昨年の終わり、自分の中に巣食っていた矛盾や葛藤と向き合って、
すべてを手放してでも、ヨガに生きたいと、そう思って
でもそれど同時に、自分の命の力も弱く、生と死の境界が曖昧になって
私は天からぶら下がっている一本の命綱になんとかしがみついていた。
でも、なぜ生と死の境界が曖昧になっているのかを考えた時に
その答えはわかっていた。
私は生も死も幸福であり、またどちらも無であるという意識があった。
私の状況はあまりにも恵まれていて、自由で、豊かで、満たされている。
もうこれ以上望むものもない。
現世になんの未練も執着もなくなると、自分の肉体が消滅することも、惜しくない。
だから私は至極平穏であるにも関わらず、死を想ってしまう。
しかし、生と死はどちらも幸福であるのだけれども、生と死を等しい、としてしまうと矛盾が起きる。
私は生きていても死んでも、どちらでもいい、となってしまうと、それは違う。
私はまた大きな矛盾の中に入り込んでいた。
私は生きるために、今ここにいる。
だから、生を捨てるわけにはいかない。
私は、生きる目的をもう一度問い直していた。
本屋にふらっと入り、彼の本が目に入ってきた。
思わず手にとりたい衝動に駆られたが、探していた内容のコーナーに戻った。
家に帰り、何気なくつけたテレビで彼のドキュメンタリーが翌日にあるのを知り、私の胸がざわめいた。
そして、想像通り(いやそれ以上に)、彼の存在はとてつもなく熱く輝いていた。
彼は極限の世界で、生きることが何かを探し、証明していた。
そうだった。
私は、彼のようにはなれないけれども、自分をいつも甘露の泉の中においていては、本当の生を生きることはできないのだと。
だから、私は手放す決意をした。
それでよかったんだ。
私の命は知っていたんだ。
私達は一人では生きられない。
どんなときも、誰かが側にいる。
どんなときも、沢山の人の支えの中で生きている。
だから、そう簡単に死ぬことはできない。
自分の命は、どこまでも繋がっている。
あなたと、そして遠くのあなたとも。
自分の命は、沢山の愛に生かされている。
だから、みんなを愛そう。
そして、生きよう。
私達の命の躍動は、
「生きてこそ。」
なのだから。
aki