オクサーナ・バイウル  1994年のリレハンメル・オリンピック。ケリガン襲撃事件の影響で世界中が注目していた女子シングルを制したのは、ケリガンでもハーディングでもボナリーでもなく、ウクライナの16歳の少女オクサーナ・バイウルだった。

 3歳のときに両親が離婚。父親はそのまま蒸発した。祖父母も10歳の時に事故で他界した。唯一の心の拠り所だった母親も、13歳の時にガンで他界…。完全に身寄りを亡くし孤独になった彼女を、当時のコーチまでが見捨てた。
 寂しさと悲しみを忘れるため、まだ子供の彼女は毎日泣きながらスケートを滑り続けたという…。しかし、そんな彼女の才能を有名なコーチ・ズミエフスカヤが見初め、彼女の身の上を知るや否や、彼女を養女として引き取り、本当の娘のようにかわいがり、育てたのだという。
 そして、1992年。15歳の彼女に、転機は突然訪れた。シャープなジャンプにバレエで研ぎ澄まされた抜群の表現力。-彼女の才能に惚れこんだアルベールビルの金メダリスト・ペトレンコが、彼女に試合に出るように勧めた。
 バイウルはそれまで、公式の試合には一度も出場したことがなかった。貧しさゆえに、自分のスケート靴すら持っていない彼女に、コスチュームを買ったり振付師を雇うお金など、あるはずがなかった…。
 しかし、バイウルなら世界の頂点に立てると確信したペトレンコは、彼女を全面的にバック・アップする。スケート靴を貸し、コスチュームも知人にお願いしてただで作ってもらい、さらには振付師まで自分で雇った。
オクサーナ・バイウル  こうして、初めて公式試合に出場したバイウルは、まったくの無名にも関わらず、国内選手権で優勝。欧州選手権で2位。さらには、そのシーズンの世界選手権まで制する大活躍を見せた!

 彗星の如く、突如現れた無名の若手選手に、フィギュアスケート界は沸いた。翌シーズン、リレハンメル・オリンピックをシーズン終盤に控え、バイウルは昨シーズン同様の好調を維持し、金メダリスト候補No.1としてオリンピックを迎えるはずだった。
 しかし、そんな最中、アメリカでケリガン襲撃事件が起きる。ハーディングの関与が取りざたされて、事件はどんどん大きくなり、メディアの焦点は、昨シーズンの世界チャンピオンよりも、ケリガンとハーディングの直接対決の方に完全に移ってしまった。

 結局、ほとんど注目されることもなく、オリンピック本番を迎えたバイウル。本来なら、金メダル争いの中心的人物として紹介されるべきなのに、ほとんどのメディアが、ケリガンを金メダル候補の筆頭に推し、バイウルは伏兵程度にしか扱われなかった。
 SPでも、黒鳥に扮して華麗に氷上を舞い、ノーミスで滑ったにもかかわらず、激甘の採点をもらったケリガンの前に屈し、首位発進はならなかった。

 そんな中、彼女をアクシデントが襲う。フリーの前日の公開練習で、ドイツのシェフチェンコと衝突。シェフチェンコのスケート靴のエッジが右足首に刺さり、3針縫うケガを負ってしまったのだ。
 丸2日、ほとんど練習できていない状態で、足首に痛み止めの注射を打ってリンクに上がったバイウル。最後までアクシデントが付きまとった。彼女の前に滑ったケリガンの演技終了後に、リンクに投げ込まれた花束が氷上に散乱し、なかなか演技を開始できなかったのだ。
 完全に途切れてしまった集中力を必死で取り戻そうと、顔をこわばらせる彼女。右足首の包帯が、本当に痛々しく見えた…。名前をコールされ、両手を挙げて歓声に応えた彼女は、静かに滑り始めた。
オクサーナ・バイウル  大好きなミュージカルの音楽に合わせて華麗に滑り、最初のルッツを飛んだ。高さはあったものの、ランディングで流れが止まり、コンビネーションにすることが出来なかった。しかし、その後も、フリップ、ダブルアクセル、ループ、サルコーと、確実にジャンプを決めていった。
 終盤に入り、足首に打った麻酔が切れ、スピードが鈍り始める。3回転+3回転を予定していたコンビネーションジャンプも抜けてしまった。「このままでは負けてしまう…。」-そう思ったバイウルは、自らの判断で、プログラム終了直前に、ダブルアクセル+ダブルトゥのコンビネーションを飛び、強烈なアピールをもって演技を終えた。

 プログラムが終わったと同時に、張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、安堵の笑みがこぼれる。あとは、ジャッジの評価を待つばかり…。
 表現力という点では、彼女の右に出るものはいない。しかし、ジャンプという要素では、ケガの影響もあり、少しケリガンより分が悪いように感じられた。
 Kiss&Cryでズミエフスカヤコーチに抱きしめられ、子供のように泣きじゃくるバイウル。そんな中、技術点が表示される。5.4~5.9と完全に点数が割れ、やはりケリガンより低めの配点だった。そして、芸術点…。5.9がずらっと並んだ。5対4。ジャッジは、バイウルを勝者に選んだ。

 劇的な逆転で金メダルを獲得したバイウルは、ようやく世界中から認められ、一躍フィギュアスケート界のヒロインになった。
 表彰式後の記者会見では、そんな彼女の金メダルを妬んだケリガン派のアメリカ記者から、「16歳で金メダルなんか取って、人生うまく行きすぎだとは思わないか?」という意地悪な質問もなされた。これに対し、バイウルはその記者をじっと見つめ、「あなたに私が今までしてきた苦労の何が分かるというのですか?」と答えたという…。
 それでも、「今一番欲しいものは?」と聞かれ、「木箱に入ったチョコレートが欲しいわ。とっても貴重なものなの。」と微笑んで答えた彼女は、やはり貧しい国に生まれた幸薄い、一人の普通の少女に過ぎなかった。
 恐らく、そんな彼女の獲得した金メダルは、オリンピック史上最も熱い金メダルだった。

 ここまでなら、バイウルの物語はハッピー・エンドで終わりなのだが、彼女の人生はその後も苦難の連続だった。

 オリンピック後、バイウルは悩んだ末、94年10月にプロ転向を決め、単身アメリカに渡る。ウクライナでコーチ活動を続けるズミエフスカヤコーチとは訣別。オリンピックを制し莫大な富を得た彼女は、それと引きかえにまたもや大事な家族を失ってしまった。
 それでも、プロ転向最初のシーズン(94-95年)は、素晴らしい演技で世界中のファンを魅了し、彼女は一気に全米人気No.1プロスケーターに登りつめた。
 さらに莫大な財産を得、豪邸を手にした彼女の人生の歯車は、ここからまた、徐々に狂い始める…。

オクサーナ・バイウル  95年のオフシーズン、バイウルは徐々にスケートリンクから遠ざかっていく。
 本来ならリンクで練習しているべき時間に、友人を自宅に呼んで、豪華なパーティを催すようになった。とにかく孤独感を感じていた彼女は、そうすることで寂しさを紛らわそうとしていたのだ。しかし、彼女のもとに集まる友達は、みんな彼女のお金目当てで、彼女の孤独感を癒すことはなかった。
 オンシーズンに入ってからは、練習不足のためにミスが目立つようになった。ジャンプは軸がぶれ、スケーティングも滑らかさに欠けた。そんな彼女の成功を妬む他のスケーターたちは、わざと彼女に聞こえるように陰口を叩いた。
 この頃の彼女は、口癖のようにこう言っていたという。「私は、オリンピックチャンピオンなんて呼ばれたくない…。みんなにも、私が普通の女の子なんだって分かって欲しいのに…。」
 完全に孤立した彼女は、すべてに失望し、毎晩一人になってから、大量のウォッカをあおるようになった…。

 翌シーズン(96-97年)、彼女のスケーティングは、誰の目から見てもおかしくなっていた。ジャンプだけでなくスピンまでふらつき、ステップもたどたどしい…。ファンも彼女を心配そうな目で見つめるようになった。
 そんな中、1997年1月。世界中で衝撃的なニュースが報道された。
「オクサーナ・バイウルが飲酒運転で事故!」
 180キロもの高速で木に衝突して、車は大破。それにもかかわらず、かすり傷程度のケガしか負わなかった彼女は、まさに幸運だった。
オクサーナ・バイウル  この事故で、自分が間違った道を歩んできたことに気付いた彼女は、記者会見を開き、アルコール依存症になっていたことを告白した。これからリハビリセンターに通い、克服しようと決意していることも…。
 「もうお酒は飲まないわ。命は、お酒よりずっと大事なモノだって、ようやく気付いたの。」-彼女は、一ヶ月間リハビリセンターに通い、依存症を克服。スケートリンクに帰ってきた。

 それから、心を入れ替え、またスケートへの情熱を取り戻した彼女は、練習に打ち込むようになる。芸術性を重視した、自分だけの世界を確立したプログラムを作るために、ひたすら練習に励むようになった。
オクサーナ・バイウル  97-98シーズンからは、それまで以上に積極的にプロの試合にも出場するようになった。結果はいまいちパッとしなかったが、現役時代とまったく変わらない彼女らしいスケーティングを披露し、事故以来彼女のことを心配していたファンたちを安心させた。
 このシーズン、自分のスケートに自信を取り戻し、長野オリンピックを観戦した彼女は、爆弾発言をする。なんと、アマチュアに復帰して、ソルトレークシティ・オリンピックを目指したい、と言い出したのだ。
 今でも自分の技術は世界に通用する。自分より年上のマリア・ブッティルスカヤや同年代の陳露が、堂々と世界のトップ争いを演じていることに触発され、ぜひもう一度アマチュアで戦ってみたいと実感したのだという。これは、彼女が再びスケートを楽しみだした証拠でもあった。
 結局、プロスケーターのアマチュア復帰を認めないルールが改正されなかったため、この夢は潰える形になってしまったが、バイウルは今でもスケートを愛し、滑り続けている。彼女にとって、スケートは人生そのものなのだ。
 そのことは、次の言葉が証明している。

「私は、氷の上で生まれたようなものなのよ。
これからもずっと滑り続ける。
そして、氷の上で死ぬわ。」

オクサーナ・バイウル