ふと目についた道を歩き始めてみた。


その道は地平線の中にただ一本だけ引かれている。


だからといって、その道の先が見えるわけではない。


足下と、今まで歩いて来た道筋だけ確認できる。


確かなことは全てが朧げだということ。




僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る


高村光太郎の「道程」の一節だ。





いま、私は将来という道を歩き始めている。


もちろん、生まれたその瞬間から誰しもが歩き始める道だ。


だが、自分がその道を歩いていると認識するタイミングは人それぞれだ。


或る人によっては12歳、15歳、18歳なのかもしれない。


多くの人は20歳~23歳の時期が当てはまる。



世間ではその時期を就活と呼ぶ。



私は22歳にしてその道筋を認識した。


後ろを振り返る作業もした。


だが朧げだ。



余りにも曲がりくねっている。


余りにも客観性を伴っていない。




将来という名の道の、ゴールはどこなのだろうか。


ゴール=死 なのだろうか。



死は安らぎと同じだ。


壮絶な死もあるが、私は安らぎな死がいい。



自分自身でその道を開拓するのか、それともちゃんと引かれている道を見つけるのか。


どちらにしても、途中で何度も休み曲がりくねることだろう。


しかし、最後は安らぎの中にいたい。






まるで1人で帰る酔っぱらいの道のようだ。


酔っぱらいは不確かな記憶と朧げな視線を基に家に帰る。


多くの人に支えられ、最後は家(安らぎ)に着く。


だとしたら、その道はいつも歩いている道だ。


そう、本当はいつも歩いている道の中に答えはある。


後は、それに気付き、自分の足で歩けるかどうかなのだ。




転びそうになったときに、常に支えてくれる人が隣にいるのが、私の強みだ。




では。


特別なことがあった日の翌朝は、世界がぼやけて見える。
目をこすると幾分かましになる。

しかし、それは夢からの目覚めだ。
夢は楽しい。
現実は冷たい。


休日になると、なにも考えようとしない。
思い出すのは好きな人の影か、脳裏にあるカンボジアの風景とそこに佇む自分の影だ。

あれからカンボジアは変わったのか。

来月に行く”カンボジア”は、一昨年の”カンボジア”とは違うのか。

違いは、恐らくない。

経済的な発展によって、街の景色は変わっているだろう。
農村に向かう道は舗装さているかもしれない。
朝のバイキングに並ぶパンは種類が増えているかも。

しかし、それほど変わってはいない。
たった2年だ。そこまで成長のスピードは早くない。
早いことが全て良いわけではない。

変わったのは、その景色を見ている自分だ。

1つ1つの立ち振る舞いまで予行演習をしている。

気にしているのは、私がなにを思うかよりメンバーが何を思うかだ。

そこにあるのが、メンバーにとって真実であると信じたい。


「答えを探す旅ではない。」


答えは自ずとやってくる。

そのための準備だ。


しかし、私も求めている。




準備の先にある答えを。




では。








なにもない日常に時々変化が訪れることがある。
それは突然やってきて、辺り一面は嵐になるのだが、以外と中心は落ち着いている。
そう、その中心に立っている人は、落ち着いて、遠くを、周りを、見ているのだ。


今朝、ある人物のBLOGを読んで、彼が村上春樹のファンであることが一発で分かった。

彼の文体は非常に読みやすかった。

ファンでなくても彼が村上春樹に影響を受けていることは確信している。

なぜなら、彼の文章が私にとって身近な空気を作り出しているから。



長い文章を書きたくなるのは、どういう時だろうか。
私は、村上春樹に出会った時にその衝動に駆られる。

村上春樹に出会う。勿論、顔と顔を会わすわけでない。

(本当に出会えたら私は、長い文章どころか長い雄叫びをあげるだろう)

しかし、私は彼とまるで会ったような感覚に自分の部屋の中で浸れる。

いとも簡単に。

彼が書いた作品に目を通して、目をつぶるだけで会える。

今日は彼の作品からインスパイアを受けた文章だった。




忘れもしないのは高校2年生のときである。

2年前に読んだ「海辺のカフカ」以来の村上春樹だった。

『ノルウェイの森』

私は偶然なのか、この本が書かれた1980年代のオムニバスのアルバムにハマっていた。

1980年代の曲は、音楽の世界の境界線だと思っている。

1970年代に予兆が見えた音楽の革命は1980年に紆余曲折している。

1990年にそれは落ち着きを見せている。(革命が成功したかは分からない)

そんな音楽とともに、『ノルウェイの森』を読んだ。

陸上部での練習以外は、音楽を聴いて読書するという余りにも健全で
思春期の高校2年生には不健康な生活だった。



今夏はどうだろうか。

私は、自分自身が自分自身に影響を与える夏になると思っている。

自分で作り上げた絵の材料を、自分でキャンパスに描いていく。

「自分の可能性にかける」なんて科白を使うと、少しはましになる。



科白


多くの科白を生み出す作家は、誰かに影響を与えることを考えただろうか。
誰かの人生に足を踏み入れることを考えただろうか。


いま少しだけの嵐が、これからどんどん大きくなる。
周りを飲み込む嵐は、過ぎ去った後を考えることなんてあるのだろうか。


嵐の中心は落ち着いている。

落ち着いて嵐を見て、嵐の行く末を見守っている。


「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

魯迅の科白だ。


嵐は多くの人を巻き込み進んでいく。

嵐が通った後に、道が出来ているなら、私は嵐をつくりたい。




では。




どうもお久しぶりです。

と言っても、見ている人は1人ぐらいでしょう。笑


さて、久しぶりになにを書くかというと、愚痴です。笑

愚痴というか、個人的な想いです。


ゴールの先を見よう。

題名にもある通りです。
ゴールの先ってなんでしょうか。

すぐに想像して浮かぶのは、マラソンでしょうか。
マラソン。
つらいですね。

僕は陸上部の出身なので、その辛さがよく分かります。
「ここで止めれば、ここで歩いちゃえば、一気に楽になるぞ!」
悪魔の呟きでもなく、本当の自分がそう足に呼びかけます。

けれども、途中で止めたのと、最後まで走り終わったのとじゃ、違います。

達成感とか、その喜びとか、色々な部分で違いはハッキリします。

なんにしても、ゴールがもちろん目標です。
ゴール=目標ですから。

そして、ゴールをし終えた後がやっぱり醍醐味だと思います。

全力で走り終えてゴールした後の先には、今まで自分が経験したことがない気持ちに触れることが出来ます。
感情が高ぶるでしょう。
なによりも、新しい自分に会えます。

ゴールする前とした後の自分は、絶対に違います。

ゴールの先になにがあるのか。

それはある意味、賭けです。
不確かなものに、自分の大切な時間を投資するんです。

ただただ、ゴールの先に会ったことのない自分がいると信じて。



いま、優志ではようやく混乱が起きています。
これまで目を背けていたものに目を向け、見てしまったからには、考えなくちゃいけなくて、でも答えがないから、実態が分からないから、しんどくて。

仲間と喧嘩もして、これを解決したあとに、先に一体なにがあるのか分からない。

だけど、それに投資してみようと言いたい。

僕はこの活動は、決して裏切らないと信じてる。

いや、この世の中にあるものを全力でやりきった後に、裏切られることってあるのか。
例え失敗しても、本気でやりきった後は、晴れやかな気持ちでいる自分がいると思う。

楽して得られたモノなんて、それが成功だとしてもつまらない。
苦労して、苦労して、とことん苦労しよう。


私は、浪人のときは本当に辛かったし、結果は失敗したけれども、あの時に全力で取り組んだことで、いまの自分がいる。

浪人のときに比べれば、優志の活動なんて苦労なんてものはない。
あの孤独と自分の人生がかかった勝負をぎりぎりまでやるのはしんどかった。

絆で活動していたときも、人事で色々な人の悩みを聞いた。
「もう辞める!」と何度も聞いた。

たくさん喧嘩した。たくさんの人が泣いた。
色々な想いを絆に募らせた。

その中で残った人が育んだ想いと絆は今でも強い。




まだまだ始まったばかり。

改革とは痛みを伴うものだ。
10あったものを、1に戻して、そこからまた10にしようと言うんだから、みんなが終始笑顔なはずがない。

そんなのはもう1年前から覚悟していた。

たかが4ヶ月やってみてすぐに失敗だとか、もう無理だとか、どんだけ甘ったれなんだ。笑

辞めるなら、辞めるで、自分のケツぐらい自分で拭いて欲しい。

私は、前に進むだけだ。

どんなことがあっても前に進む。
それがこの体制を作った自分の責任だ。



では。