私が、小学校五年生の時の教室に、
『一人は、皆のために、皆は一人のために』
という、標語が掲げられていた。
十歳の私は、その言葉に感動し、
人と人の繋がりに、、
希望を抱いた。
成人した後の私は、
多数決の名のもとに、
切り捨てられる一人が居ることを知った。
たとえその一人が、皆のために、
懸命に貢献した一人であっても。、
否、むしろ、皆のために、
懸命に貢献する一人こそ、
自ら、犠牲になろうとすることも。
皆は、賞賛しつつ、
それを受け取るのだろうか。
あえて、多数決の名のもとに、
一人の犠牲を黙認するのだろうか。
それでは、その標語は、
片翼だけしか、機能していない。
『皆は、一人のためには』、
どこに行ってしまったのだろう。
民主主義は、ヒューマニズムとともに、
歩まなければいけない。
ヒューマニズムを裏切ってはいけない。
、
、
利益に関する多数決は是でも、
犠牲に関する多数決は否であると思う。