少数派が自分らしく生きること

ほとんどの場合、世界はそれを認めない

あるいは自由に生きる権利はあっても、ほとんどの人には共感してもらえないし、浮いてしまうし、集団生活の中では余計孤独を感じる


毎年クリスマスが近づくと教会ではみんなで何か出し物をするから、その準備のために今年も話し合いの時間がやってきた。

人数も少ないし、それぞれ自分の賜物、自分らしさを活かせたらいいなという話があった。

私の提案について聞かれたとき、浮かれて最近版画を習い始めたから版画で何か作品を作れないのかと思って、とっさに版画のことを話してしまった。


初心者だから上手いかどうかは置いておいても、そもそも私の描く絵は抽象的なものが多く、間違いなく万人受けするようなものではない。下絵を見せて「参考にさせてもらいます」と言われたけれど、みんなの表情を見たら察するし、見せなくても無理だろうと分かっているのに、自分のしたことが恥ずかしくて仕方ない。教会のみんなは優しいから、私に気を遣ってなんとかその絵を採用するかもしれない。でも、たとえ本当に私の絵が採用されたとしても、それを公開しても見る人の心には響かないでしょうし、なんの意味もなく、ただ恥を晒すことになるのではないかと思ってしまった。


そう、私は自分が少数派であることを自覚していて、多数派に認めてもらうことは最初から望んでいなかったはずなのに。


版画を始めたきっかけはコロナで何もかも無気力と絶望になっていた私を癒やしてくれた清宮質文さんの木版画。何もかも無感覚になっていたのに、それを見たとたん不思議に心に響いて、何か心を縛っていた硬いものがボロボロに打ち砕かれて、神様からの優しい光が私の闇に射し込んだように感じて、深く癒やされて涙がずっと止まらなかったのだ。


清宮質文 【深夜の蝋燭】1974年 (画像は、「駒井哲郎・清宮質文  」「大川美術館 」より)


その日美術館から家に帰って絵のことを調べたら、絵の左上には小さく「PSALMS77」と書かれていることに気づいて、非常にびっくりした。クリスチャンが1%もいない日本で、教会とかではなく普通の美術館で出会ったあれだけ私の絶望と無感覚を癒やした絵。まさかそこに神様の御言葉が書かれているとは。聖書詩篇77篇を読んで、神様の遠い昔のみわざを思い起こした。苦しみの中にいても、神様はいつも生きておられて、決して遠く離れているわけではない。昔から私が何度も何度も神様を離れても、闇に墜ちても、神様は私を放っておくことは一度もなかった。


清宮さんの絵は時代と場所を超えて私の心に響いたように、私の心の思いも遠いどこかに届けることができたらと思い、版画を始めようと思った。昔は絶望の中に神様は私に篠笛を与えてくださったけど、コロナでなかなか吹けなくなって、また八方塞がりかと思ったら、神様はまた別の道を開いてくださった。


私は同じく苦しんでいる人々に寄り添い、同じような思いを持っている人々に、私を癒やした神様の光と安らぎを届けたい。これが私の生きがい。まあ、逆を言えば私の夢は初めから多数派向けに何かをして多くの人々に認めてもらいたいわけじゃない。


しかし、同じような感性を持つ人に何かをしたいと言っても、周りにいるのは多数派の人。いわゆる普通の人。私の感覚とずれている人々だ。こんな変な少数派の私はその集まりの中で自分らしく生きようと思うのはただの自己中心なのかな?結局、ただただ浮いているだけで…


箴言14:10 心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。


現実は、多くの場合は、他人に合わせて「自分らしさ」を隠してその環境に強調していかなければならない。人には分かってもらえない、自分は他人とは違う。一緒にいる人がいても非常に遠く感じる。それが寂しいかもしれない。


教会は世の中とは少し違うというある意味期待があるからこそ、余計に寂しく思ったのかもしれない。でも、その寂しさも美しく感じる。いや、むしろその孤独感を愛しているかもしれない。その孤独を感じるたび、人は完全に分かり合えることはなくても、神様が分かってくれて静かにそばにいてくれることを思い出されるから。教会という完璧ではない人々の集まりに期待するのではなく、神様ご自身に期待することを何度も教えられる。


初めての銅版画。
清宮質文さんの深夜の蝋燭の模写です。