倉敷スイートホスピタル入院生活――江澤理事長との出会い




二〇一八年八月二十九日、倉敷スイートホスピタルに入院。私が大好きな『焼肉の日ラブ()

先ず思ったのが備え付けのテレビが見放題で無料。BSも観られプロ野球シーズンは毎年楽しみにしている。今まではテレビカードでほぼ毎日千円掛かっていたので本当に助かる。

一番は何と言っても全室個室。今まで検査やレスパイト入院で八回入院したが先ず個室を希望した。相部屋だとテレビを観るのもイヤホンを付けないと駄目で面会も気を遣う。大学時代、アパートに人が入って来たトラウマもあり物音などにも敏感で、知らない方がおられると眠りが浅くなるのが実は一番の理由だった()。それがないのは何より嬉しかった。面会も二十四時間大丈夫でセキュリティもカードキーで安心している。誰もが気軽に見舞いに来て頂ける雰囲気で、病院という気がしない。今まで色々な方がお見舞いに来て頂いたが、皆さん必ず看護師さんやスタッフさんの優しさと対応の良さ、病院の綺麗さを言われる。「何かホテルみたい、病院には全然見えない!」が皆さんの口癖。

最初はやはり意思疎通で苦労した。それを解消出来たのが意思伝達装置「伝の心」(んのしん)。富士通のパソコン・日立のソフトで、導入に当たっては橋本義肢製作㈱の担当の方に大変お世話になった。担当の方には、二〇一五年にipadを足のスイッチで操作出来る装置(オーバーテーブルにipadを支える台とアームを固定し足のスイッチを車椅子に固定したもの)を提案頂いた。当時、スマホが使いづらくなり気持ちが落ち込んでいた。ケアマネージャーさんに相談したところ橋本義肢製作㈱をご紹介頂いた。福祉用品全般を、患者さんに合わせ患者さんの目線に立って製作されている。ipadでライン、メール、facebookなどが出来る様になり、まるで世界が変わった。コミュニケーションが取れるだけで心と身体が健康になれた。倉敷市の補助金申請問い合わせ、書類作成など家内に負担が掛からない様本当に良くして頂いている。

11月に意思伝達装置「伝の心」を設置した際も、デモを分かり易くして頂き助かった。私の目線に合わせた説明、困った時の対応などどれも献身的。ipadで足のスイッチ操作に慣れていたので、「伝の心」も何の問題もなく導入出来た。「伝の心」には普段ケアでお願いしている事を日常使用文として自由に登録出来る。音声で言ってくれるので私の身代わりと思っている。症状に合わせて家内にその都度内容を追加して貰う。その数約五百文。これでも足りない部分は文章に打って意思疎通が出来る。テレビのチャンネルも替えられ、これだけでも気分が楽になった。リモコンのものは何でも「伝の心」で操作が出来る。エアコン、ベッド、扇風機など。メールも出来、DVDUSBも観ることが出来る。文章を事前に打っておけば、お見舞いに来て頂いた方に音声で伝えてくれるので会話している気分になれる。「本当に生きる選択をして良かった」そう思わせてくれた「伝の心」である。



「伝の心」使用中の写真。朝大体9時過ぎにパソコンをセットして頂き、夜7時頃電源を落とし足元に移動。足のスイッチも向きを変える。パソコン台も自由に角度を変えられる。今は面会禁止で観られないが右横にDVD取り出し口があるので映画も観ることが出来る。後はラインとfacebookが使える様になれば言う事はない。(現在はLINEもFacebookも使える)常に画面を見るので目が疲れる(笑)。一日平均七〜八時間使うので目薬は必需品。パソコン横に電波時計をテープで止めており、数字が大きく光るので視力0.02の私でもはっきり見える。日付、曜日、温度、湿度も分かるので本当に助かる。夜、時間が分かるようになり看護師さんの動きが分かり、良い意味でナースコールせず待てるようになった。


「伝の心」足のスイッチ使用時の写真。全て足のスイッチで操作するので言わば私の身代わり。ipadを車椅子で足のスイッチを操作していたのが大きかった。「伝の心」は音声で言ってくれるので本当に私の身代わりと思っている。ポイントは膝のどの部分に当てるのが押しやすいかを見つける事。足のクッションの高さも大事。

足のスイッチを動かす際はつまみをしっかり緩めて動かさないと故障の原因になる。パソコン合も足のスイッチも全て橋本義肢製作㈱の自社製作。なので一番大事なメンテも本当に心強い。余談であるが、手の下や足の下のクッションも色々な物を試して今の物に落ち着いた。枕も同様。汚れてもよい様に常に予備をクローゼットに入れている。



まだ動くのは主治医の先生・看護師さん・介護士さんの献身的なケア、ラジカットと理学療法士の先生、家内のリハビリのお陰と改めて心から感謝している。

病気が分かって以降毎年九月、大学野球部のメンバーがお見舞いに来てくれている。倉敷スイートホスピタルでは、五階のスイートホールを無料でその時開放して頂ける。二〇一九年九月、三宅さんが音頭を取り、同期の上木と倉田が幹事になり、ここで『チーム土山会』を盛り上げてくれた。



プロジェクターを使って大学時の写真スライドショーや来られなかったメンバーのビデオメッセージを上木が用意してくれた。

木村は四年前から皆さんのメッセージカードを作ってくれている。奥様の手作りで毎年楽しみにしている。二〇二〇年は面会禁止中にも拘らず、全国を四つに分けたZOOMリモート『チーム土山会』を開催出来た。毎年半年前から準備しているので、病院の心温まる有難い配慮だった。

二〇一九年十月初旬、夕方家内が帰った後、スーツを着た方が入って来られた。



「土山さん、初めまして。この病院の理事長の江澤と言います。」と。本当にびっくりした!!

九月のスイートホールでの『チーム土山会』に感銘を頂いた様で、わざわざご挨拶に来て頂いた。「毎年遠慮なくあの部屋を使ってね」と。本当に嬉しかった。倉敷スイートホスピタルは倉敷スイートタウン内にあり、一階に外来フロアー、二、三階に百九十六床の病室を備えた在宅療養支援病院。倉敷スイートレジデンス、訪問看護・介護ステーションもスイートタウン内に。医療法人和香会のグループ病院。医療法人和香会は、倉敷市を中心として、地域に根付いた医療・介護サービスを地域に提供出来る様に心掛けられている。江澤理事長は和香会の理事長でもある。他を調べてみた。東塚事業部(和光園・クリニック)、介護老人保健施設和光園、倉敷広済クリニック、和香会訪問看護ステーション、和香会へルパーステーション、和光園在宅介護支援センター、福田高齢者支援センター、地域交流村ふくだの里、グループホーム和らぎ歓び、デイサービス 香りなど。頻繁に

営業で水島方面を回っていたので目にした所もある。これだけの数の患者さんの命を守られ、先生・看護師さんなどスタッフの皆さんの生活を守っていかれる総責任者でおられるのは相当な重圧だと思う。

東日本大震災においても、当時広済病院から岡山医師会の何処よりも早く医療支援を現地に送られた。


ここからは、江澤理事長の貴重な体験談を手紙で頂いたので是非皆様にも読んで頂きたく、そのままの内容でご紹介させて頂く。


『私は、発生前日の三月十日は、仙台市からの依頼により、市役所の最上階で、市の主催の介護施設関係者を指導する講演と事例発表のアドバイザーを務めておりました。後から考えると、予震と思われる地震の震度5が前日の九日に仙台でおきていました。私は、講演中にその余震があるのかなという思いで仙台へ赴きました。仙台の私の仲間が講演に参加しており、「先生の講演中に席を立とうかどうかくらいの地震が二〜三回ありましたよ!」と講演後に教えてくれました。熱気溢れて講演していた私は、全く気付きませんでしたが()仲間からは、仙台まで来ているついでに、翌日十一日に講演を頼まれましたが、十一日は都内で会議が有った為、またの機会にしようと申して、十日の二十時頃仙台駅から東京に向かいました。十一日の震災発生時は震度5強の都内で会議中でした。揺れが異常に長かったのをはっきりと覚えています。そして、その仲間の施設が津波の被害に遭った事は痛恨の極みとして心に残っています。その後、メールが通じていた為、仙台市役所の担当者から水やガソリンのヘルプコールが幾度もありましたが、国会議員の力でも何も出来ない状況が当初続きました。連日報道では、目を覆うばかりの状況が映し出され、医療や介護の必要性が日に日に高まって参りました。居ても立っても居られず、まだ支援に入れなかった発生から十日頃に現地に向かいました。当法人の男性職員二名の協力を仰ぎ、新潟まで車で来てもらい、新潟で合流しました。当時は、日本海側を経由しないと現地に入れませんでした。当初は私も悩みました。まだまだ、当時は、福島の原発が水蒸気爆発を繰り返しており、組織の長が最初に危険地域へ足を運ぶ事は、組織論からするとNGだったからです。しかし、その当時の状況を考えると、とても職員に人助けに行って来いと言える状況には全くありませんでした。私の判断は、あえて私が先に現地を確認したうえで、大切な職員を派遣出来るかどうか、安全な任務であるかどうかを判断しようと迷いなくゆるぎないものでした。職員と三人で現地に入りましたが、原発の爆発は続いており、放射線の線量計を確認しながらの不安を感じる状況でした。現地では、余震も多く、震度3では誰も足を止めず、震度4で少し揺れたねって感じでした。私は、石巻、女川、南三陸に伺いましたが、何処も目を覆うばかりの状況でした。死体安置所では、身元不明のご遺体が無数に安置されていました。照明の薄暗い、寒さのしみる仲間の施設も伺いました。たくさんの避難所も回らせて頂きました。どこも、段ボールで区切ったエリアでの生活、町内会の掲示板の如くホワイトボード、秩序正しい避難所でのルール⋯この厳しい環境の中、大きく感動しました。それは、争うような声、誹謗中傷等、何処の避難所でも聞いた事が無く、我慢強く、辛抱強く暮らしておられ、我が愛する家族、我が愛着のある家を失った方々が、むしろ私たちにお礼の言葉をかけてくださり、気遣いをされた事でした。流石だな、凄いな、と圧倒される思いを感じました。日本人を誇りに思った瞬間であり、同時に、日本人に生まれてきて良かった!と思いました。今もって、大変ですが、決して忘れてはならない大きな真実であり、社会貢献の一環としても人々を支えていかなければと強く思っています。』


以上が江澤理事長から頂いた手紙の内容である。私は言葉が出なかった。とても真似出来ない、自らの危険も省みず現地に行かれて壮絶な経験をされた江澤理事長を心から尊敬する。自らが経験をされた上で一早く今度は、医師一名、看護師二名、他にも放射線技師など江澤理事長が指名され、ハイエース二台で医療品や支援物資、スタッフの食料など積めるだけ詰め込んで派遣された。福島原発の放射能漏れもあり、出来るだけ日本海側を通り石巻まで車の運転を交替しながら。ルートまで細かく指示された。当然の事だが、泊まる所も食べる処も無く毎日毎食カップラーメンかカップうどんで車中泊だったと当時行かれた看護師さんから聞いた。想像以上に大変だったが本当に貴重な体験をさせて頂いたとしみじみ言われていた。また、こうも言われた。「江澤理事長は人が、患者さんが大好きで命を助けたい気持ちが誰よりも強い。現場では寝る間も惜しんで働いていた。東日本大震災を目の当たりにして居ても立っても居られず医療支援を決めたのだと思います」と。この様な貴重な話を聞く機会を頂き、改めて江澤理事長への尊敬の念が更に強くなった。

何度かご訪問頂いた中で、色々心に残っている話をご紹介させて頂く。若くして病院の経営を継承されて、特に介護全般自ら体験され、その経験を設計に反映された。医師でもありこの病院の全てを設計し、設備機器から壁紙まで全てこだわりを持たれ、自分の目で見られ自分で選ばれた。「ここを自分の家、自分の部屋と思ってくださいね」何より嬉しい言葉だった。そういう思いが全てを個室にされ、同じ間取りはない、多分そういう病院は他にないと思う。百九十六部屋の間取りを変えて壁紙も部屋毎に変えていくのがどれだけ大変か、毎日会社で図面を見ていた私には分かる。私の部屋は天井、右壁、左壁で違うので全く飽きが来ず目に優しい。壁紙は、東京のサンゲツに泊まり込みで行かれてじっくり選ばれ、外壁は五種類の色を組み合わせて風合いを出されたとの事。サンプルを取られ配置を自ら決められたと聞き驚いた。

照明についても教えて頂いた。年齢を重ねると人は誰でも目の加齢により周囲が暗く見える。六十歳と二十歳で二倍、八十歳と二十歳では四倍暗く見えるデータも過去にはあり、従って入院患者の多くは高齢者であり、ホテルのような薄暗い間接照明だと、転びやすいのでは?生活しづらいのでは?と考えられた。生活感のある安心感が大切と考えられ、全室に一般家庭で使用する照明を採用された。江澤理事長のこだわりは、人に優しい電球色。建築中には、照度計を使って、部屋の中の場所の違いも含めて測定された。壁紙が白いと反射光が多く、暗いと光が吸収される為、色々と試して見られたと。そのお陰で私はいつも応接間にいる気分でいられる。二〇一五年まで日経アーキテクチュアを毎月読んでいたので、この建物が表紙に掲載されたと聞き、全国から建築家が見学に来られている理由が分かった。岩国の㈱ネストハウス石川社長もそのお一人。厚生労働省幹部に講演されたり、幹部の方が病院視察に来られたりされるのも納得だ。全国で講演されているのでスケジュールは常に分刻み。その講演の時には、大学野球部の皆さんとの『チーム土山会』の写真やビデオメッセージもご紹介頂いている。誰かのお役に立てるならこれ程嬉しい事はない。皆さんを少しでも元気にする事が今の私の役目かなと思う。江澤理事長とは、三つのご縁がある。


ご縁一つ目⋯窓などYKK APをご採用頂いた事。当時担当は松上さん(:中国支社ビル部長)。名古屋のゼネコンで、打ち合わせや現場管理が大変だったので印象深くはっきり覚えていると。毎月病院の回りを散歩する時、外壁の色合いの良さと部屋いっぱいに天井まで開放的な窓が五階までふんだんに付いているのを見るのが何よりの楽しみ。今までこんなに窓が付いた建物は見た事がない。お風呂の大型片引きもYKK APで、毎回見てはニヤけている()


ご縁二つ目⋯病気の診断が下りた時期と病院が出来た時期がほぼ同じ。倉敷営業所長時、ビルも見ていた折に進んでいた物件で、松上さんが営業所におられた一年で何らかの形で携わっていたと思う。


ご縁三つ目⋯始まりが宇部で故郷。江澤理事長の祖父が宇部記念病院を開業されたのが始まりとお聞きした。宇部記念病院には私が大変お世話になったお客様が何人か入院されていたので場所もはっきり覚えている。宇部は私の仕事の始まりの地で、私を成長させて頂いた忘れられない、忘れる事が出来ない特別な場所。社会人としての厳しさ、お客様への感謝の気持ち、仕事を頂ける有難さ、厳しさ、人との付き合い方など全てを教えて頂いた。「宇部を経験したから今の私が在る」、胸を張ってそう言える場所で第二の故郷。江澤理事長と出会えた事が軌跡であり奇跡の始まりと思っている。「私は倉敷スイートホスピタルに入院させて頂き、呼吸器を付けて良かったと心から思っています。」皆さんに必ず言っている言葉である。

つづく...