そういえば、その昔、ビートルズの「アビーロード」を買った時も、サイモンとガーファンクルの 「明日に架ける橋」を買ったときも、枯れ葉が舞い落ちるような秋から冬にかけた季節だったなあ、と突然想い出してしまったのは、ある夜、アマゾンを見ていたら、「くるり」の4曲入り最新CDシングルが出ていることに気付いたときで、そのタイトルは「さよならリグレット」というのだが、リグレットという言葉はなかなか懐かしいアドレセンスな響きを持っているし、日本語で「後悔」と訳すとさらにこころが昔へと沈んでいく気がする。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2749157
他のサイトに飛んで試聴してみると、タイトル曲は「天然コケッコー」の主題歌「言葉はさんかくこころは四角」に似た感じで、何だか明るい。タイトルとは似ても似つかないが、この曲は万人受けするだろうと思いながら、2曲目の「京都の大学生」 を聴いてみた、が、これが今までのくるりのイメージを60年代の昔に逆回転させたような、実に不思議に格調高い曲でなかなか良い。ウィーンに住んで、京都の学生時代を想い出していたら出来た曲という風情がどこかしら、ある。
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他のサイトに飛んで試聴してみると、タイトル曲は「天然コケッコー」の主題歌「言葉はさんかくこころは四角」に似た感じで、何だか明るい。タイトルとは似ても似つかないが、この曲は万人受けするだろうと思いながら、2曲目の「京都の大学生」 を聴いてみた、が、これが今までのくるりのイメージを60年代の昔に逆回転させたような、実に不思議に格調高い曲でなかなか良い。ウィーンに住んで、京都の学生時代を想い出していたら出来た曲という風情がどこかしら、ある。
バックはジャズ・コンボ風であるが、しかし、黒人のそれではなく、フランスの大女優ジャンヌ・モローの60年代のレコードの雰囲気に似ていて、歌詞も含めてどこかシャンソン風なのだ。60年代シャンソン好きの私としては、うれしいことこの上なしだが、それにしても、さすがは岸田繁、懐が深い。
歌詞は、四条烏丸西入る鉾町生まれのお嬢さんが、フランスに留学することになって、北区に住む役所勤めの原チャでやってくる恋人と、左京区の大学近くの喫茶店で逢い、子供っぽくてフランス旅行書を片手にした彼と、結局は別れることになって、独りで206番のバスに乗って帰る、というそれだけのストーリーだが、これが全編「京都弁」で歌われて、何とも言えない切ない雰囲気を醸し出す。誰しも思い出の隅に引っかかっているような苦しさ、というものがあると思うが、まさにそれが女性の側から少し残酷に、そして淡々と展開されていくところが、この曲の魅力か。
歌詞は、四条烏丸西入る鉾町生まれのお嬢さんが、フランスに留学することになって、北区に住む役所勤めの原チャでやってくる恋人と、左京区の大学近くの喫茶店で逢い、子供っぽくてフランス旅行書を片手にした彼と、結局は別れることになって、独りで206番のバスに乗って帰る、というそれだけのストーリーだが、これが全編「京都弁」で歌われて、何とも言えない切ない雰囲気を醸し出す。誰しも思い出の隅に引っかかっているような苦しさ、というものがあると思うが、まさにそれが女性の側から少し残酷に、そして淡々と展開されていくところが、この曲の魅力か。
京大の近く、今出川や百万遍や東大路あたりの冬枯れの道のイメージが、古い本のページをめくるように、くるり、くるり、とサーカスの回転木馬のように表れるのである。かのマルクス経済学者にして歌人の河上肇先生が戦中、並んでパンを購入されたのはこのあたりにある「進々堂」である。大学近くの喫茶店とは、おそらくここのことだろう。
そういえば我が友が中学生時代に、最初のデートでアヌーク・エーメの映画を観たあとに三条から延々と歩いた道もこのあたりだったのであるが、これは年令が若過ぎて感情移入出来ず、そっと隅に置いておくことにしよう。
このシングルの最大のヤマ場は、4曲目のライヴ・ヴァージョン「ばらの花」である。この曲はくるりの最大の名曲のひとつで、矢野顕子などともコラボしているのだが、今回はゲストで登場した「小田和正」がボーカルを担当しているのだから、どこからどう聴いてもこれはオフコースの曲に聞こえてくるのである。あのすっかり馴染んだはずの「ばらの花」が他人行儀に聞こえてくるのだから、やはり小田和正はタダ者ではない。
このシングルの最大のヤマ場は、4曲目のライヴ・ヴァージョン「ばらの花」である。この曲はくるりの最大の名曲のひとつで、矢野顕子などともコラボしているのだが、今回はゲストで登場した「小田和正」がボーカルを担当しているのだから、どこからどう聴いてもこれはオフコースの曲に聞こえてくるのである。あのすっかり馴染んだはずの「ばらの花」が他人行儀に聞こえてくるのだから、やはり小田和正はタダ者ではない。
ソースは京都音楽博覧会2007 のライヴだが、2番の歌詞あたりで岸田繁が出てくると、二人はすっかりデュエットしてしまっていて、悪くはないがやはり違和感は100%に近い。オマケに岸田のボーカルのバックで小田が職人芸的なオブリガートをつけて盛り上げているのであるから、ゾクッとしてしまうのは私だけでは無いだろう。
最初聴いた時は思わずドキッとして、買い間違えたのかな?と一瞬思ったがそんなはずもなく、「くるり」と「小田和正」の接点はどこにあるのかと真面目に考えてみたら、実は小田の抒情は常に女形的で作りすぎの感があるのだが、そういう折り目の付いたロマンチシズムを必死になって外しにかっているのがあの「くるり」だったんだな、と思った。しかし、そうか、実は表裏一体の、太宰と三島みたいな関係だったのか・・・自らのパラドックスであるから自我はその葛藤に耐えられず・・・等と深読みし過ぎないように注意したい。
しかし、岸田繁のポップセンスは非常にオリジナリティーに富んで、しかも田舎くさくなく、といっても都会風でもなく、強いて言えば、遷都後の明治期の京都のような感じである。
それにしても、私のように気まぐれな往年リスナーの満足を興味を引出して、めずらしくシングルを買わせるなど、若いのに気が利きすぎている。
最初聴いた時は思わずドキッとして、買い間違えたのかな?と一瞬思ったがそんなはずもなく、「くるり」と「小田和正」の接点はどこにあるのかと真面目に考えてみたら、実は小田の抒情は常に女形的で作りすぎの感があるのだが、そういう折り目の付いたロマンチシズムを必死になって外しにかっているのがあの「くるり」だったんだな、と思った。しかし、そうか、実は表裏一体の、太宰と三島みたいな関係だったのか・・・自らのパラドックスであるから自我はその葛藤に耐えられず・・・等と深読みし過ぎないように注意したい。
しかし、岸田繁のポップセンスは非常にオリジナリティーに富んで、しかも田舎くさくなく、といっても都会風でもなく、強いて言えば、遷都後の明治期の京都のような感じである。
それにしても、私のように気まぐれな往年リスナーの満足を興味を引出して、めずらしくシングルを買わせるなど、若いのに気が利きすぎている。