少し前に、ばあちゃんが亡くなった。
私が産まれた時から毎日一緒にいたばあちゃん。
小学校から帰ると、真っ先に向かう先はばあちゃんだった。
お茶を飲みながら学校の話をして
その日の夜に食べる、家族全員分のはっさくを一緒にむいたり
小さくなった洋服で手提げ袋を縫ったりした。
振り返ると、季節ごと、日ごと、
ばあちゃんと生きることは楽しかった。
昭和っぽい生活の仕方が染みついていて
大人になった今、やすやすと生活をこなせるのは
ばあちゃんのおかげだ。
正月が終わると、余った餅を砕いて干して、おかきにした。
青のり味が一番好きだった。
春にはふきのとうやタラの芽を採って煮物や天ぷらを作り
その時期を超えると梅干しを仕込んで夏の準備をした。
当時の夏は、30℃にとどくと暑くてびっくりした。
そういえば、水撒きで十分効果があったよな。
秋に庭の柿をもいで食べたら、強烈に渋くて笑っちゃったことがあった。
十五夜にはあんこやずんだをこさえてお団子をまるめた。
寒い冬に学校から帰ると、お砂糖たっぷりの甘酒ができていた。
ばあちゃんの味が嬉しくて、これだけはわざと手伝わないで
こたつにもぐって、ばあちゃんが持ってきてくれるのを待った。
書道の楽しさも、ばあちゃんが教えてくれた。
毎年の初めには、朝から書初めを100枚は書いた。
しつこい私に、ばあちゃんはずっと付き合ってくれた。
用紙でリビングがいっぱいになっても
夜遅くまでかかっても
「納得できるまでやれ」と頑張らせてくれた。
最後の名前を書き終えたら拍手をして私をほめて
どれが一番良く書けたかを真剣に選んでくれた。
その時ばあちゃんがどれを選ぶか
私はいつもわかっていた。
絶対に私が一番気に入っている文字を
ばあちゃんも選んでくれるから。
見本に近いやつじゃない。
きれいにまとまったやつじゃない。
「お前らしいのはこれだねえ」
元気いっぱいで枠からはみ出しそうな文字を
それが私らしいと選んでくれた。
昨年の夏、入院中のばあちゃんを車いすに乗せて
自宅へ一時外出したときのこと。
ばあちゃんが私に言った。
「二階の和室から、桐の箱を持ってきとくれ。二番目の引き出し。」
二階にあがる階段の途中、
ばあちゃんはもう家の階段ものぼれないんだと思ったら
涙が溢れてしまって、ばあちゃんのところへ戻るのに少し時間がかかった。
頼まれた桐の箱を渡すと、ばあちゃんはそれを私にそのまま返してきた。
「これはお前にさ」
「えっ?なにさ?」
びっくりして、あまりいい反応ができなかったように思う。
ばあちゃんが何を考えているかがわかって
なんだか受け取ることが怖かった。
中には、塗の硯箱が入っていた。
ばあちゃんの宝もんなんだそうだ。
もったいなくて使ったことがないらしく
鏡みたいに私たちをはっきり映す硯箱だった。
「なんでよ。やめてよ、まだいいよ。」
私は涙を止められなかった。
「渡しとくだけさ。」
「いいん?」
「お前しかいないだろうさ。あんだけ一緒にお習字やったら」
泣き顔を見せたくなくて
ありがとうが、なんでか言葉にできなかった。
「大事にする」
その日を最後に、ばあちゃんは一時帰宅もできなくなった。
ひと月後には、車いすで施設の周りを散歩した。
もうひと月後には、車いすで玄関まで出るのがやっとだった。
11月に会いに行った時はベッドに寝たきり
年末にはもう、意思疎通がとれなくなった。
いよいよだなと、腹を決めた。
ここまで何度も群馬に通って
ばあちゃんの希望をできるだけ叶えて
たくさん話して、笑って
感謝を伝えて、手を握って、ハグもした。
今後自分が人生をかけてやりたいことも伝えた。
思い残すことはないほど
心の準備の時間をもらった。
自分の職業柄
これからばあちゃんはどういう経過をたどって
あとどれくらい生きられるのかって
やはりわかってしまうから、もちろん覚悟はできていた。
6月に、ばあちゃんは眠った。
97歳、大往生。
ばあちゃんカッコよかったよ、と手紙を書いてこっそり棺桶に入れた。
大人だから、涙はあまり出なかった。
ばあちゃんの葬儀には、驚くほど多くの人が来てくれた。
親戚が多いことと
ばあちゃんが人づきあいを大切にしてきたことが理由だろう。
学校の教員をしていたから生徒さんが来てくれたり
民生委員として地域のために尽力していたから
色んな人がばあちゃんへ感謝を伝えてくれた。
そんな葬儀の途中で、急に涙が止まらなくなる瞬間が来た。
親戚のおばちゃんや、近所の仲良しが次々に私のところに来て
声をかけてくれた時だ。
「あっこ(私のこと)、大丈夫?おばあちゃん子だったからあっこのこと心配してたよ」
「あっこが車いすで桜を観に連れて行ってくれたって、おばあちゃんが嬉しそうにしてたよ。」
「おばあちゃんと電話したら、あっこが病室に来たんに30分で東京に帰ったって心配してたよ。」
ばあちゃんは、私がばあちゃんのことを想っている間も
仕事や生活に追われてばあちゃんのことを忘れている間も
私をはじめ、孫やひ孫たちのことを
考えていたんだろう。
そのエピソードを聞いて、初めておいおい泣いた。
祖母が亡くなっての悲しい涙ではない。
祖母が見守ってくれたから私が今ここに生きているし
祖母の周りの人たちも私を見守ってくれているのだという
感謝を含んだ温かい涙が止まらなくなってしまった。
「私を心配してくれてたん。優しいね、嬉しいよ、ありがとね。体に気を付けてよ。」
感謝を口に出すたびに、ばあちゃんがつないでくれたこのあたたかい人たちのことも心配になった。
ばあちゃんの友達は
なんでか私の友達でもあって
私の友達も
なんでかばあちゃんの友達だったりする。
葬儀で挨拶をした私の兄が言っていた。
「ばあちゃんって、人と人をつなげるHUBみたいな人だった。」
私が最後にばあちゃんに話した
今後の自分の夢は
「学校を作りたい。」だった。
小さいフリースクールでもいい
親子で息抜きに来る場所でもいい
「校長先生」じゃなくて
「ばあちゃん先生」になりたい。
医師という仕事は大好きで大切で自分の生きがいだけれども
がん治療に関わる今だからこそ感じることがあって
心の守り方とか
病気にならない体づくりの方法を
子どものうちから知っておくことが大切だと思う。
誰が発信したかもわからない偏った情報を鵜吞みにして
体を壊して病院に来る人が多すぎるし
良かれと思って親がとっている行動が
子どもに害を与えることが結構ある。
無知が一番
有害だったりするんだ。
って話したら
ばあちゃんはよくわかってくれた。
私がいま自分のできる医療を全力でやっていることも
正しい知識と安心を人にあげられるように
毎日たくさん勉強をしていることも
よく、わかってくれた。
いま、親だけではなく
子どもたちにも授業をしていることを伝えると
私の頬を両手で触って
「ばあちゃんによく似てる。」
って笑った。
お前にならできる。
お前にしかできないだろうに。
絶対やりーよ。
ばあちゃんの田舎っぽい言葉遣いは
乱暴ではなく、あたたかい。
私がどんな常識を外れたことを言っても
信念を肯定してくれる。
ばあちゃん先生、生き方を教えてくれてありがとう。
感謝すること
考えること
生活を楽しむこと
子どもを見守ること
ばあちゃん先生でいること
自分がやりたいことが決まった。
今度は私が、ばあちゃんみたいなHUBになる。
素敵な言葉とか
優しい気持ちを巡らすね。
もらった硯箱はやっぱりもったいなくて使えないけど
私もいつか夢がかなってばあちゃん先生になれたら
近所の子どもたちとお習字でもやりたいな。
ばあちゃんはいつも
お前は人のために頑張れって応援してくれたから
私、やることが尽きなくていい。
私が帰りたい場所はばあちゃんだけど
私がいまからそういう存在になるんだ。
ばあちゃんが教えてくれたことは
どれだけ勉強したって手に入らない。
自分の子どもや孫だけじゃなくて
地域にとって
社会にとっての
ばあちゃん先生になりたいと思っているよ。
楽しみで仕方がないよ
ばあちゃん。