90年に栃木県で4歳の女児が殺害された足利事件。菅家利和さんの再審の初公判が21日、宇都宮地裁で開かれました。菅家さんは「真犯人は別にいます。冤罪で苦しむ人が出ないように真相を解明してもらいたい」と訴えました。弁護側は、当時のDNA鑑定や取り調べをした検察官の証人尋問などを求め、最低でも7回は裁判をやるべきだと主張。これに対して検察は「無罪の立証を早くすべき」として、3回程度の裁判で十分だとした。負けが決定的になった今、これ以上ミスをほじくりだされたくない?そんな気がする申し立て。菅家さんが裁判所に謝罪を求めていることについて、裁判長は「再審の意義を踏まえ、まず公平中立な審理を行い、しかるべき最終的な判決の際に考えたい」と述べ。「謝罪もあり」を匂わせます。もしそうなら前代未聞。菅谷さんという人、一時期知的障害と言われていました。TVなどに出て話しておられたのを見る限り私にはそんな風には見えず、ただどこか気の弱さを感じさせられる人という印象。この人なら警察に連行されて一人取り調べ室で警察官に尋問されたら反論できないだろうな?言い争いの不得意な人じゃないかな?。周囲に波風を立てるのが嫌で何事も無難に過ごしたい。そういう消極的な考え、行動の人っています。ただそういう人って警察、検察。あるいは裁判制度からは理解されにくいのじゃないか?何故なら彼らはほんの少しでも隙があれば自己主張をして他人が話していても割り込み少々矛盾があろうが自分の論理を押し通す。当然といえば当然ですが菅谷さんとは対極の世界。そして自白偏重主義。「言わせたほうが勝ち」そういう世界に住み続けている人達とは同じ土俵では渡り合えない。その為に弁護士がいるじゃないかと言われるかも知れませんがそういう人には弁護士すらよほど「出来た人」で無い限り検察も弁護も同じに見えるのじゃないでしょうか?やってなくても諦めてしまう。やったと言ったほうが楽。殻に閉じこもって嵐が過ぎ去るのを待つ。今の司法制度はそういう自己主張の苦手な人を裁くことを想定されていない。今回、たまたまいい弁護団にめぐり合えたから声を出すことが出来た。そうでなく身に覚えがないのにいつの間にか有罪判決を受け罪?に服している。そんな人も他にあるのじゃないか?そんな気がします。彼の父親は逮捕のショックで亡くなり。母親も無実を知らされるまでに世を去りました。亡くなった女児の家族の心中は?。そして真犯人は闇の中。もし無実ならばなんとも罪深い。人を人が裁くことの難しさを痛感させられます。前回の衆院選のおまけみたいに行われた国民審査。過去20年。一人として不適任といわれた裁判官がいなかった制度の異常さも合わせて。