先程、恙無く一斉アチューメントを終えましたのでご報告いたします
ここで一旦一斉アチューメント開始のお知らせを更新してから、葉桜の並木参道を進み、茅部神社に到着 盛りを過ぎてきた葉桜は、所々虫食いがあったり、色が深い緑から黄色へと変化していました。この風景もまた、秋を感じますね
駐車場から眺める蒜山三山は、昨日よりさらに神々しい 遠くに大山も観え、嘗て過去世が観た風景を今も観る事が出来たのに、少しだけ胸が震えました。
それは新たな始まりの風景。苦難を乗り越えた先、本来在るべき立場と姿に戻れた始まり
今の私の記憶ではないのですが、とても懐かしく感じました
さて、そんな懐かしさは置いといて、いつものように形代を取り出して名前を読み上げ、フーッと息を吹きかけると、墨色の名前たちが蜃気楼の様に揺らいで立ち上がり、フワリと風に乗って地面に降り立ちます。降り立った瞬間、サヌカイトの石玲を打ち鳴らした様な澄み切った音が響き渡りました
と、天照大神の声がどこからともなく聞こえます
『ここだ、ここから伝えておる。』
そう聴こえて下を向くと、
『神は万物に宿る。故に万物を操れる。たかが虫と侮るな、そこにも神は宿り、神と繋がっている。こうしてこの世の全てから神は人を視ているのだから。』
なるほど〜と思いつつも、そう考えると叩いて潰してしまった蚊に申し訳ないなと思いましたが、『常に宿っているのではなく、必要な時に宿るのだ』と、訂正をされました。
それには私だけでなく名前たちも安心した様で、ほっとため息をついたりしていました。もし常に虫に神様が宿っていたら、毎年夏にどれだけ蚊取り線香などで退治しちゃったかと思うと恐ろしくなります きっと、必要な時に虫は神を宿して、神の意のままに動くのでしょう。
『くだらぬ話をした。先へ進め。』
パタパタと羽を羽ばたかせて、ウスキツバメエダシャクは先に進むようにと促します。名前たちはウスキツバメエダシャクに頭を下げたり、手を振ったりして参道を進みました
参道は産道、その先に開ける空間は例えるなら子宮。命を宿し、育むその場所は暖かく清らかです 人の子宮も母親の健康状態によって左右され、食生活や日々肌に触れる物などに気をつけている女性の子宮は健康的ですが、そうではない女性の子宮はそうではない状態です。位後育む場所だからこそ、暖かく清らかな状態がより良いのでしょう
(人は生まれてもこうして神社に参拝し、気枯れを祓い清めて補っていただけるように、より清浄な空間を求めるもの。だからこそ、こんなに清らかで力強い場所は聖地なんだわ。)
生まれ出ても神の子宮に抱かれ、再び愛と気力を取り戻す、私たちは誰しもが神々から愛され大切にされているのだと感じました 名前たちも同じ様に感じたのか、墨色の名前が朱鷺色に輝き、母の愛を存分に受け取って満たされているという風です それは絶対的な安心感になるのか、皆胸を張って堂々と誇らしげに歩いていました
(あれはまるで人魂みたいだった。エアコンの風に流されて、スーッて消えちゃったけど美しかった。あの輝きに似ている。)
名前たちの魂本体は白く輝いているのですが、その周囲をそれぞれ違う色が縁取って揺らいでいました。それは肉体ならオーラカラーでしょう どの色が優っていて、どの色が劣っているとかではなく、それぞれの個性の色であり、持っている才能の色です
『どれもほのかで美しいな。』
と、今度は本殿から天照大神の声が聴こえてきました 本殿にサヌカイトの石玲の音が高く低く響き渡ったかと思うと、目映い光が出現し、それは天照大神の姿となりました
『仄暗い中だからこそ、その魂の輝きは視える。明るく照らされた太陽の元では、誰しもが皆同じに視える。不思議なもので、人の本質といのは明るい日の元よりも、薄暗い方がよく視える。言い換えれば、人は平穏な時には然程差はないが、少しだけ窮地に陥るとその本性が視えてくる。目映い光は闇を吹き消してしまうからな、視えなくなるのであろう。』
そう仰った後、名前たち一人一人と会話をしながら、ここは直した方が良い、ここはもっと褒めた方が良いなど、事前に虫などを通じて視ていた情報を元に助言をしておられました。その姿は教師の様でもあります。
『それぞれに良き所もあれば、そうでなき所もある。しかしそうでなき所も使い用だ。それを悪しきと押さえ付けたり、無理に隠そうとせずとも自覚して気をつけて置けば良い。そすうれば、気をつけて置いた方が良い事があり、物事が順調に進むと知れれば、人は自然とより良い結果になる方を選ぶ。そうでなき方を選ぶのは、まだそちらが得だと思うからだ。
時にそのそうでなき方がより自分に取って良いと勘違いをし、力任せに進める馬鹿者もおるが、そんな輩は放って置けば良い。いつか我が身がした事は我が身に返る。良くも悪くも全てが返る。だからそういう時は事の成り行きを静かに傍観しておればよい。ナンなら話の種にしても良いし、そこから自らはそうはすまいと教訓とするのも良い。反面教師だな。
怯える事も、臆病である事も悪い事ではない。だからこそ慎重になれるし、同じ過ちは繰り返さぬ。同じ過ちを繰り返す者は、時に陽気で前しか向かない者が多いな。先しか観ずに足元が疎かで、自らの周囲に対しての気遣いがない事もある。もちろん全ての者がそうではないが、物事にはそういう面があり、一見陽気で明るく人としてこうなりたいと思う者にすら欠点があり、その長所が行き過ぎれば足を引っ張るという事だ。
反対も然り。慎重で思い遣りがあるだけではなく、怯え過ぎて好機を逃し、怯え過ぎて人を惑わし遠ざける。自らの不安と恐怖に苛まれ、有りもしない妄想に囚われる。結局、自らを引っ張るのは自らという事だ。それも誰しもがある事なので、気を付けるがよい。
どちらが良いのでもどちらが悪いのでもない。人それぞれにその配分はあり、それがその人という人格なのだから、どれも良い。
素晴らしい魂を持っておる事、心根である事、それを誇りに思うといい。それが最も神が喜ぶ事だ。』
そう仰る天照大神のお顔は、先程の教師の顔ではなく母の顔でした とても大きく、とても優しい母の愛
微笑みながら天照大神は全ての名前たちをその胸に抱きしめます まるで愛おしい我が子を抱きしめて幸せを噛み締めているかの様に
(神の世界に知らない内に入らせていただいてたんだな。)
(ここの天照大神って、今までになく母性が強いのね。命を育み、優しく抱きしめて愛してくれる、安心感を与えてくださる姫神だわ。やはりそれは、清らかな水の豊かに湧き出る蒜山だからこそなのかしら?)
祀られる神の御名は一緒でも、感じる御神氣が違うのは多々ある事 天照大神は日本の最高神だからこそ、近寄り難くもあり、私にとっては系統の違う神なのでもっと疲れるかと思っていたのですが、温泉上がりの心地良い疲れしか感じませんでした
(心と魂の岩戸を開くって、神話の天之手力雄神みたいに強引にじゃなく、母性故に温めて愛で開かれるのね。愛されていると心から感じるなら、人は自然と心を開く。それは姫神にしか出来ない岩戸開きなんだわ。)
改めて、その神々によっての違いを感じ、はぁ〜っと感嘆のため息をもらしました
(せっかくなので他も色々巡ってみようと思ってたけど、もういいわ。すっごく大満足してるから、巡ってみたい聖地はまた今度でいいや。)
満たされると、あれもこれもという気持ちは静まります いつの間にか忙しさで自分の心を置き去りにし、寂しい思いをさせてしまっていた様だと反省
(本当に今欲しいものを知り、それで満たされるからこそそれ以上は要らなくなる。足るを知る者は富むってとこね。)
うんうんと頷き、天照大神に再びお礼を伝えるとお腹がなった。
(ははは、どんなに心と魂が満たされてもお腹は減るわ。)
さて、今度はお腹を満たしに行きましょうか そうすれば身体も満たされてさらに幸せになる事間違いなし 皆様も美味しい直会を食べてくださいね