
舟木一夫
「ブルースのか・け・らⅢ」の選曲⑩
「もう一度逢いたい」
本題に入る前に―。毎年5月から6月にかけて咲くカキツバタの花の色を「杜若色(かきつばたいろ)」と言います。鮮やかな青みの紫色です。薄紫の花と濃い紫の花があります。カキツバタの花はアヤメ科の多年草で、昔は咲いた花びらを摘み取って布にこすりつけて染めていたため「掻付花(かきつけはな)」と呼び、それが転じて杜若になりました。杜若は燕子花とも書きます。愛知県の県花でもあり、三河国八橋(現在の知立市八橋町)が「伊勢物語」で在原業平がカキツバタの歌を詠った場所とされていることに由来しています。「何(いず)れ菖蒲(あやめ)か杜若」「末はアヤメかカキツバタ」という言葉がありますが、どちらも似ており優れていて選択に迷うことの例えです。
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本題に入ります―。舟木一夫さんは京都・南座で行ったシアターコンサートの第1部で「ブルースのか・け・らⅢ」を熱唱しました。全11曲を詳しく“分析”することで、舟木さんが三たび「ブルース」に挑んだ意図を明らかに出来ればと思っています。10回目は八代亜紀さんが1976年9月25日にリリースした17枚目のシングル「もう一度逢いたい」(作詞・山口洋子、作曲・野崎真一)です。第1部エンディングの11曲目に歌われた八代さんの「舟唄」(作詞・阿久悠、作曲・浜圭介)とともに、舟木さんが仰るところの“演歌ブルース”あるいは“ブルース演歌”にあたる曲なんでしょうね。“八代演歌”にはピッタリのネーミングです。

あんな男と 言いながら
今日も来ました 港町
波のむこうは
また波ばかりの 片想い
さようならも 聞こえない
情なしの うつり気の 後影
もう一度 逢いたい
泣けば鷗も まねをして
あなた呼んでる 別れ町
うらむことさえ
出来ない女の ほつれ髪
咲いて散る 赤い花
酔いどれて 泣きぬれて 追いかけて
もう一度 逢いたい
夢は引き潮 想い出も
潮風(かぜ)と逃げてく 出船町
ブイの宿命(さだめ)か
浮いては沈んで 流されて
縋(すが)りつく 恋ごころ
別れても はなれても 愛してる
もう一度 逢いたい
山口洋子さんにしか書けない詞です。♪情けなしの うつり気の 後影… ♪酔いどれて 泣きぬれて 追いかけて… ♪別れても はなれても 愛してる…。 東京・銀座のクラブ「姫」のママとして営業を続けながら作詞活動を始めておよそ10年目の曲です。39歳でした。♪ブイの宿命(さだめ)か 浮いては沈んで 流されて…“ブイの宿命”はいいですね。もっとも、他でもない八代亜紀さんが歌ってはじめて効果的に響いてくるんではないでしょうか。これからの大阪、東京、名古屋のシアターコンサートで舟木さんがどう歌われるか、耳を側立てて聴いてみてください。
八代さんはNHK紅白歌合戦に1973年の第24回から2001年の第52回まで計23回出場(この間6回欠場)していますが、「もう一度逢いたい」は1976年の第27回と1993年の第44回に2回歌っています。1976年の第18回日本レコード大賞では「もう一度逢いたい」で最優秀歌唱賞を受賞。翌1977年の第19回日本レコード大賞では「愛の終着駅」(作詞・池田充男、作曲・野崎真一)で最優秀歌唱賞を受賞し、2年連続歌唱賞獲得という快挙をなしとげました。いずれも作曲は野崎真一さん。野崎さんは、石原裕次郎さんの「夜霧の慕情」なども作曲しています。


八代さんは1950年8月29日、現在の熊本県八代市の出身。同市立金剛小5年の時、たまたま父親が買って来たジュリー・ロンドンのレコードを聴き、ハスキーボイスに魅せられて歌手になりたいと漠然と思いました。市立第六中学を卒業後に九州産業交通にバスガイドとして就職しますが、歌声を披露する機会もないまま3か月で退職。その後、地元の「キャバレー白馬」に歌手として雇われましたが、客として来た父の会社の従業員に見つかり勘当され、従姉妹を頼って上京。歌える喫茶店で学費を稼ぎながら音楽学院で学び、数年で銀座のクラブで働くようになりました。
両親とのスリーショットに笑顔で収まる八代さん
バスガイド時代の八代さん
同じクラブで歌っていた三谷謙(のちの五木ひろし)さんに芸能プロダクションを紹介され、1971年にテイチクレコードから「愛は死んでも」(作詞・池田充男、作曲・野崎真一)でデビューしました。その後、よみうりテレビのオーディション番組「全日本歌謡選手権」に出場し10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンになりレコードも売れ始め、1973年の「なみだ恋」(作詞・悠木圭子、作曲・鈴木淳)が120万枚のヒット曲になったのを皮切りに、レコード会社を変えながら「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんな港町」など女心を歌った曲でヒットを連発させました。
売れない時代から励まし合って来た五木ひろしさんと八代亜紀さん
歌の祭典「コロムビア大行進」での舟木一夫さんと八代亜紀さん
“ふれコン”が始まった年
八代亜紀さんの「もう一度逢いたい」がリリースされた1976(昭和51)年は“ロッキード事件一色”になった年です。
舟木一夫さんは“寒い時代の真ん中”で、8月にには舟木さん自身の提案で大阪・御堂会館(8日)、東京・イイノホール(14日)で、それぞれ第1回「ふれんどコンサート」を開きました。


後援会委のための“特別メニュー”のコンサートで、構成・演出・選曲からパンフレットまで、舟木さんのイメージを関係者に伝えて創り上げました。
このコンサートはその後、原則的に毎年、東西で開かれています。後援会員を大切にする舟木さんの真骨頂と言っていいと思います。
下は“ふれコン”や「WHITEⅠ~Ⅲ」などについて書いたものです。
他の歌手と一緒の歌謡番組など以外に、八代さんと舟木さんとの具体的な接点は見つかりませんでしたが、私なりに見つけた“共通点”があります。実は八代さんの生前最後のシングルのタイトルが、亡くなる9か月前の2023年3月15日にリリースした「想い出通り」(作詞・悠木圭子、作曲・鈴木淳)だったことです。八代さんの出世作「なみだ恋」を手がけた鈴木淳さんが2021年12月9日に虚血性心不全で亡くなったのを偲んで妻の悠木さんが書いた詞に、八代さん自身が曲を付けたものです。ジャケットには夫妻宅で撮った写真の背景に八代さんが描いた夫妻の肖像画が飾られています。
舟木ファンはこのタイトルを見たらすぐに分かります。舟木さんが31歳の1976年8月にリリースしたアルバム「レマンのほとり」に収録されている「想い出通り」(作詞・里中さとる、作曲・岩鬼まさみ)と同じタイトルなんです。作詞&作曲者は舟木さんのペンネームで、舟木さんの“寒い時代”に作られた自作の名曲です。舟木さんはこの同じタイトルの曲を八代さんが2023年12月30日に亡くなった翌2024年のツアーコンサート(通常コンサート)のオープニング曲として年間通して歌いました。ちなみに「レマンのほとり」の復刻版CDは2017年11月にリリースされています。
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以下は「akiraのつれづれ日記」で八代亜紀さんについて書たものです。
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