レオーノフは「ドストエフスキーの弟子」として文壇に登場した。
彼自身がそういったのではなくて、文壇の長であるゴーリキーがそういった。
人間の苦悩や矛盾にたいして異常な興味を示し、そこを起点にして登場人物の心理へと深く切り込んでいく彼の作風が、ドストエフスキーを思わせたからである。
レオーノフの父は、農民出身のジャーナリスト。
レオーノフは1899年にモスクワで生まれた。
つまり十代最後の時期で、革命と内戦に巻き込まれている。
彼は中学を卒業して赤軍に従事し、内戦が終結した後はモスクワで作家になった。
彼の作品には、都市と農村との対立関係が強くでている。
代表作「穴熊」1925年
内戦時代の、赤軍と反乱農民との闘いを描く。
農民はいう「おれたちは土地だ。そして俺たちは都会を破壊するのだ。」
この作品で共産党は都会を代表するものであり、農村の生活を脅かすものとして農民たちから敵視されている。
この作品には印象的な挿話がある。それは農民の民間伝承として語られる。
「皇帝はすべての星に隊列を組ませ、森のあらゆる獣にパスポートを発行し、雑草という雑草を登録しようと望む。彼がこの目論見をやり遂げたとき、森は沈黙し、万物が哀しみにひたり、、云々」
長編小説「ソチ」
舞台は大自然。そこには旧教徒の教会があり、中世さながらの修道院があり、無知な百姓や迷信深い修道僧たちが昔ながらの信仰を守ってくらしている。
そこに、五か年計画として数千人の労働者と技師がはいってくる。
森を伐採し、河を堰き止め、ダムの建設がはじまる。
開拓者VS修道僧・農民の争いがはじまる。
「共産主義は虚偽の文明もろとも滅び去り、その廃墟のうえに穀物が自由に豊かに実るだろう…」
開拓者たちにとって真の手強い敵は、農民ではなくロシアの大自然であった。
彼等は生い茂る森林や荒れ狂う河を、一寸ずつ征服してゆかねばならない…
長編「ロシアの森」(1953年)でも同じような主題が繰り返されている。
愛国者であり、自然を生命の源泉として愛する科学者ヴィフローフの人物像は、後の農村文学にも影響を与えた。
彼は作品中に、30ページにもわたって「森林保護論」を語ったりする。
(この作品は、エコロジカル文学批評で扱われて然るべきかもしれない。)
「理性」と「自然」の対決。
「個人の権利」と「集団主義」との対決。
ここでもレオニードフ文学のテーマが深められている。
ソビエト時代、「全国の電化」政策とか、鉄道の建設とか、巨大ダムや巨大工場の建設などによって、ロシアの自然は急速に失われていった。
当然、自然のなかでロシアの農村の伝統を守ってきた人達の生活や精神文化も、失われていった。
文学はその声を拾い上げようとする。
1860年くらいから農村出身の作家たち、農村派が出てくる。
そしてレオーノフは農村派の先駆者として位置づけてもいいのではないかと、僕は思っている。