市長選勝利は平成20年6月15日。 | ザ・住民訴訟

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正木 明人が想いのままに綴るブログです。

① 市長選勝利は平成20年6月15日。
初登庁は6月20日。前日の19日には、高日前市長の退庁式を、1階のロビーでやっている。

② 初登庁式は、庁舎前の広場を使った。当時の後援会長に挨拶をさせるというアドバイスを、コンサルタントの井上さんから受けて、私が段取りをした。このことを知っているのは、2-3人。職員には反発と違和感があったようだが、当時はこれがけじめだと思った。

③ 企画と調整に当たったが、田中企画推進課長は、6月末には、マニフェストのうち、市民参加はやるが自治基本条例はやらないと言い出した。なんでおまえがそんなことを決めるのかと私は反発。

溝尻企画管理部長との雑談では、松山市長になって、市はこれから変わると思うかと聞くと、変わると思うという。

④ 実は、6月中に松山新市長は、すでに籠絡されていた。それがわかったのは7月10日前後だった。毎日新聞の熊谷記者が、私に、市長は外から見ていたのと中へ入ってみたのとは違っていた。思い違いをしていたと議会で答弁しましたと。

⑤ 7月10日頃には、職員を誉めだしていた。職員の悪口を言うなら、今まで議員がやってきたことをばらすと言っているという熊谷情報も入ってきた。

⑥ 以降は、市民参加さえも吹っ飛んで、新市長は職員と組んでマニフェストをどう誤魔化すかに腐心していった。その結実が、19プロジェクトである。

立派なものが出来たと市長は胸を張った。何のことはない。総合計画のハコモノは全て建てるという決断をすでにしていた。

⑦ 6月20日時点で、職員が、現職を破って乗り込んできた新市長を、いわば混乱と恐怖の中で受け止めていた。
その混乱は、新市長を前市長と同様に待遇をするという手打ちで収まった。堂々たる新市長の誕生であった。職員との手打ちの後、議会対策をどうするかっだったが、職員を押さえれば議員はどうにでもなった。

⑧ 任せてーな!
思うようにさえてーな!

新市長は私に懇願をした。

私が彼を見切ったのは7月末であった。戦術をブログに変えたのは平成20年7月30日であった。

⑨ 新市長は、前市長のやってきたことを全て引き継いでしまった。54年間には大した問題はなかった。それで収束をしようとしたが、事はそんな小さな問題ではない。
第2ラウンドを住民訴訟でやっている意味がある。

⑩ 以上を書いた意味は、新議員に向けてである。

初心を忘れた時に、惨めな思いをすることになる。
様々の誘惑の手が松山新市長誕生の時と同様に伸びている。事態はすでに激しく動いているのだ。

続く!