大学時代の旧友から久しぶりに電話がかかってきた。彼とは部活が同じで共に音楽の道を志した仲間だ。昔話や近況を語りあい、「お互い変わらずどうしようもないな」なんて笑いあった。彼は大学を中退し、音大へ入り直し圧倒的な努力の末、プロの楽器奏者になった。けれど、この昨今のコロナ禍の事情もあり、現在は音楽業を断念し会計士を目指しているそうだ。

 

私はプライドの塊だった。これまで他者や自分自身との関係に多いに悩んできた。自我の壁、心の壁が分厚過ぎて、他者と本心から打ち解けるということが極端に少なかったように思う。それはある意味、傷ついた自分を守るための必要な自己防衛本能だったのだろう。しかし、それは同時に深い孤独をもたらした。

 

その旧友との関係もそうだった。プライドが邪魔をして本音を言えず、距離を感じていたのだ。彼を音楽の道に誘ったのは自分だし、ある意味、私は彼の人生を変えてしまったのではないかとひそかに引け目を感じていた。

20数年の付き合いの中にはそんな長い間解けなかったわだかまりもあった。けれども今回しばらくぶりに話すことができて、そのわだかまりがほぐれたような気がした。私と言えば自分の実力や体力に限界を感じ、どん底の状態であった。変にかっこつけている場合ではない。そんな時、彼からの電話があり、それは私にとって救いとなった。

 

お念仏の道は、何か知識や教養を身につけて、賢くなって助かる道ではない。むしろそういった身にまとったものやプライドが剥がされて、落ちて救われる道だ。裸の心、素直な自分の心に返っていくということではないだろうか。

 

法然上人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」という言葉を残しておられるが、それは自分の限界や、ろくでもなさを知るということ、どん底の私を知らされ、そうやって落ちていった先に安心の大地があるということではないかと思う。

 

プライドが高ければ高いほど、他者と同じ地平には立てないのだろう。私たちは自分の愚かさなんて知りたくない。善人でいたい。「この人よりマシだ」なんて心の中で思ったりする。けれど、そうして他者との関係は閉じられていくのだろう。

 

愚の自覚が、他者との出遇いにつながる。心を同じくする朋友に出あう。表面上の付き合いでなく、心の交流を取り戻す。それが心に温もりや明るさをもたらす。お互いどうしようもないなと認め合って生きていければ、私たちはもう少し分かりあえて、もっと明るく生きられるのではないか。そうやって最底辺の自分と向き合ってくれる人を朋(とも)というのだと思う。