メッサーシュミットMe262A-1a | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

メッサーシュミットMe262A-1a

MESSERSCHMITT Me262 A-1a

「まるで大勢の天使が後ろから押してくれているようだった」。これは1943年4月22日、時のドイツ空軍戦闘機隊総監であったアドルフ・ガーランドがメッサーシュミットMe262に試乗した後に漏らした言葉だと伝えられている。


この試乗から程なくして、ガーランドは連合国側の爆撃隊を迎撃する任務にMe262で編成された戦闘機隊を向けようと画策したものの、結局はヒトラーの鶴の一声によって一転して爆撃任務に回されてしまうこととなる。Me262の爆撃機型が量産される一方で、戦闘機型のMe262はというと小規模な運用実験が許されていただけで大規模な部隊編成となると、ジェット爆撃隊が実戦参加を始めた1944年の半ばを過ぎてもほとんどその目処は立っていなかった。


しかし連合国によるドイツ本土空襲は連日過酷さを増すなど事態は逼迫していたこともあり、ようやくヒトラーが戦闘機型の量産を認めたのが1944年8月末のこと。最初の実戦部隊であるコマンド・ノボトニーが創設されたのは9月25日のことだった。


若きスーパーエースだったヴァルター・ノボトニー少佐を指揮官とするこの部隊に対して求められたこと、それは従来のレシプロエンジン戦闘機とはまったく操縦特性の異なるジェット戦闘機に最適な戦術を実戦を通じて確立することだった。しかしいざ現場に出たMe262は、その高速性能はともかく別のところで意外な苦戦を強いられることとなる。とうのもMe262に装備されていたユンカース・ユモ004に代表される初期のジェットエンジンには、スロットルレスポンスが極端に悪いという致命的が欠点があったためである。


たとえば離陸時はまずスロットルを注意深い操作しエンジンの回転が十分に高まり推力が安定したところで滑走を開始する必要があったこと。スロットルを絞った巡航状態から、すわ全速状態に加速しようとスロットルを操作しても、推力が高まるまではかなりのタイムラグがあったこと。さらにそうした状況でムリにスロットルを操作すると、最悪の場合はコンプレッサーストールを起こしてエンジンが停止してしまうといった深刻な欠点が報告されていたのである。


結局のところ、加速に時間が掛かるMe262ではドイツ空軍戦闘機隊におけるセオリー中のセオリーであったいわゆるロッテ戦法は不可能であるとの結論が導き出された。要するに加速していく長機に列機が追いつこうと慌てて加速しても、エンジンの推力が高まるのは数十秒後となってしまうことがほとんどだったこともあり、長機がスロットルを戻し巡航に入ったことに列機が気付かず、最終的に追い越してしまうといった有様だったのである。


こうしてMe262の最小戦闘単位はなつかしい3機編隊の「ケッテ」で行くことが決定された。ただし過去のケッテと明らかに異なっていたのは、密集編隊では無くロッテ流の極めてルーズな隊形だったということ。要するに個々の機体が編隊を組む列機の動きを妨げることなく最低限の警戒態勢を維持しつつ、仮に編隊がバラバラになってしまっても慌てることなく各機がそれぞれ任務をこなすという良い意味での個々を重視した隊形だったということである。


もちろん一旦安定加速状態に入ったMe262のスピードは尋常なレベルではなく、両翼に重いエンジンポッドを装備するという機体構造上、多くの制限があった運動性能も徹底的な一撃離脱戦法を心がけている限りほとんど問題にはならなかった。上空から猛スピードで襲いかかってくるMe262に対して連合国側の爆撃機や戦闘機が採ることができる手段といえば、何とかして敵の第一撃をかわすことだけだった。


コマンド・ノボトニーの隊員達は早い時期からこうしたMe262の飛行特性に着目、徹底的な奇襲戦法に終始することとなったわけだが、対峙していたアメリカ陸軍航空隊の戦闘機指揮官も黙って見ていたわけではなかった。どんなにスピードに優れた戦闘機でも、最終的には基地に戻らなくてはいけない。実のところ、スロットルを絞った状態での着陸行こそはMe262がもっとも不安定だった瞬間であり、アメリカ側は前線での交戦を避け、基地上空近くで待ち伏せるという裏技的戦法を編み出すことで対抗することとなった。スロットルレスポンスに問題を抱えていたMe262にとって、着陸進入中に奇襲されるということは、ほとんど為す術もなく撃墜されることを意味していた。既述の通り、素早く加速し離脱することが不可能だったからである。


アメリカ側のこうした新戦術に対してドイツ側は、新たにJG54グリュンヘルツからフォッケウルフFw190Dを装備していた飛行隊を数隊引き抜き、ノボトニー隊が展開していた基地の上空を離着陸時のみ警戒させるという苦肉の策を導入せざるを得なくなった。しかもMe262には他にも致命的が欠陥があった。それはジェットエンジンの信頼性と耐久性がレシプロとは比較にならないほど低かったということである。


戦術的に最重視されていたコマンド・ノボトニーであれば部品などの補給は優先されていたものの、それでもエンジントラブルに起因する機体の喪失は後を絶たなかったのである。その最たるものといえば、開隊からわずか一ヶ月半後の11月8日に当のノボトニー少佐が戦死してしまったことに他ならない。


彼が命を落とした直接の原因も左右のエンジンが相次いでコンプレッサーストールを起こして停止したことに他ならず。何とか滑空で戦線を離脱しようとしたところを追いすがっていたアメリカ側のP-51マスタングに仕留められたというのがことのいきさつだった。


ノボトニー少佐の戦死後、コマンド・ノボトニーは新たに創設されることとなったジェット戦闘機初の戦闘航空団(JG/ヤークトゲシュヴァーダー)であるJG7ノボトニーに吸収されることとなった。また同じ頃、ナチス首脳部に対する度重なる反抗的態度を理由に戦闘機隊総監の座を解任されたアドルフ・ガーランドに対して、ヒトラーは「ジェット戦闘機の有効性を実戦を通じて証明すること」を命じた。


こうしてガーランドはゲーリングに直談判の結果、自身が司令を務める戦闘飛行隊(JV/ヤークトフェールバント)JV44を創設することとなる。この戦闘飛行隊は規模的には一個中隊レベルではあったものの、ガーランド自身が方々からスカウトしてきた腕利きが集まっていたのが特徴であり、その噂を聞きつけた連合国側爆撃隊は飛行コースを変えることまで検討したとも言われている。


JG7とJV44という本格的な戦闘機部隊の登場によって、Me262を使った爆撃機迎撃戦法もまた次第にシステム化され新人隊員教育においてしっかりと指導されるようになった。ここで両隊が採っていた戦法こそが、アメリカ側が「ローラーコースター」と呼んでいた戦闘機動である。


ローラーコースターは敵爆撃機編隊の後方約4500m、高度差2000mから緩降下で追撃を開始、そのまま敵編隊の後方1500m近辺で一旦500m下方にまで降下した後、緩上昇しながら加速しつつ射撃、そのまま上方へと抜けるという機動だった。この機動は機関砲による攻撃の他に1945年3月から使用が始まったR4M空対空ロケット砲による攻撃でも有効とされた。


ちなみに敵編隊の直前で一旦降下から上昇に転じるという動きはそれまでのセオリーには無かったものである。これは降下をし続け後上方から攻撃を加えそのまま下方に抜けるという旧来の一撃離脱戦法では、時として降下加速度が高まり過ぎる傾向があったこと。その結果、引き起こし時に操縦不能となるという危険性を回避することが目的だった。実際、その加速力を過信した結果、オーバースピードに陥った状態を回復するためにスロットルを絞った途端にエンジン不調を起こし、安定性を失ったところを連合国側の戦闘機に仕留められるというパターンは少なくなかった。


ドイツ空軍におけるジェット戦闘機は1944年の秋から翌1945年の春までの半年弱に渡って本土防空戦に出動していたに過ぎない。その時点でフランスとドイツ本土の空は連合国側に席巻されていたことに加えて物資の欠乏も深刻化していたこともあり、防空出動は散発的にならざるを得なかったものの、それでも終戦までに600機近い連合国側爆撃機と戦闘機を仕留めることに成功している。


ヒトラーが爆撃機への転用を命じることなく最初から戦闘機として集中運用されていたら。それよりもMe262より1年以上も前に実用ジェット戦闘機として完成していたハインケルHe280を実戦に投入していたら。同じくハインケルHe162の開発が半年早く終了していたら。歴史の記述に「If」は禁物だが、実戦投入からわずかの期間でその欠点を考慮した戦術が確立されつつあったことを見ると、ドイツ本土防空戦の内容は少しだけ異なったものとなっていたはずである。