今日は満中陰のお勤めだった。

僕はお坊さんだけれど、話が極度に苦手で、つくづく法話には向いていないのです。

いつも緊張する。これまで本当にしゃれになってないくらいいつも緊張していた。

 

頭真っ白になって、「アワ。。アワ」と何を言ってるか分からなくなり、そのまま終了してしまうこともあった。

本当に向いていないのだなと思う。こんなんでお坊さんやってていいんだろうかといつも凹む。

 

僕はもともと儀式を行うことよりも、教学、教えを聞くことや、勉強することにばかり注力を注いでいた。

そして文章を書くことにかなりの重きを置いていた。(冊子にコラムを書いているため)

 

なぜ念仏なのか、なぜ南無阿弥陀仏なのか、救いとは何か、とか宗教哲学的なことばかり考えていたので、

正直、法事などで勤められる儀式や法話はほぼ全くできない。挨拶ですらなかなかあやしい。

 

それにもともと話するのは苦手なほうだし、鬱も長いこと患っていたので、社会人としての基本的な会話すら最近まで出来ていなかったと思う。

 

海外で布教していたころは、原稿を英語で一週間かけて書き、英語の先生にみてもらい、それを日曜日に読み上げるというスタイルだったのでなんとか出来ていた。それは僕のスタイルに合ってたなと本当に思う。

けれど日本に帰国してから、それは通じない。紙を読み上げるのはなかなか法事では出来ない。

 

だから何度も話す練習したり、話をうまくまとめたり、色んなことしたけれど、いざ話そうと思うと本当に喋れない。

 

今日は緊張にもだいぶ慣れたせいか、以前に比べだいぶ落ち着いていた。もしかしたら何か話せるのではないかとちょっと試してみたものの、面白くなさそうな暗い顔をされたので、やはり断念した。

だから僕はもう法話をしない。お話を聞くことしかできない。それでいいのだと思う。あれだけ苦しんで、色んなことトライしてやってみたのに、いまいちな反応をされるのは、僕の法話の内容や、話し方に根本的な原因があるのだとおもう。

仏教の話をするのに、なぜこんなに苦しまなければならないのか。だからもう僕は法話を断念する。

法話をしよう、しなければ、と考えすぎたりすると、余計プレッシャーがかかるし、聞いている方も苦痛だろう。

 

ただ、読経は頑張る。話も聞く。その二つなら僕は出来る。