恋。んまぁ何と破廉恥な響きでしょう。口にしただけで反吐を噴射しそう


になります。猫舌の僕にはあまりに刺激的でその名を口にすることさえ


憚られます。しかし僕はこの機会に力説しなければなりますまい。純粋


無垢な少年から垢まみれの痴女まで、その眼を曇らし酔狂の限りを尽


くすに至らせる恋の、悪魔の所業の数々を。と意気込んでみたはよいの


ですが“恋”と口にする度に嘔吐していたら僕の周りは吐捨物だらけ、文


字通り“恋”に溺れてしまうことになりかねません。もしもババアがここにい


たら叫ぶでしょう。溢るる真ん中のワタクシ!と。ババアとの遭遇を回避


するためにも“恋”を何かしら別の表現、例えばそう、…チチス!このた


またま通りかかっただけの無実のチチスに恋のあらゆる罪を被せること


をお許しいただきたい。さて準備万端向かうところ敵なしとは過言である


状態になったところで僕を反恋愛主義者にせしめるチチスの虚構と欺瞞


に満ちたその本性を白日の下に晒してやろうと思います。



『人魚姫』


それは、少し昔のお話。まだ王様が政治を行っていた頃、王室は王子の


花嫁探しに血眼になり、我が娘を王女にせんと虎視眈眈の大臣たちの陰


謀が宮廷に張り巡らされていました。城中が、いや国中が王子の花嫁の


話題で持ちきりで、夢と現実の区別のつかない町娘達は王子のお目に止


まろうと鷹狩に随行し、願いどおりハートを射抜かれそうになるのでした。


国中が花嫁騒動の行方を固唾を飲んで見守る中、渦中の王子は王室で


繰り広げられる混沌とした陰謀などどこ吹く風、毎日のように謁見に来る


城下指折りの美女たちも全く相手にせず起床、朝の体操、顔洗い、歯磨き


といった以前からの習慣をしっかりと守り抜群の鈍感さで大臣の囁きの含


意にも気付かず最近新しい趣味を見つけて非常に充実した日々を送って


いるのでした。



意外や意外。「溢るる真ん中のワタクシ」とはなんとゲリラ演劇の演目であ


ったのです(厳密にいうと演目ではなくその状態そのものを指すらしいので


すが・・・)。僕は偶然にもその公演中に通りかかり期せずしてその希有なお


芝居の観客となったわけであります。しかし僕は誤算をしていました。


いやいささか期待しすぎていたのかも知れません。僕はババアがきっと、こ


れだけ奇知なババアならなおさらです、きっと不思議の国のアリスに出てく


る懐中時計を持ったウサギさんよろしく僕を摩訶不思議なパラレルワールド


へと誘ってくれるものと、夢オチ覚悟でその世界に飛び込む覚悟を決めてい


たのです。しかしババアはてんで動こうとせず、静かに「溢るる真ん中のワタクシ」


をしているのでありました。ババアから引き出しうる面白(オモシロ)をすべて引


き出してしまったことを悟った僕は愛想を尽かしてその場を去ろうとしました。


けれどもここでもまだ僕は期待していたのです。ええ、未練たらしい女々しい男


だとの謗り、大いに結構!ババアが僕を引きとめてそれからやっと不思議な国


へのお誘いを頂ける、そんな淡い期待を捨てることが出来ない阿呆の、遅々たる


歩み、ババアに呼びとめる猶予を十分に与えて差し上げることも忘れなかった


計算高さは称賛に値することうけ合い!。だが脳の外に一歩出れば現実の風が


吹きすさびます。一歩、また一歩と進むごとに不思議な国は遠ざかり、ババアの


声を聞き漏らすまいとそばだてた耳は失望のためについに肩までずり落ちる始末。


これではいかん、と元の位置まで引っぱり上げたちょうどそのとき僕はたしかに


聞いたのであります。


「マ・テ。」


待ってました!ちはやぶる気持ちを抑え、冷静を装って振り返ります、静かに、で


きるだけゆっくりと。「何ですか?」


必死の演技も空しくババアは瞳を閉じたままで唐突に言いました。


「お前さん、恋するね」


「えっ?」


「恋だよ恋。」


僕はこれで完全にババアに愛想を尽かしました。 はっ?僕が恋?


馬鹿にするのもたいがいにしてい頂きたい。恋などという汚らわしい俗物にこの


僕がうつつを抜かすと?もう、あなたに用はございません。小夜奈良、僕より、


軽蔑を込めて。



そして僕は次なる面白を求めて歩きだしたのであります。


さらば皺くちゃ、さらば不思議な国よ。



しばらくして振り返るとババアは「溢るる真ん中のワタクシ」をしていました。

ひとえにババアといってもババアにも色々おります。けれど大きく分ける


と、弱ったババアとわりと元気なババア、この2種類に分けられるものと


誠に僭越ながら定義させていただきます。そして僕の目の前に横たわる


皺くちゃのそれは紛うことなき前者であるのでした。そしてその老婆は白


髪を振り乱し、鼻息荒く充血した目を見開き、ヒューという如何せん不健


康な声を漏らして僕の足をむんずと掴んだのです。


「ひゃっ」


「何も怖がることはないさ、ただ、そこに座りなさい」


「こ、怖がってなどおりません」僕はババアの言われるがままに目下の


クローバーの茂みにゆっくりと腰を下ろそうといたしました。


「そこは舞台ちゃ!!」言うが早いか金切り声をあげたその皺袋は怒髪


天を衝くとはこのことであるぞよとばかりに憤怒の形相で僕の足をつねっ


てきたのです。


「イテテ・・・お許しを!どうかこの白痴めに上々な酌量を今一つ!」


次なる攻撃に注意を払いつつ下ろしかけた腰を少し先の砂場に着地させ


恐る恐る老婆に尋ねました。「白痴の身でありながら黒子を父に持つ血を


裏切りし卑しき忌み子でありますこの僕に“溢るる真ん中のワタクシ”なる


珠玉の言の葉の如何なるかを教えて戴きたく候。」


ババアは蟻ンコを見るように目を細め「見てわからんなら聞いてもわから


ん」と吐き捨てました。たしかに百聞は一見に如かず、といいます。けれど


も僕はどうしても「溢るる真ん中のワタクシ」が気になってなりません。気が


つくと、地面に頭をこすりつけ“土下座”の様相を呈している自分がいました。


ババアが焦らしますので僕はほとんど三点倒立の態を成し、これぞ土下座


中の土下座と自負するに至っておりました。僕はすっかり地面に埋没し、ぼ


うっとしてきた頭でババアが乾いた声でケラケラ笑うのを聞き、そこでやっと


こさ事の真相を識ることとなったのです。


真相とはこのようなことでした。



ババアはどうやらとある劇団の元構成員で、その奇をてらった独特の演技か


ら一部の熱狂的ファンを抱えるスター女優であった(そんな莫迦な!)らしいの


ですが何らかの理由(これはどうしても教えてくれませんでした。お尋ねすると


アッカンベーとされます)での独立後、当時の熱狂的崇拝者の一部を引き連れ


てNPO団体「そういえばフォーエバー」を設立、そしてその活動のひとつである


「溢るる真ん中のワタクシ」を上演しているところに奇遇にも僕が通りかかり、


そのカラダの3分の1が土中へ消えている今があるという次第なのでありました。