1ヶ月前くらいに、突如、合気道の稽古のあとに眩暈が始まった。

その稽古のあと、行かなければいけないボランティア関係者の集まり(日頃お付き合いのある、)があって、それに行きたくなかったのもあってか、眩暈は止まらず。

が、3日後に、私のよくあるいわゆる「神の啓示」の、他者の助け(地域の、いつもは接触のない方たちからの何気ない力強い励まし)でいきなり眩暈が解消はされたけれど、原因が「ボランティアの心因性」のものじゃなくて、合気道だったらどうしよう、と怖くて行けなかった合気道に昨日、やっと勇気を奮って行った。


「アナタは月イチね、それでもいいのよ」

と完全に先輩たちは諦めていたが、兎に角、眩暈は終わっても起らなかった。

最後に、久々に前受け身をひとりで15回くらいやってみたけど、大丈夫だった。


万歳。


結局、ボランティアのストレスだったわけだ。


私の心は、対「PTA保護者たち&地域のオバさまたち=なんだかいつも集団で集って楽しそうにしている一団の人たち」に非常に弱い。


ガイアツに弱い。


経験がないからだと自分に言い聞かせる。




二教と小手返しがわりと自然に出来るようになってきたかも。


座技、二度目の挑戦。

一教をやる。

疲れた。


受け身がまず出来ない。


ほぼやったことがないんだから、わかってはいたけど、足が、全然跪坐(きざ)に慣れてないので、初動からついていかない。


跪坐の、後ろ足で全てを支えるように、指示される。


わかりやすい。


合気道に来ると、ボランティアの人間関係での日常とかけ離れて、明快で爽快。


テレ朝で、才色兼備ふうアナウンサーが、

『北の湖親方がまた、理事長に「なってしまいました」』

と、言っていたのでちょっと耳を疑った。

意図的だと思う。


何十年前か前、北の湖が好きだった。



結構、オトコを見る目があると自負してただけに、情けない昨今。


北の湖。

いいお相撲さんだったと思うんだけどなあ。


相撲が「国技」なら、外国人(爽やかで素敵な、「個人的」に申し分ない高見山関)を入れた時点で

「終わりだなあ・・」

と思ってた私ってあながち間違ってなかったのかしらね。



久々の近況報告。


合気道、時々行ってます。

辛い昨年を思い出させる人が、会議に現れると(実働時は来ないで、言いたいことだけ言ってなにもしないで帰っていく)、その人が帰ったあと、眩暈がする最近です。

ちょっと病んでます。


やってもやっても叩かれる。


むしろ、やればやるほど叩かれる。


やってもいない人に、または価値観の違うひとに、反省だけは促される。



利益には無縁だから、みな、責任感なく言いたいことを言うだけ。


あるのは人間関係だけ。




ボランティアって、辛い。


私にとって、常に指針となっている

金子郁容 「ボランティア もうひとつの情報社会」

には、行き詰った時にもういちど力を与えてくれる数々の言葉が並んでいるのだが、


その中の一節


『自発性パラドックスが発生するひとつのパターンは、いわゆる「言いだしっぺが損をする」ということ、つまり、自ら進んで行動を取った人は、その後もいっそうの自発性を発揮することを期待され、しかも傍観しているだけの人の分までの負担を負わされて「わりをくう」というものである。


ここで注意しておきたいのだが、人からいろいろと言われるということだけなら、人のことは無視するとか、「そういうお前はどうなんだ」と反撃するとかによって一応の対応はできる。ここでいっている「つらさ」の本質は、人から攻撃されるということではなく、むしろ問題が自分に返ってきて自分自身を問うことになるというところにある。』



彼にかかると、一見、下世話な井戸端会議に飛び交うお喋りや愚痴の中に、こんなにも的確に、ボランティアに向き合う人たちの悩みの、実は根源的な問題点が見出される。


まさに、「自分自身を問う」ことになってしまうので、最終的に不満をぶつける場がないのだ。

(私は家族に喋りまくってぶつけてるけれど、日々。)



おもなプレッシャーは以下3つ。



ひとつ、自分のやり方が下手だから、より多くの人に理解されない。


ひとつ、自分の考え方が偏狭だから様々な価値観を持ってる人たちの意見をまとめきれない。


ひとつ、事業も自分自身も、より進化していかなければいけないのに、どんどんキライな人が増えていくだけだ。




書き出してみると、情けない。


今までワガママに生きてきてしまったのに、ガラじゃないことをやってるのが悪い。


情けないまま、進化せず、だが、また力が出る日が近々来るのだろうか。


行ってきた。


「おひさしぶり~  ・・・・って会うたびに言ってるわよ!」

と先輩に笑いながら睨まれる。


楽しかった~。



いつもちゃんと来ていると思われる(私がたまに行くといつも来てるから)白帯の先輩ふたりが珍しくいらっしゃらず、ベテランの先輩ばかりだったので、不思議な技のオンパレードだった。


あり得ないことに二人取りをやらせていただきました。


左右ひとりずつから諸手で両手を取られたら、右側だけくるっと入り身して、ふたりが目の前に来たところで前方に踏み出して肚から放り出す、みたいな感じ。


受け身を取る先輩たちがすごく上手いので、バンバン投げて、気持ちよすぎて思わず口元に笑いがこみあげてしまう。


道場の雰囲気、ぶち壊し。



先生も「うまいうまい」とかおだててくださるから(昔、もっと若い時はすっごく恐かったそうだが、お子さんも出来て『丸くなられた』そうです)、楽しいだけ。


ほかにも面白い技をやって、先輩にも「皆この技はあまりやらないから、持ち技にしなさいよ~」と、からかわれながらその気になってたのに、忘れてしまったという。

情けない。


それより、先生が

「こんなのより、やはりちゃんと基本が出来ないとね」

と、諸手取り一教をやったら、これがいきなり出来ない。


正面打ちがほかのに変わっただけで出来なくなる、このツラさ。


がんばって覚えた。

腕を時計回りで行けばいいのだ。



最後に受け身の自主練をちょっとして終了。


カラダがすごく軽い。


この一か月、ボランティアで忙しすぎて人間関係も大変だし精神的にまいっていたけど、たった1時間動いただけでこんな爽快感は、ほかにない



ただ、Y大先生の頃のことを考えると、こんなヤワい稽古でよいのかと後ろめたいが、今は子育て中(と、言い訳する生徒さんが女性は多いのです・・・ピアノでも。だめだめっ!男性だっていつも仕事中なんだから。)だし、忙しいし。


いいかなあ~~~ 


まずは楽しいだけで。


Y大先生のとこで、モン先輩に

「最初だけだからね~、楽しいのは」

と言われて

「最初から全然楽しくありません」

て言ったら心配されて

「本部の初心者とかでも出れば」

ってアドバイスされたんだから。

まあ、とりあえず、いまは、楽しいだけで、よいことにしておこう。


忍者が学校から帰ってきて、これ見よがしに手に本を持っている。


『黒い家』だ!


思わず心の中でイトコの名を呼んでいた。


だいぶ前コレにハマって、ふたりで手を取り合って同名の映画まで借りて見てしまったことがある。


原作と違ってヒドイ映画だった(最後のほうがもう、思い出して笑ってしまうくらい)。

でも西村雅彦が名演技だったのを思い出した。



忍者に「なんでそれ借りたの?」と訊くと

「表紙もタイトルも怖そうだったから」と言っていた。


私と違ってホラーが好きなのだ。



で、2日くらいして、夕方「ピアノ弾きなよ」と言ってふと見ると、ページが残り少なくなっている。


思わず、「あ~!そこじゃ止められないよね~ 読み終わってから弾けばいいよ」と言っていた。


なんて話のわかる親なんだろう。

しかしこんな優しいことばが出たのは彼女が生まれてから初めてである。



読み終わるのを待ちかねて、「どうだった?!」と訊く(ヤな親だ)。

「うん怖かった・・・」(心から言っていた。)


「山田ユウスケ(だったか)とかあさのあつこなんかとエライ違いでしょ?!」とムリヤリ同意を求める(他の作家と比べることもないんだけど。大人気ない親だ)。


「うん・・あんなすぐ読める文章と違う。最初の子供が死んでるとこでもうただごとじゃない感じした」などと語っていた。


あさのあつこはまだ好きみたいだが

『ナンバー6』とかいうのをこないだ読まされた。



でもだんだんオトナっぽいのも読む年になったんだなあと思う。


こないだも横山秀夫の『震度0』をこれ見よがしに持ってたので貸していただいて読んだ。

いつも読んだあとなんだかんだ文句を言うわりに(女の描き方がえげつなさすぎる)また週刊誌的に楽しく読んでしまうんだが、あんなオヤジっぽい作家の作品が何故中学の図書室にあるのかと思ったら、阪神淡路大震災のことがちょっと出てきてたから、エンターテイメントとして子供たちの記憶にとどめたいのかもしれない。

ちょっとずれてる気がするけど。


忍者自身は読まなかったようだ。


横山秀夫に夢中な中学生ってのも見てみたい。


日曜のアンサンブルコンサート、参加する人が固定化してはいるが面白かった。


やる気のある方たちのご希望がある限り、やりたいと思います。


司会のジャン・ウメ子のおかげで(せいで、)インタビューも盛り上がり。


練習しない自分には相変わらずアタマに来たり。




アンサンブルもソロもで大変だけど、皆さま最近は要領よくなられ、私も選曲が難儀ではあるけど、アレンジなどは手抜きがうまくなり。



本番に強い(イコールよく練習してる)皆さまのおかげで楽しいです。





「アンサンブル」はなぜ大切か。

「アンサンブル」で何を学ぶか。


レッスン時、なんとなく不安にかられ皆さんに訊きましたが、あれれという感じで。


「ユニゾンを聴く」とか「楽しく弾く」とか、皆さんいろいろ言ってました。


ユニゾンというか、音を聴くということに関して、ピアノは平均律で調律してくれちゃってるので残念ながらふだんあまり必要なく感じられてしまうところがある。


ボーカルとか弦の人だと、自分で音を作り出さねばならず、ほぼひとりではなく伴奏がいたり合奏(合唱)なので他人の音と共鳴しなければならず、音を聴く大切さは身に沁みている。


良いオケや合唱を聴くと心が震えるが、実際に内耳?が倍音や強さによって最高に心地良く震えているから相乗効果でものすごいことになるのだ。



「テンポ(カウント)を出す」なんていう一見カンタンなことも、ドラマーはいつもやってるけど、ピアノは普段やらないから、やってみると意外に難しいし新たな発見がある。



人間て歩く速さは結構同じだから、生徒さんを見てると、だいたい常に同じ速さ(いわゆるアンダンテ)で1拍を取って弾き始めてしまう。


8分の6だろうと、2分の2だろうと、初見だろうと。

これって人間の性なんだろう。


心の中で最初の数小節のテンポを出してから始めないと(と私も小学生の頃言われた記憶がある)。




アンサンブルの醍醐味は「他人と合わせる。他人の演奏を聴きながら一体化する」ことだ。



弦楽合奏とか伴奏とかはどうでもよくて、ソロやるのが奏者としての本望と思ってる学生が多いけれど、それは全く違うと偉大な演奏家はよく言う(ブレンデルだったかエッシェンバッハだったか。どちらも言いそう)。


私も高校の頃、なんにもわかってなかった。

ソロじゃなきゃエラくないくらいの勢いだった。


ただ、ピアノ弾きはひとりで全部やれて和声感があるから、コーラスではメロディ以外のパートをやりたがる人が多い気がする。

これは楽しいし曲の構造も吟味出来ていいことだと思う。


私も歌は下手だがハモリにはひじょうに執着する。



ピアノはひとりで完結出来るのはメリットだけど、デメリットもいろいろ意識しましょうということでしょう。


(今日は新聞の投稿欄ふうです)


今日、私は自転車生活を始めてから、ずっとモヤモヤしていた気持ちを解消したのです。



合気道に行くのに自転車を漕いでいたら、前をゆった~り自転車で走ってる男性がいたのでどんどん近付いてしまい、ちょっとイヤだなと思いながらも、抜いていきました。


すると、私の経験上、案の定その男性はいきなり猛スピードで追随してきて、抜き返していきました。


でも、よほど早い人じゃないと、交差点で必ずまた一緒になってしまうのです。


その男性は、メットなどの装備も全てブルーでお洒落にキメてはいるけれど、レースっぽいピタピタ服など着てなくてやりすぎてない(カマキリみたいじゃない)、ハンサムでスマートな男性でした(でも自転車はGIANTだったけど)。



そこでなぜか、交差点ですぐ追いついてしまった私は、ずっと思っていたある疑問を彼に問いかけようと白羽の矢を立てたのです。


彼の横に行き、

「自転車乗ってる男の人って、どうして女に抜かれると必ず抜き返してくるんですかね~」

と、いきなり訊きました。



彼は、精神を病んでる人に対応する医者の如く、全く表情を変えず、驚くわけでもなく、すぐに真面目に

「う~ん」

と考えてくれました。


で、笑いながら(一応、私も不審者に見えないよう、ニコニコはしてました、明らかに見ず知らずの人に突然自分の悩みをふっかけたら、このニッポンでは不審者でしょうけど)

「アナタみたいに女性なのに速い人はあまりいないから、なんとなく、後を追ってしまうのかもしれないですねえ。でも、オトコの方はあまり気にしてはいないんじゃないかなあ、気にしないでいいですよ」

と言い、青になったので、お互い手を振り彼を先に行かせた。




気にしてないのか?

そうか。そうだったのか。




いや、そんなことない、



私はかなりコアな自転車生活者です。

1時間くらいは普通に自転車に乗ります。


東京の西のはずれから浅草まで1時間以内で走ります。


私と同じコースを20分くらいも走ることになる男性がたまにいます(20分は距離にすると新宿⇒銀座くらいでしょうか)。


そうすると、ごくごくたまに、気になる男性が現れます。

私が前を走ってる男性を追い抜くと、その後その人が抜き、その人がまたすっかり「油断して」ゆっく~り走ってるとこに私がやってきてしまい、イヤだけれど私がまた抜き返す、するとその男性は逆上して全速力になりまた抜き返す、ってのを延々5,6回繰り返すことになってしまい、なんだか情けなくなって来ます。

こっちはずっと同じ速さで漕いでるのに。




その青い自転車の男性と、また次の信号で一緒になってしまった。



だからまたいきなり友人のように話しかけました。

「でもね、また追いつくと必死で抜かすから、抜かしちゃ悪いなって気にして、とってもなんか走りにくいんですよね。オトコ同士でもやってるんですかね」



すると、彼も考えてたみたいで、

「そういえばうちの家内も(若いのに家内だって。なんか上品)、よく自転車乗ってるんだけど、走りにくいって言ってますよ。」



で、なんか話して(忘れた)、

「要は、こっちが二度と抜かされないようにどんどん行けってことでしょ」

とちょっと自嘲気味に彼は言って猛烈に走り出しました。

確かに、バイク便の子とか、レースっぽい格好の人とかめちゃめちゃ速くて、二度と私の視界には戻ってこなくて、そういうのは清々しい。



彼が行ってしまうと、とても悪い事をした気になった。




なのでもう、気にしません。

なんか気が晴れたから。



だから、男性たちも、

「女のくせに」

って思うの、ホントやめてね。


いろんなことに。
全てに。

力では女はオトコにかなわないに決まってるんだから普通。


そういうオトコって、ほんと見た目もイケてない。



でも、現代にはヘンな「フェミニズム意識」があったり、それなのにかそれゆえか「日本の企業社会」は全然女性が働きやすい構造になってない、だからオトコも女も可哀想とは思ってるけど。



今日の彼はあまりに紳士的だった。


私の欲求不満のハケ口にして申し訳なかったと、今は懐かしく思い出します(今日のことだけど)。

舐めるように読んできたのに、「八百万の死にざま」を一昨日読み終わってしまった。


ローレンス・ブロックはイイ。


20代で読んだ時とまた全然違った。


女々しいだけじゃないのがヒタヒタわかってきた気がする。



訳も最高だし、

「いや~よかった~」

とほぼ涙目で、読み直すきっかけを作ったイトコに電話する。



「ハードボイルド」を読み始めた高校の頃から時々考えることがある。


「ハードボイルド」って。

堅(かた)茹で卵ってことだけど、なんで?


ああいう小説群のどこが「堅茹で卵」なんだろうか。



卵って確かにあんなにいろいろ焼き方に情緒のある表現がある食べ物もほかにない。


ニューヨークに初めて行った時、「サニーサイダップ」とか「スクランブルド」とか訊かれて「英語圏の人ってかっこいい・・・」(バカ)とノックアウトされた。


「目玉焼き」「かき卵」より断然、いい。



心を閉じた、「堅固」な殻をかぶった探偵さんたちが主人公だからこう呼ぶのかしら。


イトコは

「だって、ローレンス・ブロックの顔写真見てみなよ、ゆで卵そっくりじゃん」

て言うけど、そういうことじゃないと思う。



すっかりトシになってまたハマったワタシは更に図書館にあったブロックの「倒錯の舞踏」「獣たちの墓」「処刑宣告」と次々読む。


20代の頃はスグ飽きた記憶があるけど、全然飽きない。


『誰を見ても誰かを思い出すというのは中年になった証拠だそうだ』

とか、イトコに言わせれば「クサイ。」の一言で片付けられそうなセリフにもぐっときちゃうし、暗いストーリーの合間に、極道ミック・バルーと楽しそうにずっとだらだら喋っているのも心安らぐ。


イトコに

「タラもAAの集会に行って、『私はアル中です』って言ってきなよ~」

と言われる。


そうそう、AA(アルコール自主治療協会)の集会、非常に興味がある。


いまだに、あんな非生産的(というと失礼だが)なパーティをN.Y.ではやってるんだろうか。


一日じゅう、どこかでやってて、夜中の2時とかにもYMCAとか教会とか、マンションの一室とかでやってる、と書いてある。


ま、ワタシはダイジョウブです、スカダーみたいにその一言がずっと言えないわけじゃない。

自分は「アル中です」って自覚してて、そこらじゅうでカミング・アウトしてるから、それってきっとほんとは「アル中」ってことにはならない。



ちょっと気になって、ネット検索したら、「AA」で出てきたのは「アスキーアート」でした。


時代って、変わるのね。

県立美術館で北斎と弦楽4重奏(ドボルザークの「アメリカ」をやってた)まで堪能し、1Fの受付まで戻ると、スーベニールコーナーのさらに奥で、軍曹が大きなガラス窓にへばりついていて、その向こうに素敵な空間が広がっていた。


なんと真っ白い厨房だ。


しかも、シェフの帽子を被った、端正な男性が珊瑚色のつやつやした板状のものを手品のように変形させている。


アメ細工だ。


手元や、近くのプラスチック箱の中に、造形したバラや黄金色の波打った葉っぱのようなものなどが並んでいる。


色も形も繊細で、見とれてしまう。


バーナーを使い、冷やすスプレーを使い、ガラス工芸そっくりな一瞬も気の抜けない、息苦しい作業がひたすら続く。


1時間以上、軍曹は身じろぎもせずガラスの此方側に立ち続ける。


奥の方では、ひたすら山盛りのレーズンかベリーを刻むカワイイ女性スタッフたちがいて、横にあるティールームからはウェイターが時々用事で来て、皆、アメ細工がだんだん出来上がるのを気にしている。


1、2度、あっという間もなく折れてしまったり、完璧に思うようにはいかないみたいだったが、慌てず騒がず根気よく作成していく。


出来上がると、此方側にそっと回して正面から見せてくれた。

                   
タラQの C-3PO的 ブログ-辻口パティスリー





















忍者たちと「誰が注文したのかな」、「なんの記念かな」、「ずっとガラスの箱に入れて飾っておけるね」、下世話だと思いながらも「・・・いくらくらいするのかな」などと勝手にこれを大事に持って帰る人のことを想像した。



ずっと立ちっぱなしで疲れて、何より美味しそうなものを見てしまったので、ティールームを覗くとそれは辻口シェフのお店だった。


辻口さんは石川の和菓子屋さんがご実家だっけ。


小さい頃、友達の家で「おうちではこういうものは食べられないでしょうから」と出された洋菓子に目覚めたのが、辻口流ニューウェーブ?の始まりだった、らしい(なぜかピロコ=母 が詳しく語る)。



自由が丘などのお店の焼き菓子、ショコラは何度か頂いたが、ケーキは初めてなので、皆で色々注文する。



食べ物の写真を撮るのは初めてで、下手で残念だが、和と洋がマッチして上品ながら個性的な味でどれも大変美味しかった。


軍曹はあれだけ絢爛豪華なデコレーションを見て喜んでたのに地味にシュークリームを2個、忍者は金沢に来て「自由が丘ロール」を食べていたが・・・


タラQの C-3PO的 ブログ-辻口ケーキ









ずっとガラスにへばりついていた軍曹へのご褒美か、ウェイターさんがマカロンをいくつも持ってきてくれた。


ケーキも素晴らしかったが、紅茶も、加賀のお茶とレモンをブレンドしてあったり、クリエイティブで香りのよい美味しいハーブティーが揃っていた。



美術館で絵を見ると割引してくれて(知らなかったが、図録を購入して持っていたら向こうからちゃんと声をかけてくれる)、地元の素材を使った限定sweetsも色々あって大変お買い得でございますので美術館にお立ち寄りの際にはぜひ。


ステキなスタッフしかいなくて、辻口恐るべし、と思いました。


かなりな時間を費やし、お陰で能楽美術館には行けなかったが、楽しい思い出です。

夏休み、また金沢に行った。


今回は自転車で市内や港まで走ったりして楽しかった。


成熟した文化の跡が沢山あって、まだ全然廻り切れてないけれど。



県立美術館にホノルルからかなり大きな「北斎展」が来ていたので(後で知ったところ実は来年東京にも来るのだったが)、見に行った。


富嶽三十六景の「沖浪裏」、ドビュッシー交響詩「海」はこの絵からインスピレーションを得たので、初版の楽譜の表紙に使ったとか。


「游亀」は亀を写実的ながら優雅に描いたもので、蓑亀という「藻」が甲羅に共棲しているもので、長いほど長寿の象徴とされるそうだ。

水面の波紋が科学的に描かれていることで、より趣きがある。


タラQの C-3PO的 ブログ-游亀
















「諸国名橋奇覧」の亀戸天神の橋が急勾配すぎたり、「両国橋夕陽見」に目を奪われたり、橋はいろいろな事柄を想起させていいなと思う。


此方と向こう岸では風景が一変することも多いし、橋の上と橋の下=河原があり、叩いても渡らない人あり、橋のない川もある。


今回の北斎で、「どれかひとつ買ってあげる」と言われたら「両国橋夕陽見」をいただきたい。

是非いただきたいです。



能の「砧」「融」に題材を得た風雅な画や「諸国滝廻り」もあり、「百人一首 乳母かゑとき」には定家、伊勢、山部赤人、深養父など。


ここでも業平のが、龍田川の真ん中に橋があって庶民たちの表情も良い。



何故、太鼓橋ってこんなに円いのだろう?

そんな必要あるのか急に疑問になった。



「シリーズもの全点買ってあげる」と言われたら、「乳母か絵説き」がいい。

切に全部買ってほしい。

あ~買って欲しい。

ゆっくりゆっくり眺めたい。



・・・帰ったら、久しぶりに太田記念美術館にでも行こう。

と思った。