レインボーブリッジに差し掛かる頃には、もうすっかり夜になっていた。


先生の車は、まるで先生の人間性を表しているかのように、穏やかに走る。


ゆっくり、丁寧に。静かに、おおらかに。


窓から、月が見えた。


綺麗な、大きな月だった。


でも、ほんの少し、頭の部分に青黒い雲が霞めていた。


なんだかわからないけど、切なくなった。




「菜緒?」


はっと、彼の方を振り向く。


「どうしたの?」


「あ、ううん…なんでもない」


慌てて目線をフロントガラスに戻す。


ふん、とゆっくり深い息を吐いて、前を見据え、微笑みながら彼は言った。


「さっきからずっと浮かないお顔をされていますが?お姫様」


「・・・なにそれ。そんなことないよ、平気」


「出た『平気』」


「・・・なに?」


「菜緒の『平気』は人の『つらい』」


「・・・」


「図星」


「・・・そんなこと」


「かわいいなぁ菜緒は」


・・・目線だけ、ゆっくりと動かして、彼の顔を見た。


「だからやめられないんだな。菜緒のこと」




ホテルを出た後、月は、ちゃんとした満月になっていた。


私は、勇気なんかないし、持つつもりもない。


それでも、今こうしてちゃんと、彼の横にいる。


こんな私でも、彼のそばにいられるのだ。


「あのね」


「ん?」


少し低い、甘めの彼の声は、たとえ短い言葉でも私の胸をキュッと締め付ける。


「・・・いいや。なんでもない」


行こうっ、と彼の腕を組む。




本当は、クリスマスのことを聞こうと思っていた。


どうして逢えないのか、もう一度聞きたかった。


でもなぜか、言葉はおのずと胸の奥底へ入っていった。


代わりに、はぁっと漏れた白い吐息だけが満月の夜空に溶け込んだ。






あと2週間でクリスマスだというのに、今日はすごく陽気な気候だ。


太陽だけを見れば、春の日差しと間違えてしまうぐらいポカポカと暖かな日差しをしている。


今日は、彼と逢える日だ。


今夜は、満月らしい。




彼、杉本拓志は、私の大学のゼミの教授だ。


38歳、妻子持ち。


一般的に「不倫」というと、相手の妻子のことを事細かく気になるタイプと、その逆があるという。


私はまさに、後者のタイプ。


彼はあくまでも私の先生で、付き合っている彼。たまたま家に奥さんと子供がいるようだけど、


私はそんなこと気にしない。


むしろ、学校内や二人で逢っている時は、私だけしか知らない彼でいてくれている。


それがむしろ、心地良い。


内気で引っ込み思案な私を包んでくれる、ただ一人の男性。


彼と、ずっと一緒にいられれば、それでいい。




『結局菜緒は本気で不倫する勇気がないんじゃない?』


さっきの朱里の言葉が脳裏をよぎる。


「不倫、かぁ・・・」


不倫なんて意識があれば、私はとっくに彼と別れているだろう。


不倫なんて思えないから、妻子の影なんて見えないから、私は彼と付き合っている。


それが私と彼の、恋愛。




「菜緒」


5限目の終わりを告げるチャイムが鳴ってしばらく経った頃、私を呼ぶ声がした。


振り返ると、いつもの優しい、穏やかな笑顔の彼がいた。






もう、恋なんてしないと思ってた。


先生に裏切られた、あの日から。


最愛の人に、裏切られたあの日から。


あの雨の夜に、彼と出会うまでは。




「ちょっと、朱里、食べ過ぎだってば」


「えーなんで?話聞いてほしいって言ったのそっちじゃん」


「そうだけど・・・」


大学内のカフェで分けっこしよう、と私が奢ったパフェをパクパクとほお張るこの友人。


朱里は、引っ込み思案な私が唯一心を許せる友達だ。


「で?杉本先生は何だって?」


「ちょっと!・・・声が大きい!」


「あ、そかそか。ここ学校だ」


「やめてよ、もう。どこで誰が聞いてるかわかんないんだから」


「じゃー今度にしてよー。ほらっ、もうすぐ私バイトだし」


「だめ!急を要するの!」


「・・・何よぉ?」


朱里は残り少なくなったパフェのグラスを、時々スプーンでカツンッと叩いたりしながら聞いている。


「彼がね、だめなんだって」


「何が?」


「だから・・・クリスマス」


「ほう・・・」


「昨日までは夜3時間だけなら大丈夫って言ってたんだよ!でも、やっぱりダメになったって・・・」


「ほう・・・」


「今までだったら絶対時間作ってくれてたのに」


「だねぇ・・・」


パフェは、もうなくなったようだ。


「どう思う?」


朱里は立ち上がり、椅子を引きながら肩にお気に入りのバッグをかける。


2ヶ月前に買ったケリーのバッグだ。私も、密かに欲しいと思ってたバッグだった。


「仕方ないよ」


「・・・どうして?」


「妻子持ちと付き合うってのはそういうことなんだよ。結局菜緒は本気で不倫する勇気がないんじゃない?」


じゃあね、ごちそーさまっと言って颯爽と外へ向かっていく。




カフェのテーブルに一人残された私は、あっけにとられながらもまぁ、いつものことか、と思っていた。


猪突猛進型の朱里は、よくこうして私を置いていったり、一人でどこかへ行ってしまったりする。


でも、私の腕をつかんで、一緒にグイグイ前へ進んでくれるところがあって、それが内気で優柔不断な私にはとても頼もしく感じられ、感謝している。




コツコツコツ、とヒールの高く響く音が外に消えていった。


朱里の履くヒールはいつも7センチ以上と決まっている。


私はせいぜい3センチの、歩きやすい靴ばかり。


ヒールの高さと恋愛の偏差値は、もしかして等しい・・・のだろうか。