おはようございます!!
本日も大晴天の石垣島です(≧▽≦)
本日は竹富島にて染物体験に参加する予定なので少し早めにブログをアップし、お出かけしてきま~す♡
他にも色々と参加できるコースがあるようなので、染物を変更する可能性もあります(^o^;)
(カメラは持って行きませんが、スマホでパシャパシャ出来ればブログに載せますね^^)
それでは昨日の続きです!!
いきなり朝食の画像ですが、昨日泊まったホテルはダイワロイネットホテルです!!
まーいわゆる普通のビジネスホテルみたいなものですが、すごく部屋が綺麗で広かったです^^
朝食はもちろんパンなども有りましたよ!ちなみにこの写真以外に、コロッケカレーを食しました(^o^;)
今回の旅行は基本野暮用旅行だったので、一応カメラは持って行ってましたが、観光などに出かけるつもりはなく、国際通りをプラプラ~の予定だったのですが、あまりのお天気に・・・
急遽最寄りのレンタカー屋で車を借りる事とし、やはりドライブにゴーです(≧▽≦)ヤッパリネ
ゆいレール、県庁前駅からの風景!
こちらが首里城号!(≧▽≦)
ドライブへゴー!と言っても、飛行機の都合で15:00返却と言われたので、正味4時間です!
北の方面へ行く勇気もなく、南部エリアの方を・・・
最初に訪れたのはこちら!!
南城市にある知念岬です( ´艸`)
よく沖縄本島の方に、離島に比べたら本当の海の青さなんて、全然ダメですよ!!とか言われますが、何が何が!まったく引けをとらない美しさですよね!
本島の方!もっと自信を持って下さいね(。・_・。)/
そして南部エリアで絶対外せない必ず行きたかった場所!琉球国王も参詣されたという聖地!!
斎場御嶽(せーふぁうたき)
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近年パワースポットとして多くの観光客が足を運んでいると思いますが、心構えがなっていないということで、私のブログにも敢えて心構えを載せます!!
心構えは整いましたか?
はい、それでは進みます!
祈りの写真撮影のみ禁止されているので、祈りの写真以外は撮影して来ました。
御門口(ウジョウグチ) 参道の入口です。
要するに、この先には一般の人は入れなかったんですね・・・。
大庫理(ウフグーイ)
艦砲穴(かんぽうあな)
寄満(ユインチ) 王府用語で台所の意味。
三庫理(サングーイ) 大きな二つの石灰岩が支え合うように聳える先に見える空間が拝所。
拝所側より東方、久高島(神の島)を拝します。
シキヨダルとアマダユルの壺:聖水を受ける壺
降った雨水は珊瑚の岩で濾過され、1ヶ月の歳月をかけポタリポタリと二つの壺に溜ります。
この斎場御嶽に来られる方で、霊感が強い人は嘔吐するとか、頭痛がするとか・・・
決して霊感が強いと思ったこともなければ感じたことのない私や奥さん。。。
私は奥に行けば行くほど頭痛がひどくなり、入口で頭が痛かった奥さんは、奥に行けば行くほどスッキリしてきたと・・・
あまり深くは考えないでおこう・・・。
斎場御嶽で感じたこと。
伊勢神宮の内宮へ向かう森の中の匂いや空気感が、とても似ていると思いました。
なにか通じるものがあるのか。。。
斎場御嶽を後にし、13:00を回ったということでお昼を・・・
15:00には車を返却しなければいけないが、どうしてもあと一ついきたい所があるので、手っ取り早く済ませたい!
そこで向かったお店はこちら!!
斎場御嶽から国道331号線にぶつかった正面に位置する『くだか島』さん!!
メニューはこちら!!
注文したのがこちらの手作りカレー
こちらは、野菜そばジューシーセット
皆さん。。。こちらのお店・・・行ったことありませんか??
大変申し訳ありませんが・・・
めっちゃ美味いです!!( ̄□ ̄;)
私は朝9:00からコロッケカレーまで食べて、13:00でもあまり食べられない位のお腹で・・・
こんなに美味しいと感じるってことは、本物だ!!
この野菜そば!!!
私が大好きな石垣島の明石食堂の野菜そばより・・・
おいしい~~~~~かも~~~~
こ、こ、こんなお店があるとは!!!!!
まじで衝撃をウケました!!
恐るべし沖縄本島・・・( ̄□ ̄;)
この先。かなり内容が重いです。ご注意下さい!
さてお腹も大満足し、ニライ橋カナイ橋を渡って向かった先は・・・
旧海軍司令部壕
です。 ←ポチッと
昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われて います。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、昭和45年(1970年)3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました。
まず最初に資料館で、壕内で発見された戦争当時の遺品や戦争関連資料等を見学し、壕内へ向かいます。
長く続く階段。約20m地下に下ります。
大田實司令官が海軍次官に宛てた電文。(現代文訳)
昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
(この電文は原文を現代文に直したものです。)
沢山の方々が、この壕の中でどんな思いをして過ごされていたのか・・・
本当に胸が苦しくなります・・・
原爆に比べると沖縄戦の悲惨さを学ぶ機会はあまりないので、是非足を運んで頂きたいです。
決して軽い気持ちで立ち寄れる場所ではありませんが、戦争の悲惨さや痛々しさも感じられる場所です。
是非肌で感じて欲しい施設です。
この後は、車を返却し空港へ送迎してもらいました!
まだまだ沖縄本島の知らない場所も沢山あるので、1週間程掛けて必ずまた来たいです!!
1泊2日の野暮用旅行記に長々とお付き合い頂きまして、ありがとうございましたm(__)m
【石垣島】の良さを広めるため、いろいろ参加していま~すm(__)m
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