最近、時々見てしまう動画がある。
Wintergatan の「Marble Machine」という動画である。
巨大な木製のからくり装置の中を、たくさんの金属球が転がっていく。その球がレバーを動かし、楽器を鳴らし、リズムを刻み、やがて音楽になっていく。
妻に見せてみたら、反応は薄かった。
「何が面白いの?」
まあ、そうなるよな、と思った。
ただ玉が転がっているだけ、と言えばそうなのだ。パチンコ玉のような金属球が、レールを流れ、落ち、ぶつかり、音を鳴らしている。
でも、自分には妙に刺さる。気がつくと、また見てしまう。
なぜだろう。
考えていて思い出したのが、子どもの頃のドミノ倒しだった。
一時期、ドミノ倒しに熱中していたことがある。ひとつひとつ、慎重に並べる。少し手元が狂うと、途中で倒れてしまう。だから息を止めるようにして、そっと並べる。
長い時間をかけて並べ終えたあと、最初の一枚を倒す。すると、あとは自分の手を離れて、世界が勝手に進んでいく。
パタ、パタ、パタ、と順番に倒れていく。小さな一枚が、次の一枚を動かす。それがまた次へ、その次へとつながっていく。
あの感じが、たまらなく好きだった。ピタゴラスイッチにも、同じものがある。
ビー玉が転がる。
何かに当たる。
板が倒れる。
車が動く。
旗が立つ。
ひとつひとつは小さな出来事なのに、つながっていくと、なぜか見入ってしまう。
たぶん自分は、結果そのものよりも、ものごとが連鎖していく過程が好きなのだと思う。
原因があって、結果がある。その結果が、また次の原因になる。その流れが目に見えるのが、気持ちいい。
Marble Machine も、まさにそれだった。
ひとつの金属球が落ちる。
レバーが動く。
音が鳴る。
次の球が流れる。
また別の音が重なる。
やがて、それが音楽になる。
もちろん、効率だけ考えれば、こんな大がかりな装置は必要ない。パソコンで打ち込めば、もっと正確に、もっと簡単に音は出せる。
でも、そういうことではないのだ。あえて物理でやっている。重力で球を落とし、木や金属の部品を動かして音を出す。その不器用さがいい。
完璧ではなく、どこか危うい。ちゃんと動くのか、少し心配になる。途中で詰まったり、タイミングがずれたりしないのかと、見守ってしまう。
でも、その危うさをくぐり抜けて、装置がちゃんと動く。玉が流れ、仕掛けが連鎖し、音楽が成立する。
そこに快感があるのだと思う。
たぶん次はこうなる、と分かる。でも、実際にその通りに動く瞬間を見ると、やっぱり気持ちがいい。
「ああ、つながった」
そう感じる。
考えてみれば、音楽も少し似ている。次に来る音を、どこかで予測している。その予測どおりに来る気持ちよさもあれば、少し外される面白さもある。
Marble Machine は、それを耳だけでなく、目にも見せてくれる。
音が生まれる瞬間が見える。ひとつの動きが、次の動きにつながっていく様子が見える。
だから、ただの楽器演奏というより、「音楽が物理的に生まれていく場面」を見ている感じがする。
たぶん、分かる人には分かる。でも、分からない人には本当に分からない。
「玉が転がってるだけでしょ?」
と言われれば、たしかにそうなのだ。でも、その「玉が転がってるだけ」の中に、妙なロマンを感じてしまう。
無駄と言えば、無駄である。でも、たぶん自分は、そういう無駄が好きなのだ。
効率だけでは説明できないもの。わざわざ手間をかけるからこそ美しいもの。小さな動きが、遠くまで届いていくもの。
子どもの頃、ドミノ倒しに夢中になった感覚は、今もどこかに残っているらしい。
玉が転がる。
仕掛けが動く。
音が鳴る。
ただそれだけなのに、また見てしまう。きっと自分は、因果がきれいに流れていくところを見ているのだと思う。
まあ、結局のところ、少し疲れているのかもしれない(笑)。
でも、玉が転がり、仕掛けが動き、音が鳴る。
それをぼんやり眺めている時間が、なぜかちょっと気持ちいい。
♪ 今日の一曲 ♬
Wintergatan「Marble Machine」。スウェーデンの音楽ユニット Wintergatan(ウィンターガタン)による、約2000個の鉄球で演奏する巨大なからくり楽器。鉄球が転がり、レバーを動かし、ヴィブラフォンやベース、ドラムを鳴らしていく。
曲というより、音楽が物理的に生まれていく様子を眺める作品である。妻にはまったく刺さらなかったが、なぜか時々見てしまう。疲れた中年男性の心に、鉄球が効く日もある(笑)。
Wintergatan - Marble Machine
