
音楽による一種の宇宙論
第3交響曲は、音楽による一種の宇宙論として構想された。コンスタンティン・フローロスが3巻のマーラー評伝で詳しく述べているところによれば、マーラーと親交のあった詩人、ジークフリート・リービナーの1880年の詩『創世記』が、そのためのきっかけとして役に立ったという。第1楽章にもともと、マーラーは「パン(牧神)が目覚める━夏が行進する」という題をつけていた。そのゆっくりとした序章は、はじめ「岩稜が私に語るもの」という標題であった。すなわちここで、アッタ―湖畔に聳えるけわしい山々(地獄岳)が「曲にされた」わけである。マーラーはここで、生命なき自然からしだいに生命の力が目覚め、夏にその輝きの極限に到達して、対立と戦いに巻き込まれつつ発展するさまを思い描いた。マーラーのイメージによれば、以下の楽章はこの生命がいっそう発展し、より高次の形をたえず求めてゆく姿である。すなわち第2楽章は、「野の花が私に語ること」と名付けられ、第3楽章は、「森の獣が私に語ること」と呼ばれていた。また第4楽章は、「人間が私に語ること」と題されていたが、ここでは楽器に人声が、アルト独唱の形で加わる。アルトは、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』から、「真夜中の歌」のテキストを歌うのである。アルト独唱、女声合唱、児童合唱による第5楽章は、「天使たちが私に語ること」(詩集『子供の不思議な角笛』から、「3人の天使が甘美な歌を歌った」のテキストによる)。そして締めくくりの第6楽章は、ふたたび器楽のみで演奏され、「愛が私に語ること」と呼ばれていた。アンナ・フォン・ミルデンブルクに宛てたある手紙でマーラーは、この楽章を「神が私に語ること」と題してもよい、と述べている。なぜならば、マーラーによれば神は「愛」としてのみ、それも、官能的な意味ではなくすべてを包み込む精神的な意味での「愛」としてのみ理解されるからである。だが、ここで「神」がかかわってくるとはいえ、マーラーの「第3」は、キリスト教的な救済のシンフォニーとして構想されたわけではない。「天使」、「神」といった概念がここで意味するのは「超越」であり、この超越は、地上的な実存拡大する可能性をもった力、すなわち、目標とするに値する未来への窓と理解されるべきである。それは、あえていうなら、「希望の原理」とさえみなすことができる。
マーラーが見た世界、彼がこの交響曲において描こうとした世界は、こうした希望を必要としている。このことは、作品から完全に読み取ることができる。
🔹この曲には、実際に自分自身が人生において全く精神的にも非常に辛かった時や絶望的な心境に陥った時などに、この曲によって救われた経験があります。
特に、全曲の中の第6楽章は、とりわけマーラーの作品の中でもよく聴いた曲であり、一層思い入れの深い曲であります。
前述で述べた通り、最後は「闇夜が白々と明けてゆき、共に希望を見出す」というこの作品の根幹の意味するところの「超越」や「希望の原理」そのものが自らの救いをもたらしました。
決して、他の作曲家の作品を軽んじているわけではありませんが、この曲だけが自分を唯一、最後に救いをもたらす曲として今でも君臨している名曲でもある。
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