様々な人が、居場所を求めて、そこに安らぎを求めます。
以前、リストカットをしたい衝動やパニック、解離が起きたときの対処法を主治医と話し合ったときに出たのが、アンカーという言葉です。
例えば、甲子園の決勝。
9回裏満塁、2アウト2ストライク3ボール(野球に詳しくないので間違っていたらすいません。つまり、自分が当てればチームは優勝、ダメだったら負ける、という場面です)のとき。
バッターはお守りを握り締めたりしますよね?
そこには、たくさんの意味があります。
「自分は今までたくさん練習をしてきたから大丈夫」
「ここまで仲間と共にやってこれたんだから大丈夫」
「みんながいるから大丈夫」
このようなたくさんの思いのヨリシロとなっているのが、お守りという物体です。
思いを形に変えて、自分の本来の居場所を探して安心して、焦りなどの負の感情を取り払う。
それができて、ボールを打てるような冷静な自分に戻れる。
このような心理はアンカー(anchor)と言います。
anchorとは、元はイカリ。船を止めるときのものです。
そこから、リレーの最終競技者、ラジオなどで最後にまとめる役の人、曲線を書くときの通過点などなど。
つまり、色々なものの重要な要の役目のことを意味します。
お守りに思いや自分の頑張りをよせて持っているのは、この心理を利用しています。
この心理を日常生活に取り入れて、リストカット衝動やパニック、解離などが起きたときに利用したらどうか。
というのが、主治医の提案でした。
「消えたい」「いなくなりたい」。
そんな感情が出てきたときにも、応用できると思ったのです。
野球選手が、練習してきた、仲間がいる。などの思い。
それを、今まで生きてきた中で大切にされた思い出や、頑張った出来事、自分はこういうことができたことがあるから、大丈夫だと、自分を取り戻すことを意識するのです。
早速実行してみました。
漠然としていましたが、自分が自分であることそれは罪ではないことをとにかく意識することを念頭に置くことに。
ですが、そこで気づいたのです。
自分の中に、お守りがないことに。
とてつもなく宙ぶらりんな自分がそこにいました。
リストカットなどの衝動が薄れる気配はなく、ひどいときにはその衝動が続くようになりました。
ですが変化があったということは、この療法に何かしら意味があったということ。
それを主治医と検証していって二人で出した結論は、いわゆる「心にキズを負っている」大多数の人に、元々アンカーが存在しないのではないかということ。
人間が生きる上で、自分の居場所を恋人に求めたり、職に求めたりしますが、やはりその居場所を作るにも、『元』が必要です。
お分かりの方もいらっしゃるかもしれませんが、最初に居場所の作り方を学ぶのは、やはり家族でしょう。
親に守られた記憶。
救われた記憶。
大切にされた記憶。
そのような経験が積み重なって、社会へ出て行く。
辛い出来事があっても、なんとかその最初の居場所を自身の基盤にして、頑張っていく。
ですが、その家族の基盤たるものがない人。
もしくは、家族として何ら問題はないように見える家庭でも、『見えない虐待』『悪意なき虐待』によって、家族として正常に機能していない場所で育った人。
そのような人間には、アンカーがなかった、あるいはあまりにも不確かなもので、ヨリドコロにもできない。
社会や学校で辛い経験をして、崩れる人と立ち上がれる人の差は、これに関係しているのではないか。
今まで、家族が機能していなければ(虐待が行われていたり、離婚後のケア不足や家庭内暴力など)精神的にも異常をきたす。という当たり前な構造に、このアンカー心理が食い込んでいるのかもしれないと実感した瞬間でした。
そして厄介なのは、リストカットを繰り返す人間や解離が起きる人間の大多数が、一見『普通』の家庭で育っていること。
自分は虐待もされていない。
特にひどい扱いもされていない。
過去に引っかかりはあるけど、そこまで重大なことはなかったのに、なぜ『消えたい』『切りたい』などと思うのか。
そもそも、アンカーというような『居場所』は、そんなに大切なもので、何者なのか。
本当にアンカーは必要なのか。
それについて、次回は書きたいと思います。