「サピエンス全史」の中の「個人」 | 藤田新 

「サピエンス全史」の中の「個人」

「サピエンス全史」は刺激的な本です。
一番強烈だったのは、第18章 国家と市場経済がもたらす世界平和 の中の次の文章でした。

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 そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいけないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」
 ロマン主義の文学ではよく、国家と市場との戦いに囚われた者として個人が描かれる。だが、その姿は真実とかけ離れている。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。
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よく言われるような、日本における「表現」と「個人」についての自己認識は、

現代の「表現」は「個人」によって為されるものであっても、近代化が未熟な日本では共同体の同調圧力が残り、「個人」の意識が希薄で「表現」は曖昧なものになっている。

というようなものです。


「サピエンス全史」では、普通に言われる「個人」は「ロマン主義」の転倒した錯誤だと言っていて、それならば、それこそ夏目漱石の時代から私達は西欧をそして私達自身についての全体の構図を間違えていたことになります。

「個人」を主張することは国家主義的であり市場主義的で、同調圧力は国家と市場に抗する側のものになります。

この主張がこれからどれだけ受け入れられるかは分かりません。
余りに本質的な変更で気分が悪くなりそうになりながら、同意できる側面を考えました。

セザンヌが見えるものを描いた作品を、見えるものを勝手に形を変えて描いて自律的だと解釈したのは、実質は国家と市場であっても表面的には「個人」が産業革命後の時代の「神話」になった結果のように見えます。

セザンヌの自律性という評価に始まる近代絵画は「知的な遊戯」になって今の美術の主流になっています。
しかし「知的な遊戯」には、曖昧な言い方ですが表現に「率直さ」を感じません。

その率直さを感じさせない屈折した印象は、国家と市場の要請によって生まれた「個人」を国家と市場に対峙するもののように喧伝したロマン主義から続く自己欺瞞の結果だったように見えます。