佐渡 草刈神社 | 藤田新 

佐渡 草刈神社

 

この画像は佐渡にある草刈神社の拝殿で、ネットで見つけてコピーしました。

 

 

近づけない・・・と思いました。

 

 

10年にはならないかも知れませんが、そのくらい前から高校の同級生が佐渡の能舞台のお手伝いをしています。

私も僅かですが寄付を続けていますが、能舞台は神社にあるそうで、半年前くらいにちょっとどんなところなのか見てみようと検索してみたらこの画像を見つけました。

 

ちなみに能舞台の画像は美しいです。

 

 

ついこの間、同級生は本を出しました。

 

著者名  藤原真由美
出版名  順徳院
価格   880円
取り扱い 株式会社マディオ http://www.madio.jp/
問い合わせ  office@madio.jp
 

送料はサービスだそうです。

 

読んで始めて背景を知りました。

承久の乱、後鳥羽上皇・・・歴史で習った記憶はありますが表面的です。

 

調べようと思えば調べられたのに、何故調べなかったのか分かりません。

 

本とはニュアンスが違いますが Wikipedia から一部引用します。

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父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた[2]。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を
引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった[3]。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった[2][3]。

在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した[2]。上皇と近かった平経高の『平戸記』の仁治3年10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」とあることから、同年初めの四条天皇の崩御後に鎌倉幕府が自分の皇子である忠成王を排除して土御門上皇の皇子である邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたことで、自らの帰京と子孫への皇位継承に対する幕府の強い拒絶の意思を知った上皇が絶食による事実上の自殺を図った可能性も指摘されている[5]。

配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院と諡された[2]。

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「上皇が絶食による事実上の自殺を図った可能性も指摘されている」

 

多分そうです。

 

拝殿の画像に手を合わせてしまいます。