早朝の9時。平手は自分がかつて住んでいた施設を訪れた。早朝人混みに溢れた電車でやや疲れを感じてしまっていたが、ふうと息を吐いて足を進めた。小林由依から借りたギターを背負って。
「ここにくるのも久しぶりだなあ。もう4年はきてないもんね……」
ここに預けられ、出て行く時までの記憶が平手の脳内を駆け巡る。自分はどんな子だったろうか。ここに戻ってきてもよかったのだろうか。様々な疑念が足取りを重くし、平手は中々前に進めずにいた。
「友梨奈ちゃん?」
背後から自分の名前を呼ばれる。平手にとっては懐かしい声。あの時と変わらない優しい声。ゆっくりと振り返ると、育ての親がそこにいた。
「友香さん」
「やっぱり、友梨奈ちゃん! 元気にしてた?」
女性は駆け寄ると平手の手を掴み、感極まったように上下に振る。目は少し潤んでいた。この人物は菅井友香。児童施設の院長だ。
「げ、元気でしたよ。そ、それより痛いです」
「もー……! なんで連絡くれなかったの! みんな会いたがってたんだから!」
「ご、ごめんなさい」
「ううん! 今はいいの! せっかくきたんだから、はやくおいで!」
腕を引っ張られるまま、平手は施設の中へと連行された。
応接室に案内され、平手は椅子に腰掛ける。自分が客としてここに入ることになるとは平手自身思わなかった。
少しの間待っていると、ドアが開き、菅井が入ってきた。
「おまたせー。友梨奈ちゃんに会いたいって人連れてきたよ?」
「私に? 誰ですか?」
「友梨奈ちゃんも知ってる人だよー」
「え、ま、まさか」
ドアの向こうからドタドタと走る音が聞こえる。段々とこちらに近づいてくる。平手は嫌な予感が的中してしまったのだとため息をつこうとした瞬間、足音の正体が姿を見せた。
「友梨奈ー!! 久しぶりー!!」
「り、理佐ぁ。は、離して。ギブギブ」
思いっきり抱きつかれ、平手はあまりの力に息が止まりそうになった。そんなことを気にすることもなく、理佐は平手を抱きしめつづける。
「理佐? 苦しがってるから離してあげて」
菅井の言葉でようやく理佐は手を緩める。解放された平手は呼吸を整えた。
「ごめん、ごめん。久しぶりに会えたから」
「もう……。てか理佐ここで働いてるんだ……」
「そーだよ。結局ねー」
「あんなにここを出てくって言ってたのにね」
平手が過去に理佐が言っていたこととは真逆のことが起きている。人生とはわからないものだなあと平手は目の前で笑顔でこちらを見てくる理佐を見て思った。
「そういえば、なんで連絡くれなかったの? みんな待ってたんだよ?」
「あー、うん。忘れてて」
濁すように平手は目を逸らす。忘れてたわけではない。今まで感じてきた憤りを伝えようにも、何をどう伝えればいいか分からなかった。平手は言い知れぬもやもやを隠すように「忘れてた」という言葉で誤魔化した。
「薄情だなあ! あんなに遊んであげたのに!」
「理佐がしつこく絡んできてただけでしょ!」
「そんなことないし! 構って欲しそうにしてたし!」
「してない!」
「してた!」
「ちょっと、二人とも。落ち着きなさい」
いたちごっこを始めた二人を菅井は静止する。はぁ、と息を吐いて、菅井は平手に視線を向けた。
「友梨奈ちゃん。改めて、おかえり」
「……はい。ただいまです」
何年ぶりにおかえりという言葉を聞いたのだろうか。嬉しさで何かが溢れそうになるのを抑えて、精一杯の笑顔でただいまを平手は返した。
そこから数時間。さまざまな話をした。大学に行ってからのこと。出会った友達のこと。
久々の再会で、懐かしい話で盛り上がる中、理佐がそれまでの流れを変えるように切り出す。菅井と理佐の視線同時に向き、平手はやや濁すように「あー」と曖昧な声を出した。
「実はさ。ちび達が私の歌が好きって言ってたじゃん? だから聴かせてあげようかなと思って。ほら、しばらく前に約束したじゃん?」
これが最後になる。そのことは伏せながらなんとか伝えようとする。本当のことは言わず、嘘も言わず。なんとか頭で必死に言葉を繋ぎながら、ゆっくりと発していく。
「あぁ、それいいじゃん! きっとあの子たちも喜ぶよ! ね、菅井さん!」
「うん! 友梨奈ちゃんも成長したね〜! まさかそんなことが聞けるとは思わなかったよ!」
「失礼だなあ、なんか」
笑顔で言っているのとは裏腹に、自分は問題児と言う認識は変わっていない事に、平手はやや苦笑いを浮かべた。
「なら、学校まで向かいに言ったら? サプライズで! 今日は早く終わるらしいから、今行ったらちょうどいいよ」
「久々だな。ちゃんと覚えてるのかな」
「何言ってんの」と言いたげに菅井が微笑む。
「覚えてるよ。ずっと友梨奈ちゃんのことばっか話してるんだから」
「ふふ。なんか嬉しいな」
「ほら、いつまでも話してると帰って来ちゃうよ? サプライズにならないよ?」
理佐に肩を揺すられる。立てという合図のようで、平手は立ち上がった。
「行ってきます」
平手はふざけて敬礼ポーズをとった。
「行ってらっしゃい」
理佐や菅井もそれに合わせて敬礼で返した。
「寄り道はしちゃダメだよ?」
菅井も同じノリで返してくれるものの、台詞はまるで子供への注意だ。
平手は、持ってきた荷物をそのままに、施設を出た。
少し歩った先から、小学生たちが下校しているのが見えてくる。菅井が言った通り、早めに学校は終えたようだ。平手は、施設へ向かう途中の道で、待ち伏せすることにした。
「どんな反応するかなあ……あ、きた。天ー! ひかるー!」
並んで話しながらくる女子小学生二人。身長差があり、まるで姉妹のようだ。平手の声に反応して、平手の方を向く。手を振る平手をみて、数秒固まったような顔をした二人は、途端に嬉しそうな顔を浮かべ、平手に近づいてきた。
「友梨奈お姉ちゃん! いつ帰ってきたの!?」
「朝だよ。にしても、天、大きくなったねえ!」
思わず平手は天の頭を撫でる。長い黒髪のポニーテールが左右に揺れる。
「友梨奈お姉ちゃん。私はー?」
「ひかるはー……。縮んだ?」
「1cm伸びたもん!」
冗談のつもりで言ったものの、気に食わなかったひかるは強めに否定した。そんなひかるの扱いには慣れたように、平手は天と同じようにひかるを撫でた。
「じょーだん。本当に大きくなったね、二人とも」
久しぶりに会ったからだろう。何かを話し始めようと、「あのね!」と二人の声が重なった。
「私が先!」
その重なりが気に食わなかったのか、天がひかるを睨みつける。負けじとひかるも、それに対向した。
「私の方が先だし!」
「はーいはい。喧嘩しないの。あとでゆっくり聞くから、帰ろ? 友香先生たちがまってるよ?」
菅井の名前を出せば、二人とも、パッと言い合いをやめた。この二人は、四年ほどこの施設にいる。となれば、菅井がただの優しいだけの人ではないことはわかるだろう、と平手は過去に菅井を怒らせたことを思い出し、苦笑いを浮かべた。
よし、施設まで戻ろうと振り返った時に、平手は「あ、」と声を出す。忘れていたもう一人の存在が頭に浮かんだからだ。二人の方を振り返った。
「ねえ。そういえば、夏鈴は?」
その名前を出せば、分かりやすく二人の顔は変わった。天に至っては目を逸らしている。これは何かあったな、とすぐに平手は気づいた。
「……喧嘩したでしょ?」
「だって夏鈴が先に!」
「天。何があったかをまず教えて?」
怒られる。とでも思ったのだろうか。張り上げるように何かを言う天をなだめるために、平手は優しく語りかける。しかし、天はまた目をそらして黙りこくってしまった。すると、そんな天の代わりに、ひかるが口を開いた。
「夏鈴が、イライラしてたみたいで、天がちょっかい出しまくってたら、怒っちゃって……」
「なんだ。じゃあ天が悪いじゃん」
「な! 違うもん! 話しかけただけだもん!」
「でも、友梨奈お姉ちゃん。いつもなら、夏鈴が流して終わりなのに、なんかあの時の夏鈴は本気で怒ったというか。天も別に変なこと言ってなかったんだよ? 今回はホントだよ」
ひかるの言っていることはもっともだった。不機嫌な夏鈴。想像しただけで平手は少し違和感を覚えた。
「それで? 夏鈴はどこ?」
「わかんない。どっかいっちゃった」
「もう。じゃ、二人は先に帰ってて。私探してくるから」
呆れた。そう言いたげに平手は嘆声をもらした。そんな態度を快く思わなかった天はゴネはじめた。
「えー、一緒に帰ろうよ」
「夏鈴見つけないと。あ、そうだ。あとで歌ってあげるから」
口を尖らせていた天が、たった一言で、音が出そうなほどに笑顔を見せた。
「え、ほんと!? 約束だよ!?」
「うん。そのためにきたんだから。ほら、ひかる。連れてって」
「はーい。天。いこー」
身長が天の方が圧倒的に高いから、姉妹に見られがちな二人。だが精神面で言えば、ひかるの方が大人だ。やれやれ。と声を漏らし、二人の背中を見送り、二人とは逆方向に歩き出した。
下校途中の小学生。寄り道していた駄菓子屋。嫌なことがあったら、一人でブランコをこいでた公園。ぼんやり眺めている光景が、平手の中で、十年以上前の記憶が次々と蘇らせる。あんなに嫌がってた時期を今こうして思い返してみると、平手はそこまで不快には思えなかった。ここに帰ってくるまでは、あんなに嫌悪してたはずなのに。なぜか自然と受け入れられていた。
「もうここにも来れないんだもんね……。ってそんなことより夏鈴のところに行かないと」
天たちと別れてから、迷わずに平手は歩き続けていた。なんとなく、なんとなくだが、夏鈴がいる場所がわかる気がしてたからだ。
平手は、学校の裏にある小さな山を登り、ある地点を訪れた。近くのベンチをみると、少女が一人座っている。やっぱりか、と心の中で呟いて、近づいていく。
「なにか悩み事ですか? お嬢さん」
「え、友梨奈お姉ちゃん……」
なんでここに? いた帰ってきたの? そう言いたいのだろう。予期せぬ人物に声をかけられ、夏鈴は目をパチクリとさせている。
「ふふ。ちょっと帰ってきててね。さっき天やひかるに会って、夏鈴がいなかったから。探しにきたんだ」
「……なんでここってわかったの?」
「辛いことがあった時はここにくる。私が前に教えたんだもん。なんとなくわかってたよ」
驚いていた夏鈴の顔は徐々に、いつも通りの無表情の顔に戻っていく。どうやら納得したようだった。
「夏鈴。ぎゅってしていい?」
「いや」
「相変わらず厳しいなあ」
「理佐さんも最近、同じこと言ってくる」
「私はさっき突然やられたよ。死ぬかと思った」
ふふっと夏鈴が微笑むと、それに釣られて平手も笑った。
「……何も聞かないの?」
「ん? あぁ。夏鈴が話したくなったらでいいよ。何か嫌なことあったんでしょ? それで機嫌が悪かった時に、しつこくちょっかい出してきた天に当たって、ここにきたってわけだ」
声は出さず、夏鈴は頷いた。
「……お姉ちゃん。なんで私にはお母さんがいないの?」
少しの沈黙。ボソッと呟いた言葉に、平手の気持ちが揺れる。それと同時に、彼女が今何で悩んでいたのか、理解した。
「お母さんだけじゃない。お父さんもいない。本当のお姉ちゃんもいない。皆にはいるのに」
自分達は普通の家庭とは違う。血のつながりがある家族がいない。だからこそ、周りと知らず知らずのうちに溝が生まれてしまうのも無理はなかった。
「夏鈴が何で悩んでるか、なんとなく分かる。確かに私たちは普通の環境とは違うかもしれない。運が良いとは言えないかもね」
「ーーけど最悪ってほどでもないんじゃない?」
「え?」
この前まで生きる希望なさげに生きていた自分がどのツラ下げてそんなことを言っているんだと思ったが、夏鈴にはまだまだ先がある。平手は内心何かを言う言う資格はないと思いつつも、なんとか言葉を投げた。
「お母さんみたいな菅井さん。姉妹みたいな理佐やひかる。天。一人でいるよりかは幸せでしょ?」
夏鈴は照れ臭そうに目を逸らしたが、問いかけに頷いた。
「ーー自分を受け入れてあげて」
「自分を?」
平手は夏鈴の頭に手を置いて、優しく撫でる。そして、つい先日言われたセリフをそのまま夏鈴に伝えた。きっとそれが夏鈴のためになると思ったからだ。
「最近まで、生きるのってめんどくさいとか早く死にたいなんて思ってた。そうなったのは普通の環境とは違うせいだって。そんな八つ当たりもしたこともあった」
「ーーけど」と平手は一呼吸間を空けて続けた。
「誰かのせいにしても、自分にないものばかり数えても、夏鈴が幸せになることはないんだよ」
過去の自分と今の夏鈴が重なり合う。だからこそ、自分のようになってはいけない。そんな戒めを込めた言葉が夏鈴の胸を締め付けた。
「今の自分を受け入れて、他の人と違うことを悲しむ必要なんかないんだよ。夏鈴には本当の血のつながりがなくても、大切な人達がちゃんといるんだから」
この言葉を言い終える前に、夏鈴は泣くのを我慢するように、口元をぎゅっと締めていた。何度も鼻をすすり、なんとか泣くのを抑えようとしていた。
「ほーら。泣かないの。みんな待ってるから帰ろ?」
「……お姉ちゃんはなんで死にたいって思わなくなったのっ?」
涙を拭った後に見つめる目が赤くなっている。平手は、そんな夏鈴が愛おしいのと、言っても信じられないだろうなと思い、微笑んだ
「お家にきた、ちょっと馬鹿そうな天使のおかげかな」
夏鈴の手を握り、平手はきた道を引き返し、始めた。遅くなってしまったことを、どう言い訳したものかと考えながら。