3年前の今日

よく参拝に行っていた

靖国神社の桜が散るのと

一緒に父は散っていきました。

 

「咲いて散るのが桜の花で

散りて咲くのが人の花」

いつもつぶやいていましたが、

まさに辞世の句のようです。


伝記を書いたらと

よく言われるのですが、

私よりまわりの方達の方が

父を知っているのでは

と思うとなかなか

筆をとれず。

でもあれから

3年ブログサイズで

どのような人だったか

残したいと思います。


父の学生時代は

安保闘争の真っただ中。

早稲田の学生だった父は

デモに参加した帰り道、

片方の靴をなくし痛い足を引きずりながら

何かが違うと感じ、

民社党結党と同時に

19歳で入党します。

 

その後、すぐ頭角をあらわし

民社党二代目委員長

西村栄一氏の

公設秘書になります。

 

西村栄一というと

皆様は「バカヤロー解散」は

ご存じでしょうか、

吉田茂首相が予算委員会で

バカヤローと発言し解散にまで

至った出来事ですが、

あの名相、吉田茂を

バカヤローと言わしめるまで

理攻めした人物が

西村栄一です(わたくし「彰」の名付け親。)

 

父はその西村氏から命を受けて

日本の民主的労働

そして政治運動の

発展のため、

教育機関の設立に

尽力いたします。


逸話がありまして

その活動の支援者の一人に

松下幸之助氏がいまして

支援をお願いにいったところ

父にたくさんの本を授けてくれたそうです。

お金はあげてそれだけで終わってしまう。

でも本をほかの人に買ってもらったお金ならば

読んだ人も知識の財産ができ財団にお金も入る

ということだそうです。

さすが松下幸之助。

 

そして昭和44年に

日本の労働運動の礎となる

財団法人(現在 公益財団法人)

富士社会教育センターが設立し、

御殿場では富士政治大学校が

開校します。

 

各地に支部もでき

父は休む間もなく

全国で講演を行い、

講義を受けた方は

政財労働界で活躍され

十数万人いるといわれています。

 

父を評する

面白い言葉があります。

「鬼のダイマツ

仏のオオマツ

ただ怒ると鬼より怖い」

とおっしゃています。

人懐っこい笑顔に

ほとばしる教育への情熱。

わたくしも何度も講義を

聞いていますが、

その迫力は聞いたあと

しばらく顔が見られないくらいでした。

 

そんなことで

ほとんど家にも帰らず

運動会も入学、卒業式も来ずでしたが、

わたくしにはそれが当たり前で

特に寂しくもなく、

代わりに

民社党青年隊の方や若い組合の

幹部の方がいて

お姉さん、お兄さんがわりになってくれました。

 

とにかく読書量はすさまじかったです。

引っ越ししたとき

本を二階の部屋に

まとめておいておりたら

屋根が崩れかけて

大騒ぎになったくらいです。

映画も好きでしたね~

休みの日はだいたい

映画を見に行っていました。

 

40台になって

ついに出馬をいたします。

しかもあえて

厳しい選挙区、東京7区

(当時中選挙区、三多摩十五市)で。

というのも

あの菅直人氏の選挙区ですから。

しかも社会党マドンナブームや

自民党歴史的大勝など

本当に恵まれなく、

バッジをつけることは

ありませんでした。

 

その後も財団の発展に尽力し、

国体を守る人材を

育成するため、

さらに歴史未来塾を主宰。

大学での講義も増えてきました。

財団も公益財団の指定をうけ、

そこからたくさんの労働運動家、

政治家が誕生しています。

 

しかし道半ば

膵臓がんであっという間に

逝ってしまいました。

「我老いに至らずして死に至る」

西村氏が亡くなる3日前の言葉。

憂国の思いは師と

同じだったでしょう。

 

亡くなる一週間前、

副作用などでもうろうとする中

孫(王明といいます)のために

名の由来「王陽明」について

メッセージを残してとお願いしたところ

10分にわたり淀みなく

王陽明の人となりを

講義してくれました。

 

私と最後に交わしたのも

「明日の資料を準備しておいて。」でした。

 

享年74歳

政界ではまだまだ鼻たれ小僧ですよ。

これからでしたのに。