いいわけですが、忙しすぎてブログかけませんm(_ _)m
なぜかというのは、13日から始まった年間イベントの準備作業とスタートの見守りです。
ご無沙汰していたお詫びに、そのイベントの雰囲気を少しばかりご覧下さい(´∀`)
https://www.youtube.com/watch?v=EEfQUCHzoRo&feature=youtu.be
いかがでしょう!? まだテスト期間なので抑え気味で遂行中ですが、ここでのパフォーマンスをパフォーマーのお仕事の舞台に定着させるために頑張ってまいります。
もちろんフラッシュモブも頑張りますので、応援よろしくお願いします。
あと動画制作も遅れており申し訳ありません。
老体に鞭打っておりますので、今しばらくお待ちくださいm(_ _)m
映像を配信するときのこだわりについて、何回かに分けてお話していこうと思います。
皆様は当社の映像で、フラッシュモブではないパートをどう観られてるでしょうか。
いろんな観方があると思いますが、私はこんな感情を持って編集作業をしております。
私の生まれ育った土地は兵庫県の姫路市になります。
一歳の時に父が亡くなり、次男(末っ子)だった私は当初 父側の親戚に養子縁組されたかされる形だったそうですが、母が離れたくないからと父側と争い(結果、父側とは縁切り)、それから女手一つで三人の子供を育ててくれました。
母が小さい私をおんぶ紐でおんぶしながら、何か食堂のようなところで給仕のお仕事を頑張っていた記憶が残っています。
そんな子供時代だったので今では感謝しかないのですが、当時は貧乏で周りの子供と違いすぎる環境に母を恨んだりしていました。学校でいるものや服なども、母の職場仲間からお古をもらってきたりしたものを使ったりしていました。
小学校の4年のころに、ただ貧乏やからという不条理ないじめが始まり、「自分でも貧乏やから仕方がない」「オカンのせいや」と責任転嫁して母を恨むことで、1年ぐらいいじめに絶えていたのですが、5年生の冬の学校帰りに複数の同級生に一目がないところに連れ込まれ(定期的にそんなことがありました。そして殴られたりするんですよ・・)その時の相手が軟弱な口だけのヤツで「なんでコイツにまで殴られようとしてるの?」と思い、その時初めて相手に立ち向かい、ついでにその場面のリーダー格も襲ってやりました。
まぁ所詮子供のケンカですから大したことはないのですが、自己の自信につながり「次からいつでも相手になったる!」みたいな態度を取ることで、スパッといじめがなくなり、逆に子分もどきが周りに湧いてきて、6年生の時は自由気ままな学校生活ができました。
母はといえば中学に入ってもずっと掛け持ちで仕事をしていました。
姉の就職や兄の進学でお金が必要だからこそ、必死で働きとおしてくれていました。
しかし私は自分のことしか見ていなくて、ほったらかされてるからと剥れて、悪いことや悪いヤツらとつるむようになり、母との接触は殆どなくなりました。
「将来のために高校だけは頑張り」と母が受験させてくれ入った高校も、2年も持たずに退学処分受けるぐらい、好き放題のバカ野郎に育っていました。
母の愛に気づかずに逆に剥れ逆らっていた私という構図だったのです。
何が言いたいのかというと、母と私の楽しい思い出が”たった2こ”しかないのです。
貧乏で忙しく働いていた母とどこかにいった思い出は、小学校低学年のときにいった姫路の駅デパの屋上で乗り物に乗せてもらったことと、一度だけ近所の人とその人の車で温泉にいったことだけなんです。
いじめにあって母を恨み、悪い連中とつるみだした後ろめたさもあり母との距離が離れ、そのまま19歳で「姫路はイヤや大阪で生きていく」と、母をほっぽり出して大阪にでてきました。(その時には姉も嫁いでいて、兄も大阪にでていました)
その後母は、私が22歳のときに無理がたたって体を壊して働くこともできなくなり、一人で子供からの僅かな仕送りで文化住宅で寂しく暮らしていました。
そのころの私の収入では母を呼んで生活をするほどの余裕もなく、ほんとにわずかな仕送りをして、半ば目をつぶって母のことは無責任にもほったらかしていました。
26歳のころに金融の方の営業に磨きがかかり年収が大幅にアップしました。
都合がよいことに”母の面倒をみよう”と母に大阪に出てくるようにいいましたが、「体壊してる上に高齢で知らない土地にはいけない」と断られてしまい、”せっかく言ったてるのに、もう知らんで”とまた母をほっぽってしまいました。
その翌年に母は62歳の若さで、他界してしまいました。
後悔しました。母の頑張りや苦労をしっかり知りました。私はなんやかやいっても好き放題していたのですが、母は人生を”子供を育てる”ことだけに費やし、母の人生で楽しいことがあったのだろうか?一人での生活はどんな思いやったんだろう?人生の最後は育ててきた子供と楽しく生活したかったはずや・・・など、いろいろ考え、たくさん後悔することがあり、母が亡くなってからしか気づけなかった自分が情けなかったです。
そして私は、いなくなった母を思い続けるマザコン野郎になりました。
でも母との楽しい想い出が2こしか無い!! 私の幼少のころの写真も1枚しかなく、母と一緒に写ってる写真も1枚も無い! 一切の母の記録がないのです。
年取った母の顔は今でも思い出せますが、若いころの母の顔は覚えていません。
私も年を取り、いつまで記憶に残せるかわかりません。
私自身の若いころの記録もありませんし、そういう残念な思いを抱えている私が、このフラッシュモブに係わった事で、とても大事に考えたことは、
「人生においての主役の場面をしっかりと残してあげたい!」
依頼者さんだけでなく、将来の二人のお子様に「パパやママかっこいいし幸せだね」と感じてもらえる”記録”をしっかり残すことでした。
結婚式・披露宴としての記録も大切ですが、フラッシュモブという大舞台で、演出の元に俳優としての”カッコよいパパ・ママ”を主人公とした”記録映画”みたいなものを作りたかったのです。
10年後でも30年後でも、それを観たら感動するものが作りたいのです。
母が苦労してる姿と病弱な姿しか記憶にないので、私も母の素敵な記録が観たくて観たくてたまりません。
きっと泣いて笑ってたった二つの楽しい想い出を感じながら、亡き母を偲んで観ることができるでしょう。
本当に母の記録が欲しいです。観たくてたまりません・・・。
だからこそ映像にはこれからも演出含めてこだわっていきたいと思います。
今回は書いてるときに感情が湧き出てしまい、かなりの乱文になったことを反省します。
私自身もいつか孫にみてもらって、「おじいちゃんかっこいい」という”記録”を残したいとも思います。
