母親は要介護2の認知症患者です。数年前に差別的なイメージがあると「痴呆症」から「認知症」に呼称が変わりましたが個人的にはいまだに馴染めません。それまで認知といえば生まれた子供を認知するとかそういう使い方しかされてなかった言葉。日本語としてつけるなら認知失調症とでも言うべきで外国人介護士が聞いたらどう訳すのかな?と思ったりもします。ちなみに看護師用語ではDementia(デメンティア)と言うそうですがこのほうがまだいいのじゃないかと思います。
   認知症の辛いところは自分の知性(理性)が落ちていくのが自分でわかること。何年か前、「明日の記憶」という認知症がテーマの映画を見ましたがやはりその部分が主軸に置かれていたようです。つい先日まで難なく出来ていたことが出来ない。思い出せない。ウチもかなり進んできて見当識もままならないようになってきていますが今も彼女と接する時一番神経を使うのはその部分。好みそうなことを考えるのですが出来ると思っていたことが出来ないときの落ち込みを考えるとちょっとしたことでも躊躇します。ただ、理性が落ちてきた分、感情はより研ぎ澄まされてきてるように思います。考えてみれば「人」はこれまで理性と感情をバランスさせて生きてきたのですから押さえる部分が壊れてきたらその分感情が幅を利かすようになる。「食っちゃ寝ばかりじゃメタボになる。嫌やけどジョギングしようか」子供の頃、「遊びたい。でも勉強しなければいけない」。食べたい遊びたいのが感情で運動や勉強が理性。今となって考えると感情を抑えて嫌々勉強した結果がこれですからこんなことなら思う存分遊んだほうがよかったかもしれない。
  沖縄慰霊の日だそうです。唯一の本土決戦で20万もの死者を出し父母や祖父母達が命がけで守ろうとしたふるさとが敗戦と同時に敵国の基地にされる。理性的に見ると日本という国が生き残る手段として最も適したところがふるさと。そういわれるとアメリカの領土の延長として受け入れないわけには行かない。でもその間も感情の部分ではふつふつと煮えたぎるものがあるんじゃないか。いつまでおとなしくいい子でいることはない。看板だけ変えて規定路線を踏襲する政権。もっと怒っていい。うけ狙いのスタンドプレーだと思うけど大阪の知事が「出来ることなら何でもしたい」といいました。この部分に限っては支持出来る。
 「感情的になったらいけない。もっと理性的に」何度も人にいわれ自分にも言い聞かせてこれまで来たけどホントにそれでよかったのか?7~8分目で満足する。そういうのが世渡り上手とずっと信じてた。晩年もし認知症と診断されたとしてら?それもまたいいかな。それで人生チャラになる。そんな風に考えるのってやっぱり変?