ジャニーズ TOKIOの山口達也メンバーが女子高生にキスなどわいせつな行為をし逮捕されたニュースと共に、自称インターネットタレント、インターネットエンターテイナー、YouTuberの大原誠治が女性への暴行容疑で逮捕された。




ツイキャスを利用し生放送中に泥酔し、暴行を加えたとのことだが、彼は過去に何度も迷惑行為で逮捕されてきた。

逮捕歴は以下の通り


【しんやっちょ逮捕歴】
[2015年]

◆初犯…
無免許運転(1/25)をして配信中に逮捕(3/8)

◆二犯…
交番内で踊り(4/23)建造物侵入で逮捕(4/25)

[2017年]

◆三犯…
カラオケおしっこ事件(2015.3/10)の2年半後(2017.8/31)に偽計業務妨害で罰金刑(30万)

[2018年]

◆四犯…
飲食店にて女性に暴行で現行犯逮捕(5/4)


YouTuberと言えばHIKAKINやはじめしゃちょーなどを連想すると思うが、大原誠治の場合は彼らとは異なり、生放送を中心に活動している。


殺人事件や強姦事件を起こした訳ではないが、犯罪は犯罪であり、さらにインターネット上に顔を出してるが故に、彼の悪行は消えることはない。


サイコパスとは違い、あくまでナルシストの分類に入るタイプ。


自己愛の強さ

顕示欲の強さが不幸を運んでくることになるだろう。


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サイコパス(自己愛性人格障害)は、よく殺人ドラマ(特に海外ドラマ)などで猟奇的な殺人を犯すとしてネタにされる。

だが、現実では殺人を犯す人間のほとんどが、サイコパスではなく、精神的な理由によるものが多いのが事実である。

池田小学校を襲撃した宅間守により、殺人=サイコパスと言う概念が植え付けられているのである。

「人を殺したい」とする衝動は、誰にでも起こりうる事だと言うことを理解すべきである。

正義感の強い人ほど、「悪は排除すべき」と言う考えに陥り、例えばニュースで流れる事件でも「迷惑をかける人間なんか殺してしまえばいい」と言う価値観を持つ。

目には目を。歯には歯を。と言う考え方だが、では宅間守の死刑が即座に執行された事によって、殺人事件は無くなったのかと言うと、そうではない。

そして、この人が悪だと判断し殺人に至る人も減らない。

「悪」はどの時代にでも存在するし、その「悪」を排除しようとすることにより、排除した人間が「悪」になる。

例えばここ最近、TwitterやYouTubeで有名になった「性の悦びおじさん」と称した40代の男性がいた。

彼は、電車内で卑猥な言葉を声高々に発しており、その姿を盗撮した姿がネット上にアップロードされた事により、一躍人気者となった。

そんな彼は、電車内での卑猥な発言と、それを盗撮する人、制止しようとする人により、トラブルになり亡くなってしまった。

このニュースが流れた際に、普段は「電車内でのマナーは守りましょう」と教え込まれていた人たちも含め、彼を擁護した。

電車内で騒いでいる迷惑な人を「邪魔だ」「排除したい」と言う考えが世の中にいないかのような流れであった。

そして、非常に興味深いことに、そのトラブルになった人を特定しようとする人まで現れたのだが、日本国は法治国家であり、勝手に人を裁くことが許されていないものを、越えることこそが「悪」とされてきた日本ではないのかと不思議で仕方なかった。

こういった事例は、度々目撃されることがある。

話が少し逸れたが、人はその時の環境により、殺人行動すら厭わなくなる生命体であることを、認識しておくべきである。

誰もが、「身の安全」を考えている限り「身の安全」が失われた時に、冷静さを失うのである。

私は、殺人はもちろん悪だが、殺人よりも怖いのは、集団心理だと思う。
スマートフォンの普及率の向上に伴い、SNSが盛んになり、”サイコパス”と言う言葉がまるで流行ののように扱われているのを耳にするようになった。

発達障害に属しているような人に限って発言への衝動性を抑えられないのか、「それサイコパスだよね」のようなあたかも俗語のように扱っているが、改めてここで、個性と人格障害と呼ばれるものへの相違について述べておきたい。

分かりやすい例えならば、「長所」「短所」と言う小学校でも教えられる言葉である。

そもそも人格と言う考え方は、一つの事柄に対し、その人が脳内でどういう処理を行うのかの違いによる。

例えば、対極的な例として、見知らぬ人間同士が「ナイフ刺し合っている姿」と、「ほめ合っている
姿」の二つの映像を見たとする。

すると、その影響を見た人の感想は、自身が考えている以上に多様になる。

「こんな映像は狂っている」と怒りを露わにする人もいれば、「刺し合っていることは良くないことだが、ほめ合っていることは良いことだ」と、冷静に状況分析をする人もいる。刺し合っていることに興奮を覚えるものもいれば、ほめ合っている映像にホッと胸をなで下ろす人もいる。

同じ映像を見ているはずなのに、その感想が多様化することは一般的に「価値観」と言う単純化され、認知されている。

「価値観」と言うのは、脳の動きに関して、現代の文明で解明されていないが故の置き換えに過ぎない。

上記で上げた例は、常に大切な例となる。

人と言うのは、目に見えるものすべてを常に脳内で処理している。

処理の仕方が、個性となっている。

個々の特性であり、良くも悪くもヒトも含めた哺乳類は集団でないと生きられないからこそ、”発信”するのである。

Aと言う人間が一つの情報を自身で発信した際に、Bと言う人間が同じように考えるはずもなく、BはAの情報を自身で処理するのである。

この時、Aにとって理解の出来る処理がされていれば良いのだが、全く意に介していない処理がされる事も当然起こり得る。

その際に、Aが集団に属していないか、あるいはA
の意見に賛同者が少ないなど、少数派であれば、「個性」

多数派であれば「障害」となる。

障害と言うのは、集団生活が基盤となっている人間にとって、基盤であるはずの生活すらまともに送れないが故のカテゴライズに過ぎないのである。