1952 シアーズ オールステート | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

1952 シアーズ オールステート

1952 SEARS ALLSTATE


1951年モデルから1954年モデルまで、カイザーは「ヘンリーJ」という名のコンパクトカーをリリースしていた。134cu:in(2194cc)の直列4気筒もしくは161cu:in(2637cc)の直列6気筒Lヘッドエンジンを搭載したホイールベース100インチのローコストモデル。1300ドルから1500ドル前後というその価格はカイザーの主力ベーシックモデルより600ドル前後も安く、セカンドカーなどの需要を期待しての投入だった。


そして程なくしてこうしたベーシックカーとして極めて好ましかったキャラクターにとある大企業が注目することとなった。それは全米チェーンの巨大デパートだったシアーズである。シアーズは折からの好景気を背景に急激に増してきた新車需要を前にリーズナブルでコストパフォーマンスに優れた商品としてヘンリーJを自社ブランドで販売したい旨をカイザーに申し入れたのである。


カイザーにとっても悪い話では無かったことから話はトントン拍子に進み、1952年モデルからフロントマスクやディテールトリムをシアーズ向けに手直したモデルが供給されることとなった。それが今回紹介しているオールステートである。


シアーズ・オールステートはディーラーに足を運ぶことなくデパートで購入できるクルマとして注目を集めた。実はこの時期オールステートのブランドと共に新たにリリースされたのはクルマだけではなく、1951年からというものイタリアの名作というべきスクーターのベスパが「オールステート・ベスパ」の名と共にライセンス生産されていた。すなわち1952年の時点でオールステートはシアーズにとって相当に力の入ったブランドに成長しつつあったということである。


しかし結局のところオールステートは失敗を見ることとなる。その理由は好景気がさらに加速した結果、多くのユーザーがコンパクトカーを通り越してさらに上位のモデル、特に内外装にコストを掛けた見栄えの良いモデルにその人気が集中することとなったのである。


オールステートは1952年モデルが1502台、翌1953年モデルが797台生産されただけに終わった。既にこの時点においてアメリカの自動車市場では一時期注目されたコンパクトカーが過去のモノになりつつあったということである。その後コンパクトカーは1959年から1960年に掛けて復活するものの、その時点ではヘンリーJやオールステートより一回りサイズが大きくなっていた。


1940年代後半から1950年代半ばに掛けて、いわゆるビッグ3の作以外にもアメリカ市場に投入されたクルマは多かったが、その中でもマイナーであるという意味では群を抜いた存在なのがオールステートであり、たとえアメリカ本国であっても写真を見てその車名を当てることができる人はほとんどいないと断言しても過言ではない。


なお余談ながらヘンリーJは東日本重工業(後に三菱日本重工業を経て現在は三菱重工業へと再編されている)によってノックダウン生産され日本国内でも少数(約500台)が販売されている。