舟木一夫

美空ひばりさんの6月24日

芸能生活80周年の命日に想う

 

 本題に入る前に―。6月21日から25日頃は、七十二候で「乃東枯(なつかれくさかるる)」の時期。梅雨の頃に雨の中で美しく咲く花を、総称して「雨降花」「雨降り花」と呼びます。シロツメクサ、ヒルガオ、ギボウシ、ホタルブクロ、ツリガネソウなど。その花を摘むと雨が降るとか、その花が咲くと雨が降るなどと言われています。「乃東」が指すとされるウツボグサもその一つですが、毎年冬至の頃に芽を出し、梅雨時に紫色の花を咲かせます。夏至を迎えると、残った花穂が枯れたように褐色になることから「夏枯草(なつかれくさ)」という別名も付きました。

 

                           

                 ウツボグサ

 

 

 本題に入ります―。美空ひばりさんが1989年6月24日未明、52歳という若さで都内の病院で亡くなって、2026年6月24日に37回目の命日を迎えます。1947年に横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏んでから、今年が芸能生活80周年という節目の年にもなります。5月15日には、日本コロムビアからひばりさんの未発表音源「二人きりで」が見つかったという発表もありました。この曲も含めた80周年記念BOX「うたの宝石箱」が24日に発売されます。今回は、ひばりさんと舟木一夫さんの関わりを中心に綴ってみたいと思います。タイトルは「美空ひばりさん  80周年の命日に想う」としました。

 

                          

 

 ひばりさんは1937(昭和12)年5月29日、横浜市磯子区の生まれ。9歳の1947年に磯子区の杉田劇場で前座歌手として出演した後、1949年1月に11歳で出演した松竹映画「踊る竜宮城」の主題歌「河童ウギブギ」(作詞・藤浦洸、作曲・浅井挙嘩)で正式歌手デビュー。10月には12歳で映画主演を果たした「悲しき口笛」(監督・家城巳代治、共演・菅井一郎、津島恵子ら)が大ヒットし主題歌「悲しき口笛」(作詞・藤浦洸、作曲・万城目正)も45万枚売り上げました。“シルクハットに燕尾服”で歌う姿は、幼少期のひばりさんを代表する映像として、今でも多くのファンの頭に焼き付いています。

 

                          

         「シルクハットに燕尾服」は幼少期のひばりさんの代名詞に

 

 舟木一夫さんとひばりさんが初めて会ったのは雑誌「月刊平凡」の1964(昭和39)年5月号の“希望対談”。「高校三年生」でデビューしてから約1年後でした。対談はもともと舟木さんの希望でしたが、ひばりさんの弟・香山武彦さんが舟木さんの大ファンで、ひばりさんも日本コロムビアの後輩歌手として大活躍中の舟木さんが気になっていました。そこで、「武ちゃんが一緒のほうが舟木君も緊張しなくて話しやすいでしょう」というひばりさんの心遣いから、東京都世田谷区上野毛の“ひばり御殿”の応接間で、対談ならぬ鼎談が実現することになりました。

 

美空ひばり&香山武彦、舟木一夫さんの3人による希望対談ならぬ鼎談(武蔵野舟木組から)

 

 舟木さんは2016(平成28)年7月25日に東京・新橋演舞場のシアターコンサートでヒットパレード「美空ひばりスペシャル~ひばりが翔んだ日々~」を開催していますが、その際のパンフレットのインタビューで当時のことを詳しく語っています。

 

      

 

 対談が始まると、ひばりさんからいきなり「移動中の車のラジオで『高校三年生』を聴いたのね。あの時、風邪ひいてたの?」とおっしゃるんで、「いえ、地声ですよ」って言うと、「あ、そう。あれが地声なの。この子可哀そうに、風邪ひいてレコーディングしたんだって思ったの」ですって。当時は鼻にかかって甘いところがあったじゃないですか。それで、そう思われたんですね。

 

 インタビューでは、①ひばりさんをどう歌われますか ②ひばりさんの歌の特徴は?  

 ③コンサートの選曲・構成で気を使った点は?」という3つの質問に対し、①については「ひばりさんの歌を歌うポイントは、ひばりさん特有のファルセット(裏声)の部分を自分の地声でやったらどういう作りになるかということです。女性の場合は、ファルセットを持っている歌い手さんならなぞってもいいけれど、男の場合はなぞれませんから。それに加えて、ひばりさんは下から上まで全体に声の太い歌い手さんですから、その辺をどう自分の個性に合わせていくのかということでしょうね」。

 

                         

 

 ②に対しては「ひばりさんはヘビーな歌い手さんだと思われているフシがあるんですが、僕の中のひばりさんはもう少し軽いんですよ。ライトなものを歌うひばりさんがすごく好きでした。軽いものを実に小気味よく聴かせてくれる歌い手さんなんです。今回のコンサートで『ひばりのマドロスさん』はじめマドロスものを並べたあの辺の歌とか、『車屋さん』の周辺にまとめた歌。ああいう歌はひばりさんじゃないと歌えないんです」と答えました。

 

                          

 

 ③については「あの歌が入っていないということがあるかもしれませんが、僕の中のひばりさん像というのを一番大切にして選曲しました。その意味でラストブロックの『越後獅子の唄』から『人生一路』までの7、8曲が、僕がこれこそひばりさんだと一番強く思っているものです。構成面では『 みだれ髪』と『悲しい酒』を他の曲とはっきり分けて置いた点ですね」と答えています。

 

                          

 

 元「平凡」編集長・高木清さんの「舟木一夫 あの日、あのとき…」によると、舟木さんとひばりさんの初対談の時、ひばりさんは①デビューの時の気持ちと歌い方は絶対に変えてはいけないこと、②時代劇は踊りを習うと腰がすわって型が決まっていいこと、③元気の秘密は何より健康が第一…などと自らの経験を交えながら姉が弟に優しく諭すように話していたと言います。対談の時は舟木さん19歳、ひばりさん26歳、武彦さん20歳でした。

 

初対談時のひばりさんと舟木さん。二人とも若い!!

 

 この対談から約1か月後、日本コロムビアのイベントで舟木さんはひばりさんらと北海道に行きました。行きの飛行機で隣に座った舟木さんにひばりさんが「この字、なんて読むの」と尋ねてきました。舟木さんは若輩者に素直に聞けるひばりさんを“素敵な人”だと思いました。そんな二人でしたが、舟木さんが1966年10月に大阪・新歌舞伎座で初座長公演を行った際、ひばりさんも同じ大阪・梅田コマ劇場で「お七かんざし」「‘66ひばりのすべて」の1か月公演を行っていました。週刊誌は「先輩後輩の“直接対決”」と騒ぎましたが、舟木公演も連日補助席が出る超満員状態でした。

 

  

 

 舟木さんが19歳か20歳の頃と言いますから、ちょうどこの時期だったと思います。仕事で日活から日本テレビに車で移動する途中に新宿近辺に来た時、舟木さんはひばりさんが新宿コマ劇場に出演していることを思い出し、マネジャーに確認してもらったうえで、アポなしで3分だけ寄ってみようということになりました。ひばりさんは当時、毎年1回、新宿コマ劇場で公演を行っていました。舟木さんが楽屋を訪ねると、ひばりさんはきつねうどんを食べている最中でした。部屋にはファンから届いた花の鉢植えが点々と置かれていたので、舟木さんは勝手に化粧前に寄せたりして、結局、15分くらいお邪魔することになりました。

 

1960年2月の歌舞伎町。左が新宿劇場、右が新宿コマ劇場(Wikipediaより)

 

 私が舟木さんに「7歳年上の先輩への接し方ではないでしょう」と向けると、舟木さんは「先輩として大いに尊敬しているからこそなんです。歌で分からないことがあったら、三橋(美智也)さん、時代劇について教えてもらいたいことがあったら長谷川(一夫)先生や(大川)橋蔵先輩に聞けばいいや…と。後輩としてはむしろ当たり前だと思うんですよ。僕も後輩に遠慮されているかも分からないけれど、誰かのそばに寄るのが怖いとか言っていたら話は前に進まないでしょう」という答えが返ってきた。理屈では分かりますが、なかなか実行出来ない舟木さんならではの行動です。

 

 ところで、ひばりさんは「演歌の女王」という呼ばれ方もしていますが、舟木さんはどう思っているのでしょうか。

 

 「ひばりさんは1949年、12歳の時に『河童ブギウギ』でレコードデビューして天才少女歌手と言われました。少女であろうと、戦後の若手の最初なんです。食べるものも着るものもロクにない時代にデビューしていらっしゃる。まさに大衆の中から生まれ、大衆に向かって歌い、大衆に熱狂的に迎えられた星です。『演歌の女王』と言われるのは嫌なのよっておっしゃっていましたし。庶民とか大衆に根差しているのが流行歌でしょ。ひばりさんをもっと楽に聴いてもらいたいですね」

 

     

     横浜・野毛にある映画デビュー当時の像   1953年の美空ひばりさん(Wikipedia)

 

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 ひばりさんの元夫の小林旭さんが今年5月14日に放送されたテレビ朝日系「徹子の部屋」に出演し、ひばりさんとの思い出を語りました。以下を参考にして下さい。

 

小林旭&美空ひばり
 
■1962年5月29日 二人揃って婚約発表会見
■1962年11月5日 日活国際ホテルで挙式(事
 実婚=籍には入っていません)
 

 
■1964年6月25日 事実婚を解消することになり、二人別々に記者会見。小林さんは午後3時から東京・上野毛の自宅で、ひばりさんは午後4時半から東京・新宿コマ劇場で。当時、小林さんの“理解離婚”と言われ、流行語にもなりました。

 

💛

 

 私は1986年8月16日、夕刊フジの記者として、東京都新宿区河田町にあったフジテレビの旧本社ビル地下1階の特別応接室で美空ひばりさんにインタビューしました。5月29日に発売され、味の素のCM曲としても話題になっていた「愛燦燦」(作詞&作曲・小椋佳)を盛り上げるという狙いもありました。応接室の周囲には電通、味の素、日本コロムビアの幹部ら20人近くが取り巻いていて、ひばりさんに初めましての挨拶をして始めましたが、さすがにこの“大群衆”の前でかなり緊張しましたね。下はその際のインタビューをまとめた夕刊フジ「ぴいぷる」欄の記事です。

 

      

1986年9月3日付の夕刊フジ「ぴいぷる」

 

ひばりさんのインタビューを納めたカセットテープ

 

 ひばりさんは部屋に入られる際、杖をつかれていたので「大丈夫ですか?」と声を掛けたら、日本コロムビアの森啓(もり・あきら)ディレクターからは「ゴルフコンペのプレー中に腰をひねって痛められて…」という話でした。毎年5月29日の誕生日にゴルフコンペを開かれていたので、その時は軽く流していました。しかし、後で知って驚きました。病状はすでにかなり悪化していたんですね。それでもインタビューでは、仲が良かったタレント・とんねるずとの裏話、相次いで亡くなった母、二人の弟のことなどを率直に話され、インタビューは結局、50分近くにわたって行われました。その時の模様はカセットテープに収めて保管しています。私の宝物です。

 

                          

ひばりさんの東京ドーム公演

 

 ひばりさんはこのインタビュー後、1987年12月10日に、公開レコーディングした「みだれ髪」(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)をリリースされ、1988年4月11日には東京ドームで全39曲を熱唱した“不死鳥コンサート”を開かれました。一番上の写真はその際のパンフレットです。そして、1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の悪化による呼吸器不全併発のため、東京都文京区の順天堂大学病院で亡くなりました。52歳とい若さでした。ひばりさん死去は下のように一般紙、夕刊紙とも1面トップで大きく報じました。奇しくも、2年前の1987年7月17日に慶応義塾大学病院でがんのため亡くなった石原裕次郎さんも52歳でした。

 

  

 

      

 

音譜 音譜 音譜

 

 日本コロムビアによると、録音台帳上に「二人きりで」と記載され、「作詞・藤浦洸、作曲・原六朗、編曲・松尾健司」となっています。ひばりさんが18歳の1956年2月10日に録音されたものでした。下は日本コロムビアの公式プレスリリースです。

 

 

         「akiraの徒然日記」には、ひばりさん・ゆかりの地をご紹介しています。

 

 

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 舟木一夫連載は「和泉雅子」            

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連載「決定版 舟木一夫 出会いと別れの80年」の第17回は、7月9日に一周忌を迎えるマコちゃんこと和泉雅子さんです。