18



思えば、朱里とゆっくり会うのは久しぶりだ。

バイトを始めてからは、授業とバイトの両立の合間に先生との逢瀬、その繰り返しに充実していて、学校内でのんびりとした時間を過ごすことが少なくなっていた。

休日も、バイトのメンバーと遊びに行かせてもらうことも多くなったりして…

本当に、お母さんが言っていた通りの新しい「世界」が、自分の中に開けた気がする。



「久しぶりね!ちょっと太ったんじゃない?」

先にカフェで待っていた私にいつものように毒舌で挨拶をしながら、朱里が入ってきた。

確かに私は連日の寝不足(バイト先がバーだから仕方ないのだけれど…)をカバーするように食欲が旺盛になっており、自分でも少々ほっぺが大きくなっている実感はあった。

「うぅ…さすがだね」

「当たり前じゃない。あんたのことは何でも分かるわ」

その言葉に、今までなら『本当に?あはは』などと笑って対応していただろう私は、なぜか返事に詰まってしまった。

そんな微妙な私の反応を知ってか知らずか、朱里はどんどん質問してくる。

「で、話って何なの?先生のこと?それとも…武志さんのこととか?」

なんで話し始めてすぐに武志さんが出てくるのかビックリしてしまったが、返す言葉もなく、ただうなずいてしまった。



17



お正月が過ぎるとあっという間に大学は始まり、そうこうしているうちにテストもあり・・・なんかで、バタバタと忙しい日々が続いた。



やがて気候も少しずつ寒さがやわらぎ、もうすぐ春がやって来る、そんな季節になってきた。




3月の終わり。

あの人が帰ってきた。




「お久しぶりです、皆さん」

「おう、お帰り。よく無事で帰ってきたな」



本業のアシスタントカメラマンの仕事で、パリに長期滞在していた武志さんが帰ってきた。

少し髪も伸び、出発前には見られなかったおしゃれ髭がこれまたよく似合っている。

この人は本当にカッコいい。

大人の色気、というものを十分に持ち合わせているなと感じる。



「例の事で、お店、大変だったでしょう。すみませんでした」

「いや、みんなが給料の支払いを延ばしてくれたこともあって、なんとかこうして再建できたんだ。
あの時は本当にありがとうな、菜緒ちゃん」

田嶋さんが急に話を振ってきて、私は自分が無意識のうちに武志さんに見とれていたことに気づいてハッとした。

「えっっ!!はっ、はい、あ、あのっ!いいえ・・・とんでもないです・・・」

しどろもどろな私を見て、ハハハ、と二人が笑う。



あ。

武志さんのこの笑顔、前に二人きりでカフェに行った時に見た笑顔だ。

印象的だったんだ。

端正な、美しい顔立ちから生まれるくしゃっとした笑顔が。

綺麗に手入れされた眉が、少しだけハの字に曲がる所が。

口角がきゅっと上がり横に控えめに開いた口から見える、左側の八重歯が。



先生の笑い顔とは、違ったんだ。

フッと、微笑むようにしか笑わない、先生とは違うんだ。




「菜緒!そろそろテーブルセット、ほら」

哲が、きちんと四角く折りたたまれた20数枚のクリーニング上がりのテーブルクロスを、軽々と運んできて私に手渡した。

自分の腕に抱えたとたんに、どんっ、と重みが伝わってきた。

重いと感じてしまったことを察されないように、田嶋さんと武志さんに「では」と軽く会釈して、私はその場から離れた。



私、何でこんなに緊張しているんだろう。

シフトではなくて、帰国の挨拶にと急に立ち寄った武志さんに、ドキドキしてしまったのだろうか。



哲と話しかけられ、大学の香りを感じてやっと我に返った自分がいる。

先生とは相変わらず、ゆっくりのんびりとうまくいっている。

なのにどうしてこんな気持ちが生まれてしまうのだろう。



誰かに相談したいと思った。

やっぱり、こういう時に頭に浮かぶのは、朱里の顔である。





16

 年が明け、街ゆく人の表情がウキウキ、ワクワクといった明るいものになった。

大好きな人や家族と、ゆっくり時間を過ごせることが多いお正月は、きっと普段心にどんな悩みを抱えている人にも、

どこか楽しみや、希望を与えてくれるものなのかもしれない。



先生と一緒に過ごすお正月は2度目だ。先生は元旦、2日は家族サービスに費やすが、

3日は『研究とゼミ生の就職相談で』という打ってつけの名目で、私と会う決まりになっている。

先生がそうして、私に変な遠慮をさせないスケジューリングを組んでいるからこそ、

私は何の気兼ねもなく先生に会うことができるのだろう。



去年に引き続き、私たちはのんびり、ゆったりと2人の時間を過ごした。

学校やお互いの自宅がある横浜から離れて都内に出れば、知り合いに出くわすことはほぼ無い。



私は先生と手をつなぐことが大好きだ。

末端冷え性の自分の手が、先生のぬくもりと優しさで形成された手に包まれると、本当に温かくて心地良い。

早くに父親を亡くしたことも多少関係するのかもしれない。

小さい頃外にお出かけした時に、お父さんの大きくて温かい手をつないでもらうことが大好きだった。

小学校にあがる前に亡くなってしまったのでお父さんに関する記憶はあまり多くはないが、

無口で素朴なお父さんが、私の前を歩きながらそっと後ろに手を差し伸べる光景が鮮明に印象に残っている。

その手に、嬉しいくせに子供ながら恥ずかしさを覚えて、「嬉しい」という表情を見られないよう、そっと何も言わず自分の手を添えていた。

そしてその手をギュッと握り返してもらった感触が今でも忘れられない。

手をつなぐことが、無口な父と内気な私の数少ないコミュニケーションだった。

先生の手も、あの時の温もりに似た包容力があるのだ。



「お店はいつからなんだ?」

「えっ?」

「バイトだよ。バーの」

「あぁ、ごめんボーっとしてた。明日からだよ!」

「なんだ?何を考えてたんだ?」

先生が少し眉毛をハの字にして、微笑みかけながら言う。

「ごめん。ちょっと昔を思い出してて!」

私は手をギュッときつく握って微笑み返した。

「いいなぁ、菜緒はいつも楽しそうで」

「そう?…かな。うん、幸せかな。先生は幸せじゃないの?」

「いや、幸せだよ」

ニッコリ笑って答えた先生が、気のせいか何かを考えながら言っているように思えた。

「そろそろ帰ろうか」

初詣(先生は2回目だろうけど)、ドライブ、食事を終えて夕暮れに差し掛かったあたりで先生が切り出した。

「うん…」



去年は「ゼミ生の新年会のオールに付き合うから」なんて家に電話して、朝まで一緒に居れくれたよね。

今年は、違うんだ。

一緒に居られないのか…。




「なんで今年はだめなの?」

「私と朝まで居たくないの?」

そんな言葉が出ない自分が悔しい。

でも…言えない。



心許せる先生の前でもウジウジ虫な自分が情けない。

朱里に言ったら、いつも通り怒られるだろうな。それとも呆れられるかな?

はぁ…いや、仕方ない。これがいつもの私だ。



無意識のうちに、また先生の車の中で「はぁ」とため息をついた。

先生がそのサインに気づいていたのか否かは、今でもわからない。