梅も桜も


共に


とても美しいです。




それぞれに
 
美しさが有り

優劣の付けようは

ありません。





梅の木。



我が家に在る梅の木が

私に

素晴らしいことを

教えてくれました。



2年前、

夫が

梅の木を

切った時

私は

もったいない...

そう思いました。


夫の目から見たら

「花の付きが悪い」ように

見えたそうですが、

私には

「普通に咲いている」ように

見えていたからです。

それに

梅の実がなり、

小さな梅は

小梅として

梅干しに最適でした。



梅の木を切って

昨年は

花が咲きませんでした。

もちろん

花が咲かないので

梅の実も

なりませんでした。




そして

今、

おそらく

梅の木を切る前以上に

花の蕾を

付けています。





その時に

思いました。




【ブドウの木の例えと同じだ】と。


僅かばかりのブドウがなる木。

そのブドウの木を

思い切り切った時

周りの人々は

散々に否定した...。

ところが

月日が経ち

ブドウの木は

切られる前よりも

遥かに多くの実を付けるようになった、と。







梅の木も

ブドウの木も

“意識の在り方”の

例えです。






私の意識にあった

それまで

気付かぬうちに

身に付けてしまっていた

観念や概念や

思いのクセ...

それらによって

私は

私の価値基準を定め、

私は

それによって

考えたり

感じたりして、

時々感じる“幸せ”を

こんなもんだ思い生きていました、ずっと。





ところが...

梅の木が

思い切り

切られたように





私が

苦しみのドン底を

体験している時

その時

まさに

自分自身の

観念や概念や

思いのクセが

切り取られていたのだ、と

思います。




苦しみの度合いは

私が

私自身の考え方に固執する程度に

比例していました。





肩書きや

経歴、

人からの評価、

何より

お金。


これが

私が

生きていく上で

何より大事で

執着していたもの...。




そこに

優しさや

思いやりや

温かさなんて

ありませんでした。




無いからこそ

苦しんでいたんだ、と

思います。



私は

【私を知らなかったから】

私は

生きていくための

幸せの価値基準を

全て

外側に求めていたのです。





梅の木が

バッサリ切られたように



私の観念や概念や

思いのクセも

バッサリ切られ...



梅の花の蕾が

たくさん付いたように、

私の中には

数え切れないほどの幸せが

溢れています。

それでも

自分自身を改善するにあたり

終わりはありません。



寒さの中に咲く

梅の花は

本当に美しいです。



熊本県合志市野々島

なぎの木整体

MOE