鎌倉殿の13人縁の地…上溝 和田坂 | ふぅの想いのまま…心赴くまま…

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鎌倉殿の13人ゆかりの地巡り…


二俣川の畠山重忠終焉の地→上浜田中世建築遺構群の次は上溝に移動〜



目的地の途中に地蔵堂が有りました




車地蔵と言うお地蔵様みたいです






中には2体の石地蔵




この奥の厨子に車に乗ったお地蔵様が安置されてる様です
厨子は閉じられていましたが、何年か前に御開帳された様です



こんなお地蔵様の様です
大八車みたいなのに乗ってます






目的地の一つ、藤橋🌉

藤橋は、もともと和田義盛が藤のツルを使って作ったらしいです
明治12年には、まだこの藤があったそうです
現在は、コンクリートの橋が架けられています


姥川





藤橋を渡ると和田坂の石標が見えて来ます



和田坂の石標
民家の敷地なので、道路側から写メ失礼しました

和田坂…ある時、和田義盛が坂のたもとで弁当🍱を食べ、使った箸🥢を地面に刺したら、それが根付いて大きな榎に成長しました🌳

その榎の有った場所を和田坂と呼ぶようになりました
残念ながら、榎の木🌳は無いようです



鎌倉殿の13人デジタルスタンプ

和田義盛の本拠地は三浦半島
何故、上溝に和田義盛?

横山党とは、武蔵国多摩郡を中心に治めていた豪族で、和田義盛の側室は横山党の横山時重の娘で、婚姻関係にあったので、武蔵国にも出向いていたのですね…

藤のツルで橋を架けたり、箸を🥢刺したら🌳になったりと、相変わらずワイルドな話が残ってますな、和田義盛…🤣

横山党は、和田合戦で和田義盛側についていたので、合戦後に衰退し滅んでしまいました

鎌倉殿の13人では、巴御前と和田義盛がクローズアップしてましたが、ちゃんと正室や側室がいて、義盛を支えていたんだよなぁ〜