私が高校3年の途中まで住んでた小倉の町について。

住んでた町は中井、
小倉でも西側の戸畑より、なので当時の八幡製鉄所に近い。

近くには何本もの高い煙突から一日中休むことなく始終煙が、
空は夜になっても真っ赤に明るい、溶鉱炉の鉄が空に反射してるから。町全体はどこもが鉄色の赤茶けた色。

いかにも空気は悪そう。これに時々中国からの黄砂も来るからたまったもんじゃない。

丁度今入院している川崎病院の近くもそんな感じだったのではないかな?

こっちは日本鋼管だったけど。

昭和の重工業時代の中心のひとつ。

長崎の原爆は、本当は八幡製鉄所の小倉に落とされる予定だったのは有名な話し。

だとしたら、私は生まれていなかったかも。

今でも、その当時住んでいた団地はそのまま残っている。(Google航空写真でしっかり見えたのには感激)
近所の同級生の吉永小児科もそのまま。懐かしいというか、町全体の進歩が止まったままというか。

下関も同じ様に歴史が止まってしまった町のように感じた。


ラジオは日本語放送を探すのが大変。つまり、韓国語放送が多かった。

夏の夜になると、日本の盆踊りとはかなり異なるリズムの民族音楽があちこちから響いていた。

部落という言葉がまだ使われていた時代。(今は差別用語として使ってないはず) 近所にもあちこちにそういう所があったし。友達もいた。


僕が住んでた当時、小倉の町はまだ賑わっていたように思う。

広島の山*組の抗争事件で、その関係の方が、たくさん小倉に移住して来た(笑)という話を聞いたことが有る。

競艇、競馬、競輪 、風俗、ネオン街なんでも有りだしね。

しょっちゅう、町の中はドンぱち。

銀天街、紺屋町はビッチリ決めたスーツ姿の御一行さまがあちこちに。という感じでしたよ、本当にまじで。

母の弟、一行おじさんも紺屋町界隈にスナックやクラブを数軒やってたので、中学、高校時代にはすでにこの手のお店は常時ただでお世話になっていたf^_^; とっくに時効成立 )

小倉駅周辺には月世界を始めたくさんのキャバレーがあった。

バンドマンもたくさん町の中にいたなー。 友人も何人かバンドマンになった奴がいる。 Jazzは居なかったけどね(笑)

とにかく町全体に活気があった様に思う。

町の中はなぜかたくさんの丸源ビル、南国ビル、花菱ビル。

路面電車、銀天街、旦過市場
祇園太鼓、小文字焼き、
八坂神社、ダイエー、玉屋、
小倉城の敷地内にもジェットコースターがあった。
小倉駅の海側には大きな展示場があって中国物産展の記憶が。

小倉の町の雰囲気を堪能したのは高校生活の約3年弱だけど、シッカリと記憶に残ってる町である。

元気が出たら、昔の軌跡をたどりに訪れようと思ってる。

その時は、小倉に残ってる末っ子弟、稔君の世話になり小倉の町の美味しい物も食べにね。

だって、普通高校生分際では美味いもの食えるはずないもんね。

小倉の美味いもんて、あまり知らないのが本音!






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