダヤダでした。朝からとっても憂鬱。雨じゃないか何度も天気予報を確認してましたヨ。

 

 

 

でも、不思議と、運動会の日を(ズル的に)休みたいとは思ったことはなくて。

 

 

 

それはきっと、クラスの友達と一緒に味方のチームを応援したり、給食ではないお弁当を食べる特別感だったり、閉会式の結果発表のドキドキ感、運動会の楽しみって何も競技だけではないんですよね。一日の中に結構な楽しみが、実は、ちりばめられているなーって今になって気づきました。

 

 

 

競技があまりにも嫌すぎて。それ以外の楽しみに、意識が向いてなかったんでしょうね。運動会と縁遠くなった今では、なんかモッタイナク感じちゃいました。

 

 

 

学校の先生たちが目指せという、一等賞とか勝ち組とか美しい演技とか。そんなのを別に目標(というかノルマって感じ?)にしなくてもよかったんだなー。誰に褒められなくても、別に認められなくても。結果が出ても出なくても。ただ自分の楽しみを味わってたらよかったんですね。

 

 

 

これって。きっと運動会の話だけじゃなくて。

 

紅葉した落ち葉とどんぐりのイラスト

 

 

誰かの思惑とか、期待とか、あおりとか?そんなのを先にデーンって掲げられたらさ、ついつい、「そんなもんかな?」って私たち、ソレに沿っちゃいがちで。そんなのを続けてたら、自分の気持ちとは異なるから、だんだん窮屈になってきちゃう。

 

 

 

そんな時。ちょっとズラしてみるんです、視点をネ飛び出すハート

 

 

 

まず、自分の意図を確保。「そもそも私ってどうしたいんだけっ?」

 

 

 

たとえ、ソレがはっきりと言葉になってなくても、心の窮屈さを感じるんだったら。いったん、誰かの思惑とか期待を、自分の意識の視界から外してみる。

 

 

 

そしたら、だんだん正気になって。ホントはそんなの別に関係ないんだったわーって自分の気持ちを大事にできるんだよね、なんか自然に。

 

 

 

もちろん、意図が異なるからと言って、「その手にはのりませんムキー」その場でコトを荒立てる必要はないわけで。ただ、だまって自分の心を見つめてみるだけでオッケー。

 

 

 

そしたら、ほんの少しずつ。自分の気持ちとか意図のカタチが見えてくる。

 

 

 

あんまりにもササヤカだから、うまいことキャッチできず、よくわかんないこともあったりするけど。←私もよく逃がしちゃう煽り

 

 

 

時に逃したり、時に違うモノ釣り上げちゃったり(あれ?失敗ばかりか?ワタシ(笑))しながらも、だんだん自分の気持ちとか意図をキャッチできるようになるんです。

 

 

 

うまくできると、あっここにワタシは満足を感じてたのかーと、ニンマリしちゃう。

誰かのワクから外れる時はドキドキ&アセアセするけど、この開放感やら満足感、充実感がホント最高でねー。またこの気持ちを自分に味わわせてあげたいなーってクセになる。

 

 

 

こうして、チビチビと。ワタシ好みの幸せがどんどん増えていって、日々がホンワリ、ホッコリ優しくなりますよーってハナシでした。

 

 

 

お仲間のミナサマの心が少しでもラクになりますようにスター

最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。