子供にこそ道徳は必要である。
なぜならば、子供は、無分別で、純粋で直接的だからである。
欲しければ、人の物であろうととる。
泣きたければ泣く。
嫌な事は嫌だという。
それでいて、子供は、一人では生きていけない。
だから道徳が必要なのである。

子供にこそ、モラル、道徳が必要なのだ。
そのモラルは、古来、あらゆる思想、宗教において共通していた。
即ち、嘘をつくな。約束を守れ。命を大切にしろ。
食べ物を粗末にするな。物を大切にしろ。人の物を盗んではいけない。
人を傷つけてはいけない。人の悪口は言うな。弱い者イジメはするな。
法を犯してはいけない。年寄りはいたわらなければならない。
困った人を見つけたら助けよう。友達や、親兄弟を大切にしよう。
間違った事をしてはいけない。卑劣なことをするな。
勇気を持て。自分のことは自分でしろ。
当たり前なことである。
その当たり前なことが、今の大人はできない。

子供達の道徳に、
なぜ、大人達の都合で、政治的イデオロギーを持ち込もうとするのか。
子供達に抽象的な概念を教えても理解できない。
その場、その場で道理を言い聞かせなければならない。
だからこそ、道徳は、人格なのである。

日本人は、人生を一本の道にたとえ、人を、その一本の道を旅する旅人に擬した。

人生という旅の中で、どのような徳を積むのか。それを示したのが、道徳です。
ところが、どうもこの道徳という言葉が、知識人には気に入らないらしい。
封建的で古くさいと勝手に、決めつけている。

これらの言葉が、神道や忠勇愛国的な思想、信条と同一視して、何でもかんでも一把一絡げにして否定してしまう。

事の正否善悪に、新旧老若の別はない。
しかし、現代の日本の知識人は、古いものを嫌う傾向がある。
逆に、新しい物好きで、新しいものは何でもかんでも無条件で受け入れてしまう。

武道、華道、茶道という言葉が示すように、日本人は、本来、教育を道として捉え、修養、修行という要素から大切にしてきた。

そして、教育の場を、道場として、ただ、知識を習得するだけの場とすることを嫌った。

仕事場を神聖な道場として、仕事を通じて自己を磨いた。
それが、徒弟制度であり、職人気質、商売道みたいなものを形作っていた。
今は、職人や商人としてのモラルも誇りもないよな。
その結果、欠陥商品や欠陥住宅が、増えてしまう。
腕も、道徳も、鈍ってしまった。哀しいね、
要するに、人生がなくなってしまった。
男の生き様とか、そういう美学がなくなってしまった。
かっこう悪い事が、いい事だなんて、言い訳してね。
でも、俺は、汚い生き方はしたくないな。

文武両道という言葉があるように、バランスのとれた人格形成の場としての、教育現場を重視した。
このような、考え方は、道徳という言葉と伴に捨て去られようとしている。

でも、人間としていかにあるべきかというのは、一番肝心だと思うけどな。
それを教えておかないで、やれ学級崩壊だの、やれ、態度が悪いだの、マナーが悪いだの、モラルがないといっても、はじまらないよね。
だって、教えてないんだもの。

反道徳的な考え方が、一世を風靡している。
有名なコメディアンがその代表だね。
反社会的で反道徳的な事って、かっこよく見える時期があるよね。
でもそれって、結局、自制心がないという事でしょ。
だいたい、彼等だって金のためにやっているんだ。
道徳を捨てれば、楽だよね。
でも、それって、何も責任を、とらないと言っているだけでしょ。
そう言うコメディアンを
メディアは視聴率が稼げるとチヤホヤする。

暴力はいけないと言っていながら、
テレビやゲーム、漫画では暴力がはびこっている。
嘘はいけないと善いながら、
勉強は、自分の為にと言う大人がつく嘘に
子供達は、
気がついている。
選別を目的としながら、平等という欺瞞。
大人が信じない道徳を
子供に強要してもはじまらない。

礼儀作法は、誰が、教えるのでしょう。
躾は、誰がするのでしょう。
聞くだけ野暮か。

幸せになりたければ、身を慎まなければならない。
それが道徳の教えだと思うね。

なにが幸せか。
幸せは実感するしかない。
特に、子供達は。