私は自分の足で歩いている頃、車椅子のひとを見て気の毒に思った。みてはいけないものをみてしまったような気持ちになったこともあった。私はなんと、ひとりよがりな高慢な気持ちを持っていたのだろう。車椅子に乗れたことが、外に出られたことが、こんなにもうれしいというのに、初めて自転車に乗れた時のような、スキーをはいて初めて曲がれたときのような、初めて泳げた時のような、女の子から初めて手紙をもらった時のような・・・・・・。でも今、廊下を歩きながら私を横目でみていった人は、私の心がゴムまりのようにはずんでいるのをたぶん知らないだろう。健康な時の私のように、哀れみの目で、車椅子の私をみて通ったのではないだろうか。 幸せってなんだろう。喜びってなんだろう。ほんの少しだけどわかったような気がした。
それはどんな境遇の中にも、どんな悲惨な状態の中にもあるということが。そしてそれは、一般に不幸といわれているような事態の中でも決して小さくなったりはしないということが。病気やけがは、本来、幸、不幸の性格は持っていないのではないだろうか。病気やけがに、不幸という性格をもたせてしまうのは、人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないだろうか。

 車椅子を押してもらってさくらの木の下まで行く
 友人が枝を曲げると 私は満開の花の中に埋まってしまった
 湧き上がってくる感動をおさえることができず
 私は口のまわりに咲いていたさくらの花を
 むしゃむしゃと食べてしまった

 動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ
 私のように動けない者が動けないでいるのに 忍耐など必要だろうか

 そう気づいた時私の体をギリギリに縛りつけていた
 「忍耐」という棘のはえた縄が
 ”フッ”と解けたような気がした


 神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら
 母の肩をたたかせてもらおう風に揺れる ペンペン草の実をみていたら
 そんな日が 本当に来るような気がした

星野 富弘 : 著 : 「愛、深き淵より」 : 立風書房