「天津飯」

子供の頃に中華屋さんに連れて行ってもらうと
必ず注文したのが「天津飯」です。

物心つくころに食べた天津飯は、甘酸っぱいトロミのついた
タレがかかっていて、蟹玉の風味が何とも言えなく美味しかった。
記憶の最初にあるのが、この甘酸っぱい天津飯。


お店によってはタレに醤油を使っていたり、少しケチャップが混ざっていたりで
酢豚の手法が天津飯にも用いられている様子です。

高校を卒業し、大阪に住むまでは甘い天津飯しか食べたことが
ありませんでした。
そして大阪で天津飯を食べてみてびっくり。
「甘酸っぱくない」
自分が食べていた物とは味が違うことを友人に伝えると、
「これが天津飯やで」
「甘いのなんてまずそうやな」と散々な言われようでした。

そんなわけで、千葉に帰省すると無性に天津飯が食べたくなるのです。
よく伺うのは「佐久間」さん。
試しに嫁さん(京都府出身)に食べてもらうと、「無理」とのこと。
これは幼い頃からの刷り込みによるのだろうか。



リチャード・ドーキンスが「イスラム教徒の子供ではなく、イスラム教徒の
両親をもつ子供なのだ。その子供はまだ幼すぎて、自分がイスラム教徒か
そうではないかなど、決められるはずがない。〜略〜 キリスト教徒の子供と
いうものも存在しないのだ」と書いていたことを思い出した。
(『神は妄想である―宗教との決別』13頁 早川書房 2007年5月)

と言うわけで、前述の友人、嫁さんの言、
「甘いのなんてまずそうやな」、「無理」とは言わず、
心で味わって欲しい!

「あなたたちは、甘酸っぱくない天津飯教徒ではなく、甘酸っぱくない天津飯教
の地域に産まれた子供なのだから!」

 



「甘酸っぱい天津飯への門は100%開かれている!」

しかし…、甘酸っぱくない天津飯への私の門はほぼ開くことはない。
「私は甘酸っぱい天津飯教徒なのだ」

では。