コンベアXF-92 | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

コンベアXF-92

CONVAIR XF-92

第二次世界大戦終結後、進駐してきた連合国側の航空機関係者にとって、ドイツの航空機技術はある意味新技術の宝庫だった。その中ですぐにでも応用が可能と判断された技術といえば後退角とデルタ翼。特に後者は主任研究者でもあったアレグザンダー・リピッシュ博士直々の指導の下、ダグラスとコンベアがその具体化に向けて動き出すこととなった。


コンベアというメーカーは耳に新しいものだったが、以前はコンソリデーテッド・バルティーと呼ばれていた名門である。コンベアにおいて主任設計者を務めていたアドルフ・バーンスタインにはとあるプランがあった。それはリピッシュ流のデルタ翼機とジェット&ロケットの混合動力を組み合わせた超高速高々度戦闘機である。


バーンスタインにとってデルタ翼機は高速力を重視する機体という前提を鑑みた場合、その全てのディテールが好ましく思えた。


すなわち高速飛行時に機体に対する有害抵抗を排除するために有効な大角度の後退角、小さいアスペクト比、薄翼のいずれもが同時に実現できること。水平尾翼が不要であることからそこでも有害抵抗を排除することができること。


翼面積が大きく取れることから高速性能を維持したまま翼面過重を抑えることも可能であり、運動性能の面でも有利なこと。


アスペクト比が小さいということは翼全体の剛性を効果的に上げることができること。


広い翼面積を生かしてその中に大容量の燃料タンクをセットすることができること。といった具合に素人目にも容易に理解できる有利な条件が揃っていた。


数少ない欠点としてはやはり低速時の揚力と抗力のバランスが悪く、同じ弱点を持っていた後退角主翼の様に前縁スラットや大型のフラップでこれらの欠点を補うことも難しかったことである。


ただ汎用戦闘機としてでは無く、高々度における防空戦闘機といった特殊な用途に特化させることができるのであればこうした問題をクリアすることも不可能ではなく、バーンスタインが狙ったのもまさにそれだったというわけである。


こうしてバーンスタインの夢はXP-92として実現に向けて試作作業に着手することとなった。それは彼がリピッシュ博士に直接会って教えを受けた直後の1946年11月のことである。


コンベアXP-92は将来的には高速戦闘機への転換を視野に収めていたと言われてはいるものの、実際に試作機を製作し飛行実験を始めてみるとそう簡単にモノにできる様な性格の技術では無いことが分かってきた。


動力には推力面で甚だ心許なかった初期のジェットエンジンをカバーするために補助ロケットとの混合動力が計画されていたのだが、大きく推力が異なる2つの動力の併用はそのコントロールが難しく早々に実用化の見込みは薄いとの判断がなされた。


その結果肝心の高速性能についても装備されていたJ33ジェットエンジンの推力がアフターバーナー付でもわずか3400kgに過ぎなかったこともあって結局水平飛行では音速を突破することは適わなかった。最終的に音速を突破したのは降下を伴った飛行でやっとという状況だったのである。


要するにその空力的なポテンシャルはともかくとして、現実としての高速性能は同じ頃に試験飛行を重ねていたXP-86と大差が無かったということである。


ただし他の機体では様々な異常現象に悩まされることとなった超音速域での飛行でもXP-92のスタビリティは高く、今後のエンジンの進化次第ではその将来性は有効との結論が出された。1949年5月、XP-92プログラムは空軍の識別記号変更に合わせて新たにXF-92と改められた。その後1953年まで様々なテストに供された後、大きく性能を向上させることもなくプログラムはキャンセルされた。


結果的にこれといった成果を残すことができなかったXF-92ではあったものの、デルタ翼に関する基本的な技術ノウハウは後のF-102デルタダガー及びその性能向上型であるF-106デルタダートへと反映されている。