真崎明 監督ブログ

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私は幼い頃からスポーツが好きだったが、何をやるにしても下手くそだった。

幼稚園時代、「むすんでひらいて」が出来なかった。

むすんだら、なかなか開けず、ひらいたら、なかなか握れなかった。

音楽に合わせようとすると身体が硬直してロボットみたいになった。

居残りになって先生がマンツーマンで教えたが、卒園するまでまともには出来なかった。

小学生の頃、野球が好きで少年野球スポーツ少年団に入ったが、バウンドしたボールを取れずに思いっきり鼻にボールが直撃して激痛と共に鼻血が溢れ出た。

不幸にも、翌日の練習中にも同じことが起きてしまった。

その日から、ボールが怖くなって飛んでくるたびに腰が引けてしまうようになった。

補欠だったが監督が思い出になるだろうと勝っていた試合に、9回裏でライトを守らせてくれた。

ところが誰でも取れるような簡単なフライを二度も取りこぼしたために点数が続けて入りチームは敗北してしまった。

野球には全く良い思い出がない。

サッカースポーツ少年団に入ったこともあったが、私がボールを殆どまともに蹴れないのでコーチは私にボールを触らせないようにした。

私は、サッカーがとてもつまらないものに思えて半年で辞めてしまった。

宮下正道先生が担任だった時代は、通信簿で体育が、5評価中「2」しか取れなかったので、私のスポーツ音痴は筋金入りだったのである。(当時、男子で体育2の評価は滅多に出さないと先生に言われた)

球技に懲りた私は、中学生になったら空手か柔道をやりたいと思った。

テレビドラマの『闘え ドラゴン』(倉田保昭主演)や『柔道一直線(桜木健一主演)の影響だった。

しかし、空手は喧嘩に使うだろうし、柔道は耳が潰れてずんぐりむっくりになるだろうから絶対にダメだと父が猛反対した。

私は小学時代から親しかった友人たちが、皆剣道をやると言うので、仕方なく剣道部に入った。

球技よりはマシなだけで、竹刀を振るのも下手くそだった。

親しい同級生だった松村、谷村、中村たちは、幼い頃から剣道をやっていたので防具をつけて、すぐさま本格的な稽古をやっていたが、半分くらいの部員は剣道が初めてで防具などは持っておらず、体操着でひたすら竹刀を振らされていた。

剣道の顧問である福田先生は、鹿児島の成人大会の個人戦における優勝経験者だったので、鹿児島で優勝ということは全国でもトップレベルの実力を持っていることと他ならず雲の上のような存在だった。

宮本武蔵が現代に現れたのではないかと思うほどの威厳がある師匠が顧問だったのである。

しかも、先輩たちは戦国時代からやってきたような雰囲気を漂わせる武者ばかりだった。

今振り返っても、中学生とは思えない立派な先輩たちだった。

私は、日々の稽古が厳しいし辛過ぎるので、剣道を辞めたくて仕方なかったのだが、先輩たちが怖くて辞めることも出来なかった。

半年も続けると、私はなんとか安い防具を親に買ってもらって、それなりに竹刀も振れるようになり少しは剣道部員らしくなっていった。

稽古は、毎日 最後に三本勝負が行われて、強い順番に並ばされた。

30人弱 部員がいたが、その中で私は勝負は負けることが多くて常にビリッケツかビリから2〜3番をウロウロしているような弱っちいレベルだった。

しかし、顧問の福田先生や主将である立園先輩の電光石火のような剣さばきに次第に憧れるようになっていった。

むすんでひらいてがまともに出来なかったくらいだから、私には剣道の素質は殆ど無い。

しかも、剣道を幼い頃からやっている連中には追いつけるはずもない。

みんなと一緒に稽古をしても自分だけが上達することなどあり得ない。

いつまでたっても上達しない私に衝撃的な事件が起きた。

いや事件なんて大げさだが、私の人生にとっては事件だったのだ。

それは、ジルベスター・スタローンの映画『ロッキー』を目撃したことである。

この映画は私に『努力』という言葉をプレゼントしてくれた。

『ロッキー」は努力することの大切さを実感させてくれた私の人生にとってかけがえのない映画となった。

ジルベスター・スタローンは売れない役者だった。

銀行預金も底をついて俳優人生も終わりかと思われた時に、彼はモハメッドアリと無名のボクサーの試合を偶然目撃する。

世界チャンプのアリが圧倒的な強さで挑戦者をすぐに倒すと予想されていたのだが、無名のボクサーは判定負けはするものの、最終ラウンドまで懸命に闘い抜く。

スタローンはこの試合を見て心底感動した。

家に帰ると彼はその興奮が冷めやらぬうちに自らの人生をボクシングに投影してシナリオ書き始めた。

三日三晩かけて書き上げたシナリオが『ロッキー』である。

このシナリオを、映画会社ユナイテッド アーテイスツにスタローンが、持ってゆくとプロデューサーはその素晴らしいストーリーに感激してすぐさま映画化を約束した。

ただし、それは当時のアメリカのスーパースターを主役として起用する計画であり、スタローンはあくまでも脚本家としてのデビューに過ぎなかった。

帰り道、スタローンは悩み苦しんだ。

あのシナリオは、自分が主演をやるために書いたものである。

自分の人生をかけて書いた最初で最後のシナリオである。

スタローンは映画会社に舞い戻った。

「このシナリオは俺が主役をやるために書いたものだ。俺が主演でないのならこのシナリオはこの場で破り捨てる」

スタローンの覚悟にプロデューサーたちは、たじろぎスタローンの意志を尊重した。

結果として、『ロッキー』は超低予算の映画制作になった。

主演者たちは無名どころかスタローンの友人俳優や家族、そして愛犬まで駆り出された。

スタッフも殆どが無名ばかりである。

音楽もステレオ収録ですら無かった。

どう考えても、ヒットする見込みの無い映画として扱われた。

だから、完成はしても単館ロードショーという最低の興行となった。

それでも、試写会の時にスタローンは「お母さん、俺はついにやったぞー」とスクリーンの前に立って叫んだと言う。

まるで、自己満足の映画制作のように思えた映画『ロッキー』だったが、単館ロードショーがやがてロングランとなり全米公開、そしてついに全世界でのロードショーに発展してゆくのだ。

しかも、『ベンハー』以来のアカデミー10部門以上の賞を総ナメして空前のヒットとなり、まさにアメリカン・ドリームを実現した映画史に残る偉大な功績を残したのである。

スタローンは子供の頃に『ベンハー』を見て俺もあんな素晴らしい映画を作りたいと憧れたそうだが、そのベンハーと並ぶ作品を作りあげて、しかも主演を果たしたのである。

映画『ロッキー』の物語は、すでに齢30迎えようとしている落ちこぼれの3回戦ボクサーが主人公だった。

仕事は、金貸しを生業とするヤクザの親分の取り立てを手伝っている。

優しずきて取り立てもまともに出来ない冴えない男でもあった。

その一方で実らない恋をしていた。

親友ポーリーの妹エイドリアンが大好きだった。

別にペットを飼うのが趣味というわけではないのに、エイドリアンが務めるペットショップに毎日通い餌やペット商品を買いに行くのだった。

アパートにいる亀や金魚たちも、おそらくはエイドリアンゆえに、やむなく買ったものなのだろう。しかし、今は彼らも家族のように大切にしていた。

エイドリアンも、ロッキーのことを嫌いではないようだが、何しろ彼女は内気で殆ど会話も出来ないために二人は何の発展も無く時は過ぎていた。

物語はロッキーがエイドリアンをデートに初めて誘った頃から急展開してゆく。

ヘビーボクサーの世界チャンピオンのアボロ・クリードが予定していた対戦相手の突然のキャンセルにより、新たな挑戦者を探すことになった。

イタリアの種馬というリングネームを持つ無名のしかも三回戦ボクサー、「ロッキー」に白羽の矢が立ったのである。

建国200年記念祭でもあるタイトルマッチで、ロッキーにアメリカンドリームを与えるとアポロは言うのだ。

しかも、アポロはすぐにロッキーをKOすると豪語した。

世界チャンピオンと三回戦ボーイの差なら、すぐにKOされてしまうことは、明白である闘いにスタローンは本気で挑むことを決意するのだった。

スタローンはまるで人が変わったかのように死にものぐるいで凄まじいトレーニングを開始する。

夜明けと共に走り、ミツトを打ち、バーベルを上げ、腹を鍛え、スパーリングを繰り返すそんな姿は『努力』そのものだった。

彼はアポロに勝つことよりも、自分の弱さと闘っていたのである。

アポロに負かされるのは当然かもしれないが、どんなに倒されても立ち上がり最終ラウンドまでリングに立っていたなら、その時はロッキーは自分には打ち勝ったことになる。

その信念で彼はひたすら己を信じて努力し続けた。

こうしてロッキーは試合に挑んでゆくのだった。(まだ観ていない方々のため、ストーリーはこの辺で終わりにしたい)

私は、この映画を見ながら何度も泣いた。

そして、自分も努力すれば剣道も上達するかもしれないと思った。

私は翌朝から、5時に起床して中学校のグランドに行って走り、腕立て伏せなど筋力トレーニングに励み、竹刀を振った。

数ヶ月後、その成果が少しずつ現れてきた。

三本勝負で以前より勝つことが出来るようになった。

そして、初の試合となる新人戦における剣道団体戦の選手に選ばれた。

選ばれたというのはあまりにも意外で、福田先生から名前を呼ばれた時、それは間違いではないかと思った。

しかし、貼り出された選手表には、確かに私の名前が三番手の中堅のところに出ている。

私よりも強い剣道部員は他に何人もいたので選手表を見ながら冷や汗をかいたことを今も良く覚えている。

この新人戦以降も、私は常に選手に選ばれて試合に出場し続けた。

それは、私自身が敗北したとしても選ばれたので、私は一層の努力を重ねた。

早朝だけでなく、時には夜に稽古したり、昼休みも稽古したりした。

怠けたい気持ちも常にあったが、私はそんな弱い自分に勝ちたかった。

負けそうになるとロッキーのテーマを聞いて奮起した。

自分自身の弱さに立ち向かうことの大切さ、そして努力することの素晴らしさを教えてくれた映画『ロッキー』に、そしてジルベスター・スタローンに心から感謝したい。

ところで、なぜ大して強くもない自分が選手に選ばれたのか・・・。

私にとって その衝撃的な真実は、2年後に知ることになる。

 

 

『ロッキー』この素晴らしい作品は全国のレンタルビデオにてご覧になれます。

 



以下次回。


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鉄道オタクというほどではなかったのかもしれないが、父は鉄道員の制服姿に子供の頃から憧れたという。

高校を卒業すると、真っ直ぐに鉄道員を目指し試験を受けて合格、憧れの制服姿になった。

運転士にも なりたかったようだが、片目の視力があまり良くないために、それは諦めて駅員として現場で一所懸命に働いた。

ストライキの時ですら、1分でも早く汽車が動き出すことを願いつつ、少しでも現場の混乱からスムーズな業務が出来るようにと準備する側へとまわり、ストへの参加はただの1度もしなかったという。

それゆえに、組合からは嫌われ憎まれもしたが、父は自分の信念貫き現場主義で働き続け、逆に組合の幹部達に信頼されるようになっていった。

実際、私は小学校時代に、組合の親分さんと家族付き合いしていて、一緒に遊びに行ったりしていたので、まさか、あの優しい叔父さんが組合の親分とは大きくなるまで知らなかった。

余談だが、その組合の親分はコーヒーのモカが大好きだった。

親分が淹れてくれたドリップコーヒーのモカは、格別に美味しかった。

私は小学時代からコーヒーが好きで飲むようになり、現在も毎日コーヒーを飲まない日がないほどで、その原点は、この組合の親分の淹れてくれたモカのコーヒーを飲んだことにある。

ん? 今も猿田彦珈琲でドリップコーヒーを飲みながら、これを打ち込んでいるありさま。

話を戻そう。

父は大学を出たわけでもないが、異例の出世を果たして40歳を過ぎて、宮崎の佐土原駅の駅長になった。

この駅長になる少し前に母は、救急車で運ばれるような『大ぎっくり腰』になって、病院では痛み止めの注射が身体に合わず、副作用でさらに酷い状態になってしまった。

その後、同僚の紹介で骨盤整体専門の先生に治療してもらって、瞬く間に治った。

父は、歩けなかった母を歩けるようにした、その施術の技に魅せられて、その場で整体の先生の弟子になった。

休みや仕事が終わってからその技術を学んだが、才能があったからか師の技術を短期間にマスターして患者からは、師よりも父の方が指名が多くなった。

その後も各地で有名な師を探しては、技術を学び習得した。

駅長になった頃には、噂を聞きつけた様々な症状で苦しんでいる人々が夕方になると駅長官舎の前に並んだ。

遠方からも、どこに行っても治らないという人々が来るようになった。

東京からもVIPも来た。

普通なら鉄道の組合が問題にしそうだが、組合の幹部さえも治してほしいとひっきりなしに来ていたので、批判などは全く出ないし、もはや、鉄道員を辞めて整体に専念する方が世のため人のためになると父は判断した。

父は宮崎の清武に療術院を開院、息子の私はすでにこの頃には父の技術を習得していた。

このような流れで『だるま整体』は始まり、それから約25年間の間、清武を拠点としたが、2011年に両親は上京、東京は調布に親子で療術院を開院する運びになったのである。

さて、上記の内容を紙芝居動画『だるま堂物語』として、劇団 真怪魚スタッフの協力で、この度完成させました。

ご覧頂けましたら幸いです。

【だるま堂療術院ホームページ】
https://www.ekiten.jp/shop_5996674/

紙芝居動画『だるま堂物語』

 

 


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鹿児島に帰って、幼馴染と一緒に飲めば、未だに酒の肴にされる笑い話がある。

それは、小学六年生の冬、師走の底冷えのする夜明け前のことだった。

菓子屋の息子である松村や大島紬の機織りを家族でやっている知花とその弟と私の4人が南鹿児島駅に集結した。

これから鹿児島市内の繁華街にある天文館へ、映画を観に行くのである。

タイトルは『キングコング』〜1976年版

キングコングは1933年に作られた怪獣映画(モンスター映画)の傑作と言われ、後に多くの映画人に影響を与えた。

このアメリカ映画『キングコング』が誕生しなかったら、日本の『ゴジラ』も生まれなかっただろう。

そのゴジラが全世界でヒットしなければ、『ジェラシックパーク』も登場しなかったかもしれない。

恐竜映画も怪獣映画も、全て原点は1933年のキングコングにあると言っていい。

このキングコングがジョン・ギラーミン監督によってリメイクされて公開されたのは、1976年ことである。

ジョン・ギラーミンと言えば、世界的な大ヒット作となった『タワーリングインフェルノ』の監督でもある。

この当時、ギラーミン監督は、油が乗って最もギラギラしていたと言える。

出演には、ジェフ・ブリッジスにジェシカ・ラング。二人とも後にアカデミー賞主演賞を受賞する大型俳優である。

ただ、このキングコングでジェシカ・ラングはデビュー、新人でありながらも世界的に注目を浴びるほど人気も博した。

キングコングのストーリーでは、ジェシカ演じるヒロインのドワンそのものが無名の女優であり、キングコングを利用して彼女を大スターにするというキングコング捕獲者でもあるスポンサーの企みと、ジェシカ自身の立場がリアルにダブるのが、なんとも言えず物語をさらに盛り上げていたように思う。

頂けないのは、制作者がキングコングのロボットを等身大で作ったものの それが、ロボットとわかりやすいダサいシロモノだったため、結構当時のメディアも観た人からもきつく突っ込まれていたように思う。

現在のテクノロジーでも、キングコングを巨大なロボットにしたら、リアルに動かすのは難しいに違いない。

ただ、今振り返ってみても、キングコングの映画はその後もたくさん作られたが、総じてこの1976年制作の『キングコング』が圧倒的に面白いし、よく出来ていたと私は思う。

ロード・オブ・ザ・リングのビータージャクソン監督による2005年公開の『キングコング』よりもである。

先ず、ドキドキワクワク感が凄い。

謎の島での未体験の冒険の数々、迫力満点のキングコングの登場、キングコングがドワンに執着するがゆえに近代的なニューヨークで大暴れるするシーンや世界貿易センターを登って行ったり、ラストの戦闘ヘリとの戦うシーンなど、見応えたっぷりである。

ゴジラを含む怪獣映画の中でも、1976年版キングコングは屈指の名作ではなかったろうか。

実は大人になってから観ていないので、今 観たらどう思うかは正直言うと自信はない。

しかし、続編として作られたキングコング2はつまらなかったし印象も薄い。

やはり1976年版キングコングは40年以上経っても、鮮やかにワンシーン、ワンシーンを思い出せるし、私は当時 二度も劇場に足を運んで3回も飽きずに観たわけで、本当に面白かったのは間違いないだろう。

少し前振りが長くなってしまった。

これは、私が鹿児島に転校する前の宮崎時代の話になるのだが、ゴジラチャンピオン祭りと題して夏休み、冬休み、春休みには、様々なゴジラシリーズが映画館で上映されていた。

新作もあれば、旧作を上映することもあった。

とにかく、ゴジラは、年に2回も3回も映画館で上映された時代だった。

その封切り日の早朝一番乗りから10人くらいまでは、ゴジラのグッズをプレゼントされたのである。

時には、ゴジラのフィギュアだったり、対戦怪獣のフィギュアだったり、何かしらゴジラ関連のグッズがもらえるのだった。

だから私は、封切り日に決まって友人達と早朝早くに映画館に行くのだが、一度も10番内に並ぶことは出来なかった。

すでに前日の夜から並んでいる大人もいたからだろう。

どんなに、頑張っても一度もグッズをもらえなかったという苦い経験があった。

私はその無念を晴らしたいと思っていた。

そして小学六年生の冬、ついに怪獣映画キングコングがアメリカからやってくることを知り、私は喜び勇んだ。

鹿児島市内の天文館にある映画館に、朝5時には到着する計画を立てた。

友人達に、宮崎の映画館で封切り日には、早く並んだ10番内の人たちが、怪獣グッズをもらえるという話、少しでも遅ければもらえないだろうと情熱的に彼らに話した。

友人達は私の話を完全に信じ切って、始発の電車に載って天文館の映画館に行くことを賛同してくれて、その計画は立てられた。

当時、鹿児島の小学校は子供達だけでの映画鑑賞は学校で禁止になっていた。(現在も小学校はそうかもしない)

見つかればかなりの大問題になる。

子供だけで行くというのは、親との絶対的な信頼関係がなければならないし、学校にバレないように工夫しなければならない。

私は、ポルノ映画じゃあるまいし、映画を見に行くのに子供たちだけではダメという規定には全く納得していなかった。

仕事している親と一緒でなければダメなら、なかなか映画館には行けないからだ。

だから、私はよく一人で映画を見に行ったりして、学校にバレてはこっぴどく先生たちに叱られていた。

叱られても、叱られても、私は繰り返し続けていた。

ただ今回は友人を巻き込むことになるし、真冬の朝4時過ぎに家を出て、街に5時には到着となると、鹿児島はまだ真っ暗で夜明け前という状況になる。

学校に発覚したら、叱られるくらいでは済まないだろう。

だから、私は計画を入念に行う必要があった。

知花の親父さんが地元の南鹿児島駅まで送ってくれることになった。

それぞれの親はそれで了承してくれたのである。

私達はこうして夜明け前の南鹿児島駅で待ち合わせをした。

駅前には松村の親が営むケーキ屋『松風』があった。

松村の親父さんが息子を連れて現れた。

電車が来るまで知花と松村の親父さんは談笑していた。

いつでもどんな時でも私は、とんでもないことを良く計画したので、松村や知花の親父さんたちまで、それに振り回されてあの頃は大変だったろうなぁ改めて申し訳なく思うと同時に感謝の気持ちでいっぱいである。

「きばいやんせ」(頑張れよ)

そう言って、松村と知花の親父さんは笑顔で送り出してくれた。

古めかしい緑色の路面電車がやってきて、急いで乗り込むと誰も乗客は乗っておらず、一番乗りだったことに私は、勝ち誇った気持ちになった。

チーン チーンと音を鳴らして電車は走り出した。

私は興奮していた。

キングコングのフィギュアとか戦闘機のプラモデルがもらえるのではと期待で胸は一杯だったのだ。

私の話を信じた友人達もきっとそうだったろう。

道路照明灯だけの暗い天文館に着いた。

「一番乗りやっど」

知花が笑いながら言った。

映画館前には、確かにまだ誰も並んでいなかった。

天文館の朝はシーンとしていた。

冬は、南の国であればあるほど夜明けは遅い。

ようやく空が白みはじめて、少しずつ人通りに活気が出てきた。

しかし、映画館には人ひとり近づかなかった。

「おいっ、本当に人がたくさんここに並ぶとかー」

松村が、訝しんで言った。

「もう少ししたら、わっせ来っど」

私は絶対だ、という表情で言い切った。

「これやったら、別に朝5時に並ばんでもよかったっじゃっなかとや」松村が、また言った。

それから、時計の針は7時になっても、8時になっても、映画館のシャッターは閉まったままで誰一人、犬猫さえ映画館にやって来る気配はなかった。

「真崎っ、誰も並ばんし、キングコングのグッズとか本当にもらえっとか?」

松村は少し切れていた。

「グッズも、もらえんかったら笑い話になっど・・」

知花が呑気そうに笑いながら言う。

さらに9時になっても、まだ誰も人来ないし窓口さえ開かない。

「真崎に騙されたが・・アホみたいじゃっど。もう真崎の話には騙されんど」

松村は完全に怒っていた。

知花は顔は笑っていたが目は笑っていないように見えた。

私は、もう逃げ出したかったが、せめて切符を切る時に、なんらかのグッズくらいは、もらえるだろうとそれだけ期待した。

9時半、ついに窓口が空いた。

学生割引でチケットを購入、劇場の入り口に飛び込んだ。

しかし、愛想もなく切符を切られただけだった。

私は思わず係りの人に聞いた。

「キングコングのグッズとかプレゼントとかないんですか、朝5時から並んでいたんです」

係りの男性は面倒くさそうに言った。

「そんなのはありませんよ」

私は愕然としたが、松村も知花も呆然とその場に立ち尽くしていた。

私たちが劇場の席について、しばらくしてから ようやく客がまばらに入り始めた。

映画が始まるまで、松村は何度もため息つきながら私に文句を言ったが、知花が松村をなだめていた。

しかし、映画が始まるとスクリーンに私達釘付けになった。

なんと、面白過ぎて、映画館を出ずに、次の回をもう一度観てしまった。

映画館を出てから、私達は50円ラーメンとして鹿児島で最も有名な「のり一のラーメン」をたらふく食べたが、松村は映画は面白かったが、グッズがもらえなかったことが悔しいとそこでもまだブツブツ言っていた。

ゴジラは東宝映画の制作であり、あのグッズは東宝なりの企画だったかもしれないし、宮崎の映画館ならではの特別な工夫だったのかもしれない。

松村はよほど堪えたのだろう。

その夜、この出来事を松村は日記に書いた。

実は鹿児島では、学校生活で日記を書くことを推進していて『生活日記』と言う日記帳を生徒は毎朝、担任に提出する義務を課していた。

まだ、12歳の松村はあとさきのことも考えずに、担任に提出するその日記に、夜明け前に子供達だけで路面電車に乗り、しかも天文館の映画館で子供達だけで5時間近くも待ち続けだあげく、ついにグッズをもらえなかなくて 腹が立ったことを書き、映画キングコングは、我々子供達だけで映画を2度も観て、のり一でラーメンまで食べたという一部始終を正直に親切丁寧に書いてそれを翌朝 登校直後に担任に提出してしまった。

松村は馬鹿がつくほど真面目なところがあり、知花は親が沖縄出身ということもあり、どこか陽気で楽観的なところがあった。

私は登校すると、松村が教室の窓側で「昨日は真崎に騙された」という話をクラスメイトに熱心に話していた。

知花もそこにいたが、知花は松村の話を面白がっていた。

松村は、キングコングのポスターでは戦闘機をコングがぶっ潰していたが、実際は劇中では、戦闘ヘリだったことにも騙されたと真剣に話すので男子達は爆笑していた。

私は戦闘機でなかったのは少し残念ではあったが、さほど気にはならず映画の出来栄えにはとても満足していた。

松村と目が合った。

「真崎には騙されたー、昨日はわっぜ疲れたがぁ」

くどい、と思ったが、やはり私の思い込みが問題だったのは間違いない。

私は笑ってごまかした。

「頭にきたかいよ、日記に全部書いたど」

松村の発言に私は凍りついた。

「バカか、わいはーっ」

怒ったのは知花だった。

「なんで日記に書いたつかーっ。先生にがらるっどがっ(叱られるだろ)」

知花が怒ることは滅多にない。

松村が一言も言わずに急に青くなった。

「もう先生に提出したとか、日記は」

私は叫んだ。

松村は真っ青のまま、小さくうなづいた。

「ふつう書くかー日記に、バカじゃなかとか、松村」

いつも温厚な知花がど真剣な表情で言ったので一層深刻な雰囲気になった。

昼休みに先生は生徒達の日記をチェックする。

当然のことだが、午後の授業が始まると担任の女先生は、私と知花と松村三人をみんなの前で立たせて顔を真っ赤にしながら こっぴどく叱った。

映画の件では、常に私は 事あるごとに学校で怒られたものだが、この時が一番きつく叱られた。

知花の2つ下の弟を連れて行ったことも大問題だった。

私達三人は、廊下に立たされた。

昔は、学校で何か悪さをして廊下で立たされるということは良くあることだった。

おそらく、私は南小学校で一番廊下で立たされたと自負する。

この日は、私一人だけ放課後、職員室に呼び出されてさらに先生に怒られた。

もう二度と子供だけで映画を見に行かないことを固く約束させられた。

翌日から、温厚な知花が「松村のせいで叱られて立たされた」を連発するようになった。

そのかわり松村は、私をひと言も責めなくなった。

松村も日記に書いてしまい自分まで怒らた馬鹿さ加減には心底参ったのだろう。

それから二十年以上の時が流れて、松村の結婚披露宴の時は友人代表で知花が松村にお祝いの言葉を贈った。

知花は、この時親切丁寧にキングコング事件の話をみんなの前で披露した。

私も松村も聴きながら冷や汗をかいた。

会場は大爆笑だった。

今も新たなキングコングがスクリーンに登場するたびに、私はあの日ことを昨日のように思い出す。

そして心の中でつぶやくのだ。

『松村、知花、しげと・・すんもはんじゃしたー』

以下次回。

絵   しんざきあきら

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